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『春駒荘の人々』
第4話
メジロと花見酒

中元彩紀子

 デザイナーと待ち合わせた駅前の喫茶店は、この街に越して来て、ぼくが最初に見つけたいわゆる居心地のいい場所だ。ところどころに穴の開いた合皮のソファが置かれ、いつでもバッハが流れている店内は常にうす暗く、外の世界との隔絶を叶えてくれる。奥のテーブルなどは、壊れたまま放置されたインベーダーゲームだった。いつも同じ顔の店員は、客が少なければ奥に引っ込んでいる。ここは僕の数少ない隠れ家の一つだ。
 窓際の席でデザイナーのその人を待っていると、自転車にまたがったショートヘアの小柄な女性が通り過ぎた。通り過ぎたかと思ったらまた引き返し、店の看板を眺めている。やがて店のドアを開けて、入って来たのがその人だった。
 「すみません、遅れてしまって」
 頭を下げた彼女は、目も合わせずに向かいに座りメニューも見ずに、これ、と言ってチラシのラフを差し出した。
 「どうですか」
 「うん、いいんじゃない、なるほど、へえ」
 芝居のコンセプトとは随分かけはなれた印象ではあったけれど、僕は素直に感心してみせた。金のかかる広告媒体は使えない弱小劇団にとって、チラシ広告はその宣伝ツールの全てだ。もちろん新聞折り込みになど出来ず、僕らが団地や学生寮にポスティングしたり、大学の学生課や公民館にまとめて置かせてもらっている。妥協できないからといって、それを批評できるほど今回の脚本に自信があるかといえば、それは皆無だった。なにしろ二日で書き上げた作品だ。自分で書いた芝居の世界観が目の前にあるそれなのかどうか、僕は分からないでいた。それはじきに、いつまで売れない芝居なんか書いているつもりなのだ、といういつもの自問自答の道を辿る。目の前の彼女の目にはきっと、僕が真剣にデザインをチェックしているように見えているだろう。一緒になって覗きこんでいる。フォント変えましょうか、と不安そうに聞く彼女が可哀想になって、僕ははじけように顔をあげ、これでいいよ問題ないよすばらしいね、と早口で言った。卑屈さを悟られまいとして、大仰な仕草で背もたれに寄りかかり、たまたま目に入ったラフに描かれた鳥の写真を顎で差した。
 「このウグイス、いいよね」
 すると彼女は、僕と同じようにゆっくりと背もたれに体を預け、真顔で言うのだった。
 「メジロです」
 あ、そうだよね、と頬を引きつらせる僕に、それじゃ、と言って彼女は席を辞した。春なんだからウグイスでいいじゃないか、とひとりごちる僕の前に、店員が水差しを手に立っている。
 「これ、何に見える」
 僕が尋ねると、彼は無表情のまま僕のグラスに水をさし、やっぱり無表情のまま「ウグイス」と答えた。窓の外から、黄色い帽子を被った小さな新入生たちの嬌声が漏れて聴こえた。

 春駒荘に続く坂道で、ばったり江口さんに会った。制服のまま千鳥足でのたのた歩いている。蛇行するものだから、なかなか前に進まず、時々何を思うのか数歩下ったりしている。
 「江口さん」
 彼はすたっと立ち止まりこちらを凝視している。やがてそれが僕であると分かると、急に柔和な顔になり近寄ってきた。
 「やぁやぁ脚本家。四月は花見で酒が飲めるぞい」
 酒臭い。この坂道は如何ともしがたく、とか、ボタ山で肺真っ黒、と、わけのわからないことを言う江口さんを支えながら坂道を上る。駅前の屋台、あそこは焼酎を水で薄めていやがる、と文句が始まった頃、春駒荘の屋根が見えた。
 階段下で部屋に入っていく江口さんを見送って、二階に上がりかけた時だった。
 「やい脚本家。なぜお前は帰る」
 からみ酒である。果たして僕は、江口さんに引っ張り込まれてしまうのだった。
 江口さんの部屋に入るのはこれが始めてではない。以前、天井裏の鼠がうるさいとのことで、鼠捕りを仕掛けてやった時に一度だけ入ったことがある。五十男の独り暮らしなどには興味がなかったが、一歩入って部屋のぐるりに見入ってしまったのは、そこが想像していたものとはあまりにかけはなれた様相を呈していたからだ。玄関から部屋の壁一面まで、取り付けられた棚のすべてに戦車のミニチュアや、昔の町並みを模したジオラマが納められていた。いい年してプラモデルなんて気持ち悪い、と真弓さんは馬鹿にしていたが、きれににディスプレイされたそれらに、僕は圧倒されるばかりだった。
 
 「飲んでいやなことは忘れろ」
 そう言いながら、江口さんは湯のみについだ酒を差し出す。
 「いやなことなんかないですけど」
 「いや、まあそう言うな。男にはいろいろあるからな」
 その後、江口さんは一人でしゃべり続けた。幼い頃に暮らした町のこと、タクシー運転手の間で囁かれる怪談、間違いのない女の選び方――父親の話をさせればいいのだという――。
 「どうしてですか」
 「パチンコだの酒だのでどうしょうもない父親だけど、あたしにだけは優しかったのよね、なんて言われたらどうよ。なんか許してくれそうな女じゃねえか、な」
 な、と言って肩を叩くと、江口さんはそのまま床にごろんとなってすぐに寝息を立て始めてしまった。
 初めてこの部屋に入った時は遠慮してあまり見なかったが、改めて観察してみるとそのミニチュアたちはじつに精巧で、ジオラマなどは顔を近づけて見ていると、そこを吹く風の音や人々の話し声などまでが聴こえてくるようだ。緑の丘の上に、青い門と赤い屋根の平家建てが建っている。庭とおぼしき場所には遊具が点在し、子供が走り回っている。そんな精巧に作られた作品を、手を触れないように一つひとつを見ていると、一番窓際に置かれた棚の上に、口の開いた箱がある。そこには二枚の写真と子供の落書きのような紙が丸めてある。写真にはしゃがんでおもちゃの車を走らせている男の子が映っていた。四、五才だろう。幼稚園の制服を着ている。もう一方の写真では、河川敷のような場所でどこかを指さしている。眩しそうな表情で笑っているその子のもう片方の手は、父親らしい男の手につながれているが、その手の主は体半分で切れている。おそらく江口さんなのだろう。写真の風景が古いことは、履いているズボンの裾のデザインですぐに分かる。
 「息子がいたのか」
 そうつぶやいたのと、江口さんのもそもそと起き上がる気配がしたのは同時だった。彼はよたよたとトイレに向かい、出てくるやいなや言うのだった。
 「あんたまだいたの」
 酔いも幾分さめたのだろうか、目をしばたいてこちらを見ている。
 「さっきのね、俺の息子」
 今はどうしてるのか、いや立ち入ったことは聞くまい、などと思い巡らしていると、それに気づいてか江口さんは押し入れから布団を出しながら言った。
 「今年で二十八。どこで何してんのかは知らねえよ。かみさんが連れてったきりだから」
 「かわいいですね」
 「そりゃあ俺の息子だからな、かわいかろうよ」
 フンと鼻で笑いながらも、まんざらでもない様子で答える。
 「サラリーマンですかね」
 「まぁ売れない脚本家でないことを祈るがな」
 そこまで言って江口さんは振り返り、飲み足りねえならこれ持ってけ、とウイスキーを出してきて僕にビンごと渡した。部屋に戻り、つくづく勝手な人だと思いながら、飲めないウイスキーの匂いだけ嗅いでいると、不意に父のことが頭によぎる。
 僕の父は地元の建材会社で働く普通の、ごく普通の月給取りだった。朝は八時に家を出て、夜は八時を過ぎて帰宅する。判で押したような生活が一変するのは、僕が大学に入学した頃のことだ。父は不意に家からいなくなった。何も行方不明になったわけじゃない。父は母に黙って会社を辞め、退職金で土地を買った。縁もゆかりもない田舎の片隅で、野ざらしになっていたような土地だ。そこで自給自足の生活をするのだと言って、僕らをおいて出ていった。母は半狂乱になって父を責めたが、父にしてみれば最初から母が賛成するとは思っていなかったのだろう、出て行く日の朝の顔は実にすがすがしいものだった。
 「そもそも私たちは農耕民族であったわけだし、そこに立ち返ろうというのに半狂乱になるのは滑稽だわね、母さんも」
 数年後、家を売りはらい、父を追って田舎に引っ込んだ母は、電話口でそう言っていた。僕も姉も社会人となり、結局一緒に過ごす相手は夫以外にないと気づいたのか、それとも気が変わったのかは知れないが。育った家もなくなり、家族ももう一緒に暮らすことはないが、時折送られてくる、泥のついたままの人参やらトマトが、僕らが家族であることの証だった。
 
 昼近くまで惰眠を貪り、昼を過ぎてから洗濯物を済ませる。郵便受けをのぞきに階下へ降りると、またしても江口さんに出くわす。
 「あ、脚本家、昨日のウイスキー返せ」
 「は、くれたんじゃないですか」
 「気が変わった」
 勝手だ。
 「どうせウイスキーは僕、飲めないからいいですけどね」
 ぶ然としてそう言うと、なら最初から断れよ、と江口さんは言う。すると話し声が聴こえたのか、昼間っから花見酒とは景気がいいわね、と真弓さんがドアから顔を出す。春の風で、近所の桜の花びらが舞っている。ウイスキーのビンを持って再び階下に戻り、江口さんの部屋を訪れると彼は縁側でほんとに一杯やっていた。
 「ここくらい上等な花見席はねえよ」
 縁側の正面では隣家の桜の木が満開だ。こちらは坂の上方だから、見上げることもなく見事な枝ぶり花ぶりが目の前に見える。
 「おかげで庭の掃除が大変」
 缶ビールを片手に、真弓さんが箒で庭を履いている。不意にチーチュルチーチュルという鳥の啼き声が聴こえた。
 「なんでしょうね、」
 「ウグイスだろ」
 すると、真弓さんが箒を掃く手を止め、一点を見つめて、メジロだ、と言った。どれ、と江口さんが腰を上げる。
 「うぐいす色じゃねえか、ウグイスだろ、」
 「目の周りが白いでしょ。あれはメジロっていうの」
 あれがメジロか、と江口さんがつぶやく。
 「俺の息子が通ってた幼稚園な、めじろ幼稚園っての」
 今はもうないけどな、とひとりごちるようにそう言って、酒を舐めている。写真に映っていた、青いベレー帽を被った制服姿の男の子が目に浮かぶ。江口さんは、成長した息子の年を計算もせずに言え、息子が通った幼稚園が今はもうないことを知っているのだ。僕は、口の悪い豪傑な彼のうんと柔らかいところを見てしまったようで居心地が悪かった。
 「緑の丘のめじろ台、青い御門に赤い屋根」
 炊事場でつまみを用意しながら、江口さんが歌っている。
 「あの幼稚園の歌、酔っぱらって機嫌がいいとよく歌うのよ」
 真弓さんが耳打ちした。アンタ呼んで、息子とでも飲んでる気になってんのさ、適当に付き合って退散するに限るわね。
 「バカが。俺の息子は昼間っから酒飲んでるようなフウテンじゃねえよ」
 帰りたきゃ帰れ、俺はそんなにしみったれてねえ、と臍を曲げる江口さんをなだめて、僕らは夜になるまで花見酒をあおった。その間、幾度も江口さんは、例の歌を歌い、真弓さんは音痴だの野暮天呼ばわりしながらも、箒片手にそれに合わせて踊る。
 宴会は、二階の窓から梅田君の「うるさいっ」という叫び声が響いてもなお続いた。暗くなっても、見えないどこかでメジロはチーチュルチーチュルと啼き続けていた。僕の脳裏には、なぜかベレー帽を被った小さなメジロの遊ぶ光景が広がるのだった。どうやら少し酔ったみたいだ。

 
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