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『春駒荘の人々』
第3話
お月さんのしのぶ石

中元彩紀子

 壊れた蝶番とガムテープでかろうじて固定された梅田君の部屋のドアの前で、僕らは大家に頭を下げていた。大家のばあさんは買ってきたばかりだという補聴器を右手でいじりながら、連帯責任という言葉を繰り返した。結局、僕と解体屋の月舘さんと真弓さんが弁償することになった。もっとも真弓さんは、共益費がどうのこうのと最後まで騒いだが、彼女には春駒荘ピンク化の目論みがあったので、しぶしぶ承知したのだった。
「まさか補聴器のせいでバレるとはね」
 肩を落す僕らに、佐伯さんは菜の花の芥子和えと里芋の煮付けをふるまってくれた。その包みを手に、それじゃ、と手を上げ、それぞれの部屋に引き返そうとする僕らに、
「ぼ、ぼくはだいじょぶですんで」
 と、梅田君は言った。そしてぼそぼそと小さな声で、来年は受かりますから、と付け加えた。

 梅田君の件が一段落したからか、春のせいかは知れないが、春駒荘はいっとき静かになった。春眠暁を覚えずとは言うが、春駒荘もどことなくぼんやりと眠そうな気配を漂わせていた。真弓さんの掃き掃除は毎朝続いていたが、花粉症がひどいという江口さんは、掃くのはいいが水撒きもしてくれよ、と言っただけで、いつものように喧嘩を売ることはなかった。
「調子狂うのよね。こっちは買う準備万端なのに」
 そういう真弓さんでさえ、僕の知る限りこのところは毎晩一人で帰宅する。嬌声をあげながら男ともつれて帰ってくる姿はとんと見られない。
 梅田君の部屋のドアが新しくなった頃だった。夜、帰宅して窓を開けると、階下から佐伯兄妹の話し声がする。
「しのぶ石ってんだ、これは」
「それよかこっちのピンクの方がいい」
「じゃ、それやるよ。俺はそんな女の色の石は好きじゃない」
 階下の少年のこの頃の趣味は鉱石らしい。この間は蜻蛉の化石を持っていた箱の中から大事そうに取り出して、梅田君に自慢していた。
「しのぶ石のこの模様、これ人が書いたんじゃないんだよ」
「どうしたの、それ」
 佐伯さんの声が聴こえる。
「上の解体屋からもらった」
「ちゃんと月舘さんって言いなさい。ちゃんとお礼言ったの」
「言ったよ。もういらないんだって。こんな石、価値がないって言ってた。ダイヤモンドの方がいいって」
 暖かくなってきて、また階下の兄妹の話し声に耳を傾ける季節になった。春の空気はうすぼんやりとしている。空には朧月が眠そうにちんまりと浮かび、時折、生暖かい風が吹く。何も起こらないのに、何か心が落ち着かない季節が、ぼくにとっての春だった。学生の頃と違い、自分で動かない限りなんの変化も訪れない毎日。騒がしいのはテレビの中だけだった。

 翌日、例のごとく掃除に励む真弓さんと佐伯さんに階段下で出くわす。
「補聴器っていうのはさ、余計な音まで大きく拾っちゃうから、そりゃ騒がしくてしょうがないんだって。結局外すことにしたらしいよ。どうせ安もの買ったのよ。あのババアけちだから。これでアタシらも安泰だわね」
 風水上の理由とやらでアパートをピンクに塗り替えようと真弓さんがペンキを買って来てから二週間経つが、今だ大家には相手にされていないようだ。
「あのババア、目だけはいいのよねぇ」
 佐伯さんと顔を見合わせて苦笑していた時だった。夜勤開けの江口さんが坂を上って来るのが見えた。大きなくしゃみの合間合間に、ぶつぶつ何か言っている。
 おかえりなさいと声をかける佐伯さんには返事もせず、ジロリとこちらに目やる。機嫌が悪いらしい。
「返事くらいしたらどうなのさ」
 いつもの調子で真弓さんが言うと、おとついから寝てねえんだよ、と返ってくる。
「花粉のせいじゃねえぞ。上の解体屋がうるせえんだよ。アレ、ここんとこ元気ねえだろ。ポイされたんだ、ポイ」
 江口さんによると、一昨日の晩、彼が床につくと天井の上からこもった音が聴こえてきたという。耳障りで眠れないので苦情を言いに二階へ上がりドアをノックすると、出てきたのは泣き腫らしてお岩のようになった月舘さんだった。布団をかぶって泣いていたらしいのだが、何せ敷き布団が煎餅なもので階下に筒抜けだったというわけだ。
「アイツ、このところ頻繁にどっか行ってただろ。好きな女んとこだったんだよ。女子大生だって。厳しい女子寮だから人目を忍んで会ってたんだとよ。盛り上がるんだよなぁ、そういうのって」
 佐伯さんの息子が言ってた通り、彼女が出来たらしいというのは本当だったわけだ。
「ところが振られちまったと」
 三人が同時に、なんで、と尋ねる。
「俺が思うに、化石探しに山へ誘ったのもいけないんだと思う」
 化石と聞いて一同うなだれる。
「あの人、遺跡とか化石とかそういうの好きだもんねぇ。様子はいいのに、中身がおたくなのよ」
 真弓さんが眉をひそめて言う。
「ダイヤの方がいいって言われたんだとよ。解体屋なんて埃っぽくて汗臭くていやなんだと」
 苦情を言いに行ったはずが、江口さんは一晩中話を聞いてやって、そのまま仕事に出かけたのだそうだ。
「だから寝てねえんだよ。うるさくするなよおまえら」
 そう言って目をこすりながら江口さんは部屋に入っていった。
「しのぶ石っていうの、うちの息子がもらったみたいなんですけど」
 佐伯さんがなぜかすまなそうに呟いた。
「忍び会いってわけかぁ」
 真弓さんもいつになくしょんぼりしている。春はいやな季節よねぇ、とひとりごちている。秋にも彼女は同じようなことを言っていた、と僕は思い出していた。

 その晩、いつものように僕が窓から顔を出すと、階下に佐伯兄妹の足が揺れていた。彼らの今日のテーマは春の気候についてだ。春の空は霧や靄でぼんやりしていることが多い。その霧と靄は視程距離で見分けるんだそうだ。
「一キロ以上遠くのものが見えれば靄、一キロ未満なら霧」
 相変わらず、博学な少年だなぁと思って聞き耳を立てていると、不意に声がする。
「霞か雲かって言うもんなぁ、春ははっきりしねえなぁ」
 江口さんがコップ酒を手に話に加わっていた。
「か、霞っていうのはですね、も、靄や霧と違って気象用語ではないんですよ」
 梅田君も顔を出している。
「ち、ちなみに、霞は日中だけに使われる言葉で、夜になると」
「おぼろっていうんでしょ。昨日の客があたしの尻触りながら言ってたもん」
 覗きこむと、どくだみってほっとくと夏にすごいことになるのよね、と言いながら、真弓さんが窓の下で草をむしっている。
「おぼろ月夜に花見酒ってのもいいですよね」
 僕がそう声をかけると、皆一斉に空を見上げる。空には朧月がぼんやりと浮かんでいた。すると急に、真弓さんが、あっと声をあげた。見ればこちらを見上げて口を開けている。隣の窓から月舘さんが顔を出して煙草を吹かしていたのだった。

「解体屋! アンタ、元気なの、」
 きょとんとしている月舘さんだったが、すぐに事情を察したらしく、男のクセに口が軽い、と江口さんを睨んでいる。
「お前が元気ねえって言っただけだよ」
「聞いたわよ全部。忍び会ってた相手にはしのぶ石の魅力が分からなかったってんでしょ。なんなら今夜添い寝してあげようか」
「けっこうです。それに、しのぶって字が違うんじゃないかなぁ」
 すると今度は、しのぶ石返そうか、と佐伯兄が声をかける。
「しのぶ石ってなんだ」
 江口さんが少年の手の中をのぞき込んでいる。
「しのぶ石っていうのは、堆積岩中に酸化マンガンがしみ込んで、しのぶ草の模様になったやつのことをいうんですよ」
「お前、解体屋なんかやめて、その道へ進んだらどうだ。だめか。どのみち埃っぽくて汗臭いか」
 余計なことを言う。真弓さんがむしった草を投げつけている。
「いいんですよ、もう。男のロマンが分からないような女には用はありません」
 思いのほか明るいその声を聞いて、皆が胸を撫でおろした時だった。甘栗食べる方は、と下から佐伯さんが顔を出す。一斉に、はいと全員が手を上げる。佐伯さんの差し入れはいつも絶妙なタイミングだ。階下へ降りようとドアを開け、梅田君と月舘さんに続いて階段を降りる。
「別にたいしたことじゃぁなかったんですけどね」
 言い訳をするように、月舘さんは頭を掻いた。
「ただ、春ってなんだか物悲しいんですよね」
 佐伯家の玄関先で温かい甘栗を手渡されながら、月舘さんはまた、別にたいしたことじゃないんですよ、と言った。彼の手の中の甘栗は、僕らのより少し多かった。
 朧月にぼんやり照らされた春駒荘に、今夜は甘栗の香ばしい匂いが静かに漂っている。江口さんのくしゃみだけが、はくしょいっと賑やかだった。

 
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