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『春駒荘の人々』
第6話
菜の花の真相
中元彩紀子 |
階下の佐伯兄妹はいつも裸足だ。もちろん外で見かけるときはスニーカーを履いてはいるが、それはスニーカーというよりもどこで売っているのか知れないが、随分昔にズックと呼ばれた白いそれによく似ている。兄である慶太のひざ小僧にかさぶたの痕などを発見すると、僕はひどく懐古的な気持ちになる。昔は赤チンというのを塗ったものだ、と僕が言うと、彼は「知ってる。マーキュロクロム液っていうんだよ。元は緑色なんだけど製造過程で赤くなるんだ」と得意げに返す。つくづくこまっしゃくれた少年である。
「あそこんち、父親がいないから」
慶太が同年代の少年よりも大人びてしっかりしているのは、父親が不在だからだと真弓さんは言う。五月の連休に佐伯さん一家が海辺の水族館へ出かけた際も、時刻表を調べて家族を先導していたのは慶太だった。帰ってきた際、楽しかったかと尋ねると、あんなの子供だましだね、と肩をすくめる。イルカショーはテレビで見るのと大差なく、魚は食卓にのぼるものがやけに目についたという。
「土地柄ってやつだね。ま、祥子にはちょうど良かったよ」
およそ子供らしからぬ感想に、僕は苦笑するばかりだった。
「子供のくせにいろんなことよく知ってるでしょ。前、博学じゃん、って褒めてやったら慶太のやつなんて言ったと思う、」
手に持った缶チューハイをお手玉のように弄びながら、真弓さんは言う。
「物知りなだけじゃ飯は食えないんだよ。それにね、知恵がなければ知識は教養とは言えないの、だって。かわいくないわよねぇ」
階段に腰掛けている真弓さんの、その正面に僕は立っている。彼女の背後、階段の裏側に慶太の顔が見えたとき、彼は口元に人さし指を立てていた。その直後、真弓さんがぎゃぁっと叫んだ。
背後からにゅっと差し出した慶太の手には大きなダンゴムシが握られ、それを真弓さんのスカートの上に放ったのだった。飛び上がって驚く真弓さんを見て、慶太はゲラゲラ笑い、真弓さんはそれを追いかける。まるで姉弟のようだ。
「ふん、皮もむけてないくせに。クソガキが」
逃げられてしまい、いまいましそうに言いながら、これあげる、と手にしていた缶チューハイを僕に渡すと、真弓さんは部屋に戻っていった。
慶太と祥子の母である佐伯さんは、年は分からないがとてもおっとりとした穏やかな人だ。入居の際の面接で、大家のばあさんは言った。
「下の部屋には小さい子供がいるけど、別段うるさかないから」
佐伯さんが夫と死別していると聞いたのもそのときだ。そこに同情してかどうかは知れないが、むしろあんたがうるさくしないようにしろ、と僕は言われたのだった。そんなことを思い出しながら、部屋へ戻り缶チューハイのプルトップを開けると、その刹那、僕は吹き出した缶の中身でびしょぬれになった。
「とばっちりだ……」
騒ぎが起きたのはあくる早朝のことだった。階段に響く足音で眼が覚めた。早朝というのは朝の六時過ぎのことである。低い女の人の囁くような声と、ドタドタと階段を上がる別の足音に続いて、僕の部屋のドアを誰かが叩く。
「ちょっと起きてよっ」
ドアを開ければ、そこに立っていたのは真弓さんだった。
「佐伯さんとこのね、慶太と祥子がいないんだって」
ぼんやりとしたままの頭で、来てませんよ、と言うと、そんなこと分かってるわよ、と怒鳴られた。
「あんた何か知らない」
逡巡している間に、佐伯さんが顔を出す。
「起きたらいなかったんです。やっぱり家出かしら」
困ったように首を傾げている。
「家出かしら、じゃないわよ。探さなきゃ。警察にも連絡しないと」
朝からいないといっても、今日は日曜日である。早くに目が覚めてしまい、兄妹でどこかへ遊びに行っただけなのかもしれない。大方、真弓さんだけが騒ぎ立てているのだろう、佐伯さんの方は、警察って日曜日もやってるのかしら、とのんきだ。そのあまりのおっとりぶりに真弓さんは焦れている。
「家出するっていってもですね、お金が要りますよね。慶太くん達お金持ってるんでしょうかね」
僕がそう言うなり、佐伯さんと真弓さんの二人ははっとした顔をして、ドタドタと階段を駆けおりていった。僕も後から降りてゆき、真弓さんと二人、佐伯家の前で待っていると、財布を手に佐伯さんが悄然とした面持ちで出てきた。
「一万円札がなくなってます」
「ほらやっぱり家出じゃない。探さなきゃ」
そう言うなり、真弓さんはアパートの住人たちを再び起こしにかかるのだった。
「家出ともかぎらねえぞ」と言ったのは江口さんだ。ゆ、誘拐ですか、と吃りながら梅田くんが目を丸くすれば、「一万円だけ抜いて子供をさらう道理が分からない」と月舘さんが笑う。だいたい、こんなアパート住んでて身代金が払えるかっていうの、と真弓さんが呆れる。
「ただ遊びに出かけただけなんじゃ」
「家出よ。警察に連絡してよ、解体屋」
月舘さんが尻を叩かれて、電話をかけに部屋へ戻る。真弓さんがいやに張り切るのを見て、江口さんが耳打ちをしてきた。
「ガキの頃、台風が来ると妙に興奮したよな」
それだけ言うと、江口さんは片手を上げて仕事に向かおうとしている。薄情者っ、と叫ぶ真弓さんに、昼になっても戻らなかったら電話をよこせ、とだけ言い残し、江口さんは坂を降りていってしまった。
それから僕たちは、朝から営業している喫茶店やコンビニ、駅などを手分けして探し歩き、警察もまた方々を手配して回った。最初こそ、なんだか大事になってしまって、ときまり悪そうにしていた佐伯さんも、うっかり二人がはぐれでもしたら、という真弓さんの言葉にすっかりうろたえている。さすがに誰も変質者などとは口に出さなかったが、時間が経つにつれ、皆の焦燥感もつのっていった。
昼も近くなった頃、川向こうの大通りを僕が一人探し歩いているときだった。背後から近付いてきた車にクラクションを鳴らされて振り向くと、それは江口さんのタクシーだった。ウインドウを下げて、よぉ、とのんきなものだ。
「見つからないんですよ、まだ」
僕がそう言うと、江口さんは後ろを見ろ、と親指を立てた。
「あっ」
覗いてみれば、後部座席にいるのは慶太と祥子である。
「とぼとぼ歩いてやがるから、さっきそこで拾ったんだよ。母ちゃんの方には今連絡しといたから」
江口さんにうながされて、僕も助手席に乗り込む。祥子は肩から水筒を下げたまま口を開けて眠りこけている。慶太は身を乗り出し、「真弓さんが家出だって騒いでたんだって」とニヤニヤ笑っている。
「真弓さんだけじゃないよ、みんな朝から探してるよ。だいたいキミ、お母さんの財布からお金抜いただろう、どこ行ってたんだい、ほんとに家出してたのか」
矢継ぎ早に尋ねる僕に、慶太は憮然として、違うよ、とだけ答えた。
「まあいいじゃねえか、男にはワケがあるもんだ」
いいわけないでしょう、と言いかけたとき、祥子だけだったんだ、と慶太が呟いた。振り向くと、慶太は窓の外を眺めている。そして眺めながら言うのだった。
「祥子の友達は、連休中みんな海外旅行とか温泉とかに行っててさ、金曜日に写真を見せっこしたんだ。でも祥子だけだったんだ、写真三枚だけ持ってったの。みんなアルバムで持ってきてたんだよ。でも、こいつバカだから、マレーシアってすごく大きなライオンがいるんだとか、青い絵の具みたいな色の海だったとか、帰ってから嬉しそうにオレに言うんだ。こいつの写真は水族館のイルカとオレらのだけなのにさ」
ひと呼吸おいてから、なんかムカついた、と慶太は言った。
「それでどこに行ってたんだい」
慶太は外を見たまま、南房総、と答えた。またずいぶんと遠くまで行ったものだ。
「祥子にどこに行きたいか聞いたら、菜の花畑って言うからさ」
それからしばらくは皆黙ったままだった。
そうか、自分で調べて、使い捨てカメラを買って、水筒にお茶を詰めて、そして妹の手を引いて菜の花畑に連れていってやったのか。そこで友達に自慢できるくらいたくさん写真を撮ってやったのか。
眠っている祥子の手には、幾本かの菜の花が握られている。不意に身を乗り出した慶太が口をとがらせて言う。
「江口さん、房総って遠いじゃん。疲れちゃったよ」
おや、と思い横を見ると、江口さんはきまり悪そうな顔をしていた。
「江口さん、知ってて黙ってるなんてひどいですよ」
「そうじゃねえよ、一番近くて広い花畑はどこかって聞いてくるから教えてやっただけだよ。おとついのことだし、いちいち覚えてねえよ。……でも、連中には黙ってろよ」
春駒荘に続く坂道にさしかかったときだった。それまで何百万本もの菜の花畑を背景に祥子の写真をとりまくったとか、将来は写真家になるのだとか、早朝は観光客はいなくてカメラマンが少しいるだけだったとか、それは夢中になってしゃべり続けていた慶太が、急にまた黙り込んだ。怒られると思って緊張しているのだろうと思えば、真相を知ったら母さんが悲しむから内緒にしておいてくれとせがむ。旅行に連れてかなかったのを気にやむからいやだ、というのだ。
「じゃ、母の日だから菜の花を摘みに行ったってことにするか。その代わりみんなにうんと謝れよ。金は大人になって働いて返せ」
「分かった。でもカーネーションじゃなくて平気かなぁ」
母さんにはだんぜん菜の花が似合うとでも言ってごまかせ、女はそういうのに弱いからな。江口さんが笑う。
春駒荘が見えてきた。坂の上では真弓さんが仁王立ちで立っており、その横で佐伯さんが鼻を赤くしている。後ろで、慶太がくすんと鼻をすすった。
オレ花粉症なんだよね、という慶太の言い訳を、江口さんと僕は信じてやることにした。 |