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【定年釣り師からの手紙】9月 夜釣り
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うだるような暑さだった。それでも川釣りに出掛けることがあった。雨が降らないせいで、どこの川も干し上がっていた。流れは、ちょろちょろで水は生温かった。汗だくになって竿を振るのだが、イワナ、ヤマメの魚影はなく、一匹も釣れない日もあった。この暑さだ。魚だって、どこか涼しい所に逃げ込んでるはずだ。
八月の末になっても、一向に暑さが衰える気配はなかった。しばらく川へ行ってない。なんのことはない。夏ばてで、釣りへの意欲がわいてこないのだ。そんな折に、友人のTから釣りの誘いがあった。海の夜釣りと聞いて、思わず食指が動いた。夜なら暑さを避けて、涼みがてらに釣りができるではないか。
いそいそと、Tの車に便乗して向かったのは、三陸の海辺の町宮古(みやこ)だ。宮古湾の藤原埠頭(ふじわらふとう)から、午後六時三十分の出船となっていた。まだ少し時間があった。
埠頭の船着き場に行ってみると、すでに顔見知りの連中が集まっていた。お互いに久しぶりの挨拶を交わしたり、にぎやかな話し声や笑い声が起こっていた。皆、張り切っているのだ。周囲は薄暗くなってはいるが、遠くの海の向こうは、ぼんやりとした明るさがあった。海面が陰るにつれ、淀んでいた昼の暑さは少しずつ引いていくようだ。
時間がきて総勢十人は、船に乗り込んだ。船は埠頭を離れ、沖を目指して湾内を滑っていく。空を染める夕焼けが、日没を告げていた。船が湾内を抜けると、陸地の明かりは遠くなり、いつの間にか見えなくなった。
時々、やんわりと風が頬をなでていった。涼しくて気持ちがいい。すっかり日が落ちて、船の周りは真っ暗だ。船は何所(どこ)へ向かっているのだろう。急に船足が落ちて、止まった。釣り場に到着したらしい。船上に、こうこうとライトが灯(とも)された。昼間のような明るさだ。いいぞ。と船頭さんが声を発した。
さぁ、いよいよ釣り開始だ。今夜の狙いはヒラメだ。船底の生簀(いけす)から、エサのカタクチイワシが各自に分配された。カタクチイワシの顎(あご)に釣鉤を突き刺し、泳がせてヒラメに食いつかせるのだ。
「来たぞ。刺身サイズだ」
さっそく、誰かが釣り上げた。いいぞ。やったね。おめでとう。と、周囲からお祝いの言葉が飛び交った。その時、今度は隣のTの竿が大きく引きこまれた。手頃な型のヒラメを手にした彼は、さも嬉しそうにニタリとした。あちこちでヒラメが釣れてるらしく、歓声が上がっていた。隣がまた、いいヒラメを釣った。わざわざ、こっちにヒラメを揚げてニタリとした。いいじゃない。と誉めはするが、正直内心は穏やかでない。ちっとも面白くないのだ。なんで、僕に魚信(あたり)がないんだ。
エサのカタクチイワシを、生きのよいのに付け替える。とたんに、トンと竿先が揺れグイと引き込まれた。竿を撥(は)ね上げると、一気に竿先がひん曲がった。来た。ガン、ガンと竿先がお辞儀をし、ようやくヒラメが海面に浮いてきた。でかい。すかさず隣のTが、タモ網ですくってくれた。やれやれ、これで胸のつかえが下りた。それから、ひとしきりヒラメが釣れた。そうこうするうちに、ぷつんとヒラメの引きが途切れた。誰の声もなく、船上は沈黙に包まれた。
イカ。とふいに誰かが叫んだ。海面がざわめいていた。おびただしいイカの群れが、イワシを追って海面にうごめいている。
あっと背後で声がして振り向くと、鉤に引っかかってイカがぶら下がっていた。透き徹(とお)った、美しい色のスルメイカだ。イカだ。イカだと皆は色めき立ち、俄に慌しくなった。気がつくと夜の海は、とっぷりと更けていた。
(作家/村田 久)
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