air BE-PALスペシャルコンテンツ

『春駒荘の人々』
第1話
寝待月夜の春駒荘

中元彩紀子

 夜になると部屋の窓を開け、階下の兄妹の話し声に耳を傾けるのが、この頃のぼくの日課だ。窓から首を出して下を見下ろすと、小さな足が四本、濡れ縁でぶらぶらしているのが見える。この頃の話題は主に天体の噂話だ。たとえば、地球は大きな袋の中でぐるぐると自転していて、その穴には無数の穴が開いている。一番大きな穴が月なのだそうで、日々形が変わるのは、その向こう側から誰かが覗いているからなんだそうだ。そんな子供らしい想像をして笑っている時もあれば、月が大きく見えるのは目の錯覚だけではなく、月の軌道が正確な円ではなく、地球との距離が常に変動しているからなのだ、といった雑学だったりもするから侮れない。窓辺で煙草を吸いながら、幼い彼らの会話に聞き耳を立てるのは、騒がしい日常を締めくくる儀式のようなものだ。

 ぼくの住むアパートは、心臓破りの坂上にある。隣の敷地には古い焼却炉があり、大家の婆さんが時折やってきて、枯葉や紙屑などの類いを燃やす。煙たいのも、疲れた日に長い勾配を上らなければならないのも仕方ない。家賃が安いのは、そのおかげでもあるからだ。去年の春に取り壊しになった前のアパートは、ここから二キロほど西にあったが、今はコインパーキングになっている。

 芝居の脚本を書いてる、と告げると、その不動産屋はとたんに表情を曇らせ、物件を探す手を止めた。ならここしかないよ、と紹介されたのが今のアパートだ。鍵を渡されて一人で内見に向かったぼくは、一目でそこが気に入った。確かに坂道はきつかったが、上り終えたところで振り返ると、ぽつぽつと燈を灯し始めた町並みが眼下に広がっている。すぐ右手に建つ安アパートの入り口に、『春駒荘』とある。一階に三つドアがあるから、全部で六世帯の二階建てアパート。その二階の奥の角部屋が、ぼくの目指す部屋だった。入って窓を開けてみる。通りに沿って整然と立ち並んだ無数の燈と、その向こうを虫のように這い進む私鉄を見ているぼくは、難攻不落の古城をたった今落としたばかりの若将だった。住み慣れてしまえば、ただの条件の悪い物件でしかなかったわけなのだけれど、ともかくぼくの新しい住処はこうして決まった。

 ひと月も過ぎないうちに、ぼくはこのアパートの住人の顔を憶えた。手狭なアパートだから、住人はすべて単身者だと思っていたのだが、階下にはぼくと同じ年くらいの佐伯さんという女性が子供たちと三人暮しをしている。それ以外は単身者だ。解体屋の若者、タクシーの運転手、吃り癖のある浪人生、スナック勤めの女。もっともこの真弓さんという水商売の女性は、年中男を連れて帰ってくるから、独り住まいともいえないのだが。

 「あの運転手のおっさん、夜んなると壁の向こうで聞き耳立ててんのサ。まったく金払えってのよ」
 引っ越して来た翌日のこと。アパートの階段下でばったり会った真弓さんが、ぼくに向かってそう言うと、おめぇみたいなアバズレの声なんか金貰っても聞きたくねえってんだよッ、と怒鳴る声がする。真弓さんの部屋の隣からだった。 
 「だったらなんでアバズレだって分かんのよねぇ、」
 苦笑するしかないぼくに、真弓さんは笑ってそう言ったが、急に表情を変え、あの二人見て、と囁いた。振り返ると通りの反対側を二人連れの男女がもつれながら上ってくる。どうもケンカをしているようで、男が時折怒鳴り声を上げ、女の頭をはたいている。女の方も負けじと言い返すのだが、男の力にはかなわないらしく、腕をつかまれ無理矢理歩かされている。じっと眺めているぼくらになど目もくれず、やがて大家の焼却炉前までくると、テメェみてえな女は燃やしてやるッと言い、男は女の髪を掴んで、焼却炉の口に押し込もうとしている。ギャーギャーわめく女に引っ掻かれて、男の誹りも激しくなる。

 「警察呼んだほうが、」
 慌てて部屋に戻ろうとするぼくを、真弓さんが制止する。でも、と言いかけた時だった。ぐぁっという短い声とともに真弓さんがアゴでしゃくった先を見ると、男が股間を抑えて道路に転がり、うんうん唸っていた。女は持っていたバッグで男の頭をボカボカ殴った後、踵を返して坂を降りていった。真弓さんはお腹を抱えて笑っている。業を煮やしたぼくが男に近寄って、大丈夫ですか、と尋ねると、大丈夫なわけがねぇ、と途切れ途切れの返事が返ってきた。結局、途中から様子を見ていた二階の浪人生が持ってきてくれた氷嚢で、なんとか落ち着きを取り戻したのだが、そうなるときまり悪くなったのか、男は無言で立ち上がり、小さな声でぼそっと、見せもんじゃねえんだよ、とつぶやいて坂を降りていったのだった。

 「ほっときゃいいのに、あんなの」
 「お、お、女のあなたには、わ、わかりませんよ」
 そう言って浪人生は部屋へ戻っていった。
 「あんた越してきたばかりだから知らないだろうけどさ、さっきみたいな騒ぎはしょっちゅうなんだよ。こないだなんかは、あんたの隣の部屋の解体屋、ウチん中でキャンプやってボヤ出したからね」
 「キャンプ、ですか、」
 「そ。春頃、懸賞で当たったとかでサ、アウトドアセット自慢してたもん。行く相手も暇もないから、とうとう部屋で肉焼いちゃったの。炭火焼きだったから美味しかった」
 「一緒だったんですか、」
 「だって誘われたんだもん。もっともアタシはすぐ帰ったけど。肉の次はアタシだなって気づいたのよ。戻ってしばらくしたらバタバタ騒いでるから行ってみると、下のチビたち一家と、さっきの浪人生がタライで水かけてたワ。肉の次は家かよってチビたちに怒られてた。天井焦がしただけで良かったよ。あ、ボヤのこと大家には内緒ね」

 その大家は焼却炉の隣の敷地に住んでいるが、耳が遠いから助かっているということ、階下の佐伯兄妹は小学生で、母親は市場で働いているということ、浪人生はもう三度も受験に失敗しているということなど、真弓さんはいろいろ教えてくれたが、彼女によると、とにかくぼくはとんでもないところへ越してきた可哀想な奴なのだそうだ。
 そういえば、この頃真弓さんの姿を見かけない。先週、若い男と派手な言い合いをしていたから、落ち込んで部屋にこもっているのかもしれない。つい二、三日前、階下の佐伯さんが、仲秋はとっくに過ぎたけど満月だし、と言って月見団子を住人たちにふるまってくれた。その時、秋は男も心変わりするのよね、と泣き腫らした目で言っていたらしい。

 今夜の月は端が少し欠けている。窓辺から見下ろすと、佐伯兄妹の足が見える。
 「今日のはちょっと欠けてるね。誰かが覗いてるんだろう、」
 ぼくが下に向かって声をかけるのは初めてだったが、彼らはこちらを見上げ、ネマチヅキだよ、と言った。へぇ、と言いかけた時、隣から声がしてびっくりした。
 「陰暦で十九日の月のことです。出るのが遅くて寝ながら待つから、寝待月って言うらしいですよ」
 解体屋も窓から顔を出していた。
 「なんだおまえ、でかい図体して洒落たこと知ってんじゃねえか、」
 いつの間にかタクシーの運転手も濡れ縁に出ていた。コップ酒を手にしているのが、月明かりで分かる。その声で浪人生の部屋の窓も開いた。
 「ひ、陽が落ちて、立って待つうちに上る月が立待月で、座って待つのが居待月、よ、よ、夜更けに上がってくるのが更待月、です」
 一同ほぉ、と声を揃えて感心していたら、ふいに「それアタシが教えてあげたんじゃないサ、」と真弓さんの声がした。濡れ縁に出てニヤニヤ笑って二階を見上げている。
 「なんだよ、おまえら揃ってそういうことか」
 大笑いする運転手に、ちがいますよ、嘘ですよ、と口々に慌てて彼らは否定する。兄さんもせいぜい気をつけなよ、と火の粉がぼくにまで降り掛かった時だった。
 「寝待月っていうのはね、恋人同士が閨で寄り添って待つ月なのよ。そして上がったら永遠の愛を誓うわけ」
 月を見上げ、いつになくしんみりとした口調の真弓さんに、今度は運転手も軽口は叩かない。皆、先週の夜更けに聞こえてきた真弓さんの嗚咽を思い出し、口をつぐんだ。おにいちゃん、ネヤって何、と尋ねる佐伯兄妹の妹の囁き声だけが、耳に近い。 

 そのうち、佐伯さんがそれぞれの部屋に大学イモを持ってきてくれた。それぞれの部屋の窓辺で、イモをほおばりながらの月見だ。
 「オマエも懲りねえなぁ」
 めずらしく、運転手が慰めるような口調でそう言った。
 解体屋が窓のこちら側に寄ってきて、口に手を添えながら、小さな声で、「彼女のああいう騒ぎ、初めてじゃないんですよ」と教えてくれた。
 「だからって自分の番が回って来るなんて期待すんじゃないよっ」
 「冗談じゃねえよ、オマエみてぇなアバズレ、こっちから願い下げだってんだよっ」
 喧々と威勢のいい二人の応酬の合間に、アバズレってなぁにー、と尋ねる無邪気な声が聞こえ、忍び笑う大人たちの春駒荘の夜は、今夜も賑やかに更けていった。それから大人たちの話題は、春駒荘の名前の由来に移ったのだが、それはまた別の機会に。
 秋の夜天にぽっかりと浮かんだ寝待月は、眠たそうに西の空へ傾いてゆく。

 
air BE-PALに戻る