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『春駒荘の人々』
第2話
椿に白旗、揺れる
中元彩紀子 |
ぼくが春駒荘の住人となって半年が過ぎた。内見のとき、窓から見下ろした町並みにぐっときたのは秋のはじめだった。心臓破りの坂道にはもうだいぶ慣れたが、それでも立ち仕事のバイト帰りにはかなりこたえる。前のアパートで乗っていた自転車は、劇団の若い奴に譲ってしまった。バイト先を変え、坂道に慣れ、自転車を手放し、安くてうまい定食屋を見つける。半年というのはそういう時間だ。最近書いた『アマティウロの舌』という陸亀が主人公の芝居は、客の入りも役者の演技もいまいちで、アンケートでの評価も散々だった。
「話としては良かったんだけどなぁ。亀が走って逃げるとこなんかは読んでる分にはいいんだけど、実際に走るのは人間だからなぁ」
座長は、劇団の脚本家であるぼくを慰めるように肩を叩いた。
「やっぱ犬とか猫にしときゃよかったかもな」
そういう問題なのか、と言いかけてやめた。とちった亀役の役者が視界の隅でこちらを窺っているのが見えたからだ。それに、亀は本物かレプリカを使うつもりでいたのを、役者を使った方がいいと推す座長に反論もせず従ったのはこのぼくだった。
半年というのは、そして一つの芝居を作って稽古を重ね、披露し、うなだれるまでの時間でもあった。
ぼくが芝居の脚本を書いているのだと知ると、真弓さんは目を輝かせてあれこれと質問してきた。
「だったらアタシをモデルに書いたらどうなの」
しまいには、しなをつくって上目遣いに迫る彼女だったが、それが旗揚げから三年経っても、まるでぱっとしない小さな劇団の芝居だと知ると、あからさまに顎を突き出し言うのだった。
「そりゃそっか、こんな安アパート住んでんだもんね」
坂下のスナックに勤める彼女とは、いつも階段下で出くわす。最初はずいぶんがらっぱちな女の人だと思ったが、彼女は毎日、自分の部屋の前から道路までのアパートの敷地をきれいに掃き清めるのを習慣にしている。
「幸せってのはサ、不潔な場所を嫌うのよ。つねに清潔でないとダメなの。汚いとこはフースイ的にアウトなわけよ」
秋に男にふられて大騒ぎしてからというもの、彼女の掃除は端から見ても徹底を極めた。下の部屋の佐伯さんは、とにかくお元気になって良かったわ、と細い目をさらに細めて言った。
「おかげでここもすっかりキレイになって」
真弓さんは気が向くと、一階の奥の部屋までの廊下、時には階段を上って僕の部屋の前までも掃いているらしい。階段下でそんな話をしていると、真弓さんの隣室からタクシーの運転手が顔を出した。
「あら、江口さん今日は夜勤ですか」
佐伯さんが声をかけると、彼はそれには答えずにこちらをジロっとみて、気をつけろよ、と言う。
「あの女、こないだでっかいペンキ担いでたぞ」
爪楊枝を加え、いまいましそうに鍵を閉めている。
「昨日、ドアの色がどうのこうのって大家のばあさんともめてたからな。朝起きて建物ぜんぶがド派手なピンクにでもなっててみろ、悠長なこと言ってられねえよ」
それだけ言うと、江口さんは慌ただしく出かけていった。
「ピンクですって。ドキドキするわね」
佐伯さんは笑ったが、すぐに小首をかしげて、でもちょっと心配、と呟いた。心配っていえば、と彼女は続ける。
「梅田君、もう帰って来たのかしら」
そういえば、あれから姿を見ない。
「ちょ、ちょっと、い、田舎に」と吃りながら、大きなカバンを抱えて、彼が坂道を下ってからもう二週間が経っていた。
春駒荘の住人はみな、廊下で洗濯をする。冬場の洗濯は憂鬱だ。部屋の中に洗濯機置き場がないのだ。しかもぼくのは、もうずいぶん前に不法投棄されていたのを失敬した二層式のやつで、洗濯層から脱水層に移す際の手の冷たさといえば、それはもう拷問に近い。その拷問に堪える人物がもう一人いた。梅田君である。
先月のある日、ぼくが出先から戻ると、階段を上がったところで洗濯中の彼と出くわした。夜、しかもこの寒い中よくそんな気になるね、と声をかけたのを憶えている。彼は、ええ、だか、まあ、だったか、そんな返事をしたのだと思うが、表情は憶えていない。一昨日、隣室の解体屋の青年から妙なことを聞かされた。
「梅田君、変ですよ。彼の綿毛布、知ってますか」
「あのゴルファーのセーターみたいな柄のやつ」
「そうそう。あれ、毎日洗ってんですよ。他にもシーツとか布団カバーとか大量に」
「ダニでもわいたんじゃないの」
「冬にですか」
それもそうだ。
「やっぱショックでおかしくなったのかな」
「何が」
「知らないんですか。彼、今年もダメだったみたいですよ、受験」
彼が言うには、梅田君が受験に失敗すると、郷里の母親から連絡をもらった大家のばあさんが、庭先の椿に白いハンカチをくくることになっているという。毎年この時期になると、春駒荘の面々は、はす向かいの大家の庭に目をやる。そして今年もそこには白いハンカチがはためいていたというわけだ。椿なんて首からぽとりと地面に落ちる花の木を選ぶとは、大家もタチが悪い。
「ばあさんからの合図ですよ。俺らがやたらなことを言って、首でもくくられたんじゃかなわないってことでしょ。特に、下の二人と佐伯さんとこのチビたちは口が悪いから」
一回目の受験に失敗した時、真弓さんが景気づけに部屋で酒をふるまった。解体屋の青年と真弓さんに慰められながら酒を飲み、いい案配に酔いもまわった頃、それぞれ暇を告げたのだったが、自分の部屋に戻ったのは解体屋の青年だけで、梅田君はその足で近所のコンビニまで行き、酒を大量に買い込んだらしい。翌朝、仕事がら朝の早い解体屋が玄関のドアを開けると、前方に、酒ビンとともに梅田君が転がっていたという。
「勢いづいちゃって、あの後、部屋で一人でしこたま飲んだんですよ。救急車は来るわ、俺らは大家に叱られるし大変でしたよ。そうだ、ゲロ掃除もさせられたんだった」
梅田君は落ち癖がついてる、と彼は言う。
「志望校のランク、絶対下げないの。すべり止めなしで、トーダイ、一本。いっぺん下のタクシー親父に、妥協も必要だみたいなこと言われて、吃りながらすっげえ勢いでつっかかってましたよ」
そう言われてみると少し気になる。凍てつく夜に、回る洗濯機の前でじっとしていた彼の目は、ぼくの脳裏でにわかに正常の色を欠きはじめた。
「彼、まだ帰ってきてないよね」
「たぶん。ラジオの音、聴こえてきませんからね。それにしても今年は随分長いなぁ。親族会議でも開かれてたりして」
そう言うと、青年は頭をかきながら、どこかへ出かけて行った。年末あたりから彼は、夜になると時折どこかへ出かける。大方彼女でも出来たのだろうと言ったのは、佐伯さんのところの坊主だ。およそ子供らしからぬませぶりに、佐伯さんが嘆いていた。
「ねえ、梅田君ここんとこ見ないよねぇ、」
今朝、出がけに真弓さんが掃き掃除をしながら聞いてきた。ぼくはアパートのどこかがピンク色になってやしないかと、辺りを見回してから頷いた。まだ、決行していないようでほっとしていると、彼女は二階を見上げて首をひねっている。
「この時期、三日も見ないとさぁ、気になるよね、」
「三日……梅田君、もう戻ってたんですか」
「夜遅くに帰ったみたいよ。アタシ仕事帰りに、彼が坂上ってくの見たもん」
ぼくが、解体屋の青年が言っていた言葉を伝えると、彼女はにわかに表情を曇らせてつぶやいた。
「ひょっとして部屋で冷たくなってたりして」
一瞬ぎょっとしたが、真弓さんがすぐに、いやね冗談よ、と言って笑ったので、ぼくはそのままバイトに向かった。ところが。仕事を終えたぼくが、夕方、アパートに帰ると、真弓さんと解体屋が表で何やら話をしているのに出くわした。ぼくの姿を見るやいなや二人は手招きする。
「真弓さんが、やっぱりおかしいって」
「だって変じゃない、アタシもこの人も真下と隣なのに部屋の物音聞いてないんだもん」
見上げると、梅田君の部屋の窓は暗いままだった。部屋を開けてもらおうにも、大家が留守だという。
「仕方ない。やりますか」
そう言って自室に駆け戻った解体屋が持って出てきたのは、バールだった。
「本業ですからね、任せて下さいよ」
安普請のアパートのドアである。サッシの隙間にバールを入れてちょっとひねると、ドアはこともなく外れた。
部屋に変わった様子はなかった。本棚には書物が詰め込まれ、入りきらないものは床に平積みにされているが、布団も押し入れにしまってあるし、部屋はきちんと整とんされている。念のため風呂場ものぞいてみたが、真弓さんが言うような、青白くなった梅田君は見当たらなかった。
「天井裏まで見ることないでしょう」
ぼくらは止めたが、真弓さんは言う。
「ほら、梅田君、猫みたいな目してるじゃない。猫ってさ、人目のつかないとこで死ぬでしょうが」
あり得ない。あり得なかったが、真弓さんは本気である。仕方なく、ぼくらが馬になって真弓さんを背中に乗せた時だった。
「な、ななななななな」
果たして振り向いた玄関先で、わなわなと震えていたのは当の梅田君であった。
「何してんですかーッ」
固まったまま動けないでいるぼくらは、それでも梅田君に足があることを確認するのだった。
ひしゃげたドアを指でさすりながら、梅田君は、ぼくらの説明を聞いている。部屋に戻っていた佐伯さんが出て来て、皆心配してのことだから、とむくれた梅田君をなだめる。
「ぼ、ぼくは、た、ただ、旅に出てた、だけなのに」
「旅って、どこよ」
「く、草津の温泉」
「何よ、温泉行くなんて聞いてないわよっ」
「い、いけませんか、ぼくだって、お、温泉くらい……、それに、ぼくは」
一斉に彼の顔を覗き込む。すると、彼はまたもわなわなとし、言うのだった。
「そ、そこでも、ぼ、ぼくは疑われたんだッ」
聞けば、旅館の仲居が幾度となく彼の部屋へ用聞きに顔を出し、年令だの出身地だの家族のことまで根掘り葉掘り探るうえ、挙げ句、風呂場まで覗きに来たという。女の一人旅でもないのに用心されるのは、そのしみったれた顔のせいだと真弓さんが開き直るのを、解体屋が止める。
「それより、このドア。大家に何て言います」
春駒荘の薄暗い廊下でぼくらが黙り込むと、切れかけた電球はピンッピンッと音を立てた。
その様子を、帰ってきた大家のばあさんが下からじっと見ているとは誰も気づかず、あろうことかぼくらは「空き巣のせいにするってのはどうだろうか」などと話し合っていたのである。 |