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『春駒荘の人々』
第5話
花ニラが笑う
中元彩紀子 |
春駒荘へと続く坂道の側溝に咲いている、星形をした花の名を教えてくれたのは大家のばあさんだった。
「花ニラだよ」
僕は、その花をしゃがんで眺めていたのだった。不意に声をかけられて振り向くと、ばあさんがゆっくり坂を上って来る。ばあさんはこちらをちらりとも見ずに続ける。
「葉っぱの匂いを嗅いでごらん」
言われた通り、葉っぱをむしって嗅いでみると、ニラそっくりの匂いが鼻をつく。繁殖力が強いのか、側溝に限らずこの頃ではいたるところで見かける小さな花だ。うっすらと青みがかった白い色をしている。野菜のニラとは違うのか尋ねようと、再び振り返ると、ばあさんはキャスター付の買い物カゴを引きずりながら、すでに遠のいていた。
春駒荘をピンクに塗り替えようとする真弓さんの画策は、いまだ難航中である。先日、芝居の稽古から戻ったとき、大家宅から出てきた彼女とちょうど出くわした。家賃を払いがてら、庭掃除をしてきたのだという。直談判は取り止めたようだ。
「ごきげんとりってやつよ」
真弓さんはスカートについた埃をはらいながら、でもさ、と続ける。
「なんかぐっときちゃったのよねぇ」
「どうして」
ばあさんの人生に、と言って真弓さんは、つい今し方聞いてきたばかりだというばあさんの話をし始めた。
大家のばあさんの名前は春代といい、出は横浜である。父親は紡績加工を生業としており、娘時代は家族とともに上海で暮らしていた。日本軍の軍服を一手に担っていたというから景気はよく、女中や下働きの人間が何人もいる大きな邸宅で、彼女は蝶よ花よと育てられた。太平洋戦争での戦況が怪しくなってきても、その暮らしは変わることなく彼女は何不自由なく安穏と暮らしていたのだったが、敗戦となるやいなや一家の財はすべて没収され、着の身着のまま逃げ帰ることとなる。失意の祖国では、それまでとはまるで異なる生活が待っていたたけでなく、ほどなくして父親が肺を止み他界した。縫製の商売を始めた母親も慣れぬ仕事で体を悪くし、路頭に迷う寸前の一家を救うべく、彼女はまだ公娼廃止になる前の華やかな廓で働くこととなる。
「春汐って呼ばれてたんだって。なまじ出がいいもんだから、ずいぶん妬かれて意地悪されたらしいよ」
彼女には、水あげからずっと贔屓にしてくれていた旦那がいた。色白のうりざねにちょんとのった鼻と小さな口は、殊の外米兵の目をひいたのだったが、旦那がそれを許さなかった。足しげく通っては朝までともに過ごすうち、二人は恋仲となる。
「でね、その彼が言ったんだって、春汐は駒菊のようだって。駒菊みたいに可憐だって」
どこかで聞いた話だなぁと思いつつも、いつになく熱い語り口の彼女に気圧されて、僕は黙って聞いていた。
「春駒荘の春駒は、猫の春駒じゃなかったのよ」
僕がここに越してきた当初、月夜の晩に春駒荘の由来が話題にのぼったことがあったが、その時の話では、春駒とは、ばあさんが飼っていた三毛猫の名前だった。ばあさんの背中に乗って、痛むところを揉むという芸の出来る賢い猫だったが、近くにいい接骨院が出来てじきに姿が見えなくなったという。まるで、お役御免とでも言うかのようにいなくなったらしいと、皆不思議がっていたものだが。
さて、そして件の旦那が商売に失敗し、行方の分からぬようになった頃、折よく現れた和菓子屋の若頭に見初められ、さて身請けかという時に廓街に火が出る。と、真弓さんが神妙な顔つきになった時だった。
「それ『吉原炎上』じゃねえか。『野菊の墓』までパクりやがって」
突然ドアが開いたと思ったら、江口さんが顔を出して笑っている。
「また盗み聴きして。何よそれ」
「映画だよ。で、そのあと、火の海ん中男を探しに行くってんだろ」
「そうだけど……」
「ほらみろ。で、男は死んじまった、と。作り話だよ」
勝ち誇ったように笑う江口さんを睨みつけ、違うわよ、と先をつなぐ。
「でさ、探しに探してようやく二人は出会うわけよ。彼の方でも探してたのよね。煤だらけになって、火傷を負いながらも、二人は業火の中でひしと抱き合うわけ」
ご都合主義者め、と舌打ちしながら江口さんはドアの鍵を閉めている。
「じゃあ、亡くなったご主人っていうのが、その人なんですかね、」
僕が尋ねると真弓さんは大きく頷き、再びうっとりとした表情で、愛って不思議よねぇ、とつぶやいた。真弓さんが、大家宅の庭の隅に群生する星の形をした花ニラをほめると、それは亭主が死んだ年から増え始めたのだとばあさんは言ったのだそうだ。死んで星になるとは言うが、まさにかの人からの贈り物なのだ、と真弓さんは興奮する。
「あほか。おまえがピンクのペンキ持ってうろうろするから、大家もひとつ手を打ったんだろ。あのばあさんはな、生まれた時からばあさんなんだよ」
呆れたようにそう言い残し、夜勤に出かけて行く江口さんを見送ると、真弓さんがこちらを窺うような顔をして、あんたも大家の話うそだと思う、とのぞきこむ。僕は、あの皺だらけの老女とロマンスとが容易に結びつかず、いやぁ、とか、どうでしょう、とか曖昧な返事しか出来なかった。
「ふん、俄然やる気になったわよ。恋のシンボルだもの、やっぱりピンクよ」
結局、彼女はますます意を固くするのだった。
窓を開けると、かすかに湿り気を帯びた風が鼻先をくすぐる。窓を開け放ったまま書きかけの原稿を広げ、執筆に取りかかる。階下からは、真弓さんが佐伯兄妹と話す声が聴こえる。花ニラの花言葉、そう、やっぱりね、別れの悲しみね、そうでなくちゃあね――。
気候のせいか筆はいつになく進み、気づけば東の空が白み始めていた。筆ののった後というのは、いつも寝つけない。缶コーヒーでも買おうかと表へ出ると、初夏のような蒸れた匂いがする。雨になりそうな気配だ。垂れ込めた空を見上げ、坂下の自動販売機へ向かう。辺りは静かで、自分の足音が耳もとで鳴っているような錯覚を覚える。僕は、この早朝の静けさの中を歩く自分の足音が好きだ。時折聴こえる空き缶の音や、烏のはばたきですら、それは僕の作る芝居の計算された演出で、野良猫は路地の奥で合図を待っている。誰もいない坂道は、果てしなく続く舞台だった。世界の時間は止まり、僕の中だけで時は刻まれる。眼下に広がる町並みを観客に見立て、僕は歩いた。自動販売機でコーヒーを買って引き返し、坂を上がりかけた頃には、すでに辺りはふだんと変わらない朝の光景だった。甘露にも似た僕の優雅な散策は、夜から朝にかけてのほんの一瞬にしか叶わない。うっすらと青みがかった風景は、花ニラの色に似ていた。
のんびり坂を上がっていき、側溝の花ニラに目をやる。朝の花ニラは昨晩見たときと違い、幾分青みが濃くみえる。風に揺られて、ふるふると揺れている花を見ていると、不意にあの話が本当ならいいなぁ、と思えてくる。庭に揺れる星を見つけて春を知り、亡きつれあいとささやかな逢瀬を楽しむ老いた遊女も、なかなか趣があるではないか、などと思っていた時だった。
「ずいぶんと早起きだね、」
ばあさんだ。手に箒を持っている。そういえば、早朝によく駅前を老人たちが掃除しているから、おそらくその帰りなのだろう。
「眠れなくて」
ばあさんは、ふうん、と言ったきり黙っている。間がもたず、僕は花ニラを指さした。
「これ、食べられるんですかね」
「さあどうだか。食べてみれば」
立ち止まり、じっと僕を見ている。僕は花ニラの葉をちぎり、それを口に入れてみた。そして少しだけ噛んでみたのだったが、正直不味かった。
「まずかろ」
顔をしかめて頷く僕に背を向け、ばあさんはそのまま歩き始める。ところが数歩歩いた先で、ばあさんは肩を小刻みに震わせ始めた。何事かと訝しむぼくに、ばあさんは半身だけ振り返りニヤリと笑った。
「ニラはニラでも犬のお小水風味」
言った直後、ばあさんは声を上げて笑い始めた。そして、あっ、と思いついたかと思えばあっけにとられている僕に向かって振り向きざま、「あんた、食べるに困っても家賃だけはしっかり払っとくれよっ」と叫ぶのだった。
あのばあさんはな、生まれた時からばあさんなんだよ、という江口さんの声がこだまする。これがうちの大家である。憤慨しながらぺっぺっと唾をはきながらも、僕は次第に笑いが込み上げてくるのを抑えきれなかった。足元の星たちが、くすくすと笑うように揺れている。 |