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『春駒荘の人々』
第7話
サワガニ

中元彩紀子

 このところ夢ばかり見る。そこには僕の知るたくさんの人々が登場し、なかでも一番登場回数が多いのは、真弓さんだった。真弓さんは夢の中でもピンク色のペンキの缶を持ち歩き、大家の後をつけまわしている。その大家はなぜか、僕の部屋に住んでいる。だから、真弓さんは僕の部屋へやってきて、大家に用があるのだと言っては、仕事の邪魔をするのだ。あんまり力強くドアをノックするので、僕は目を覚まし、やがてそれは近所の建設中の建物から聞こえてくる音だったのだと気づくわけなのだが、寝ぼけている僕は「今日こそ大家には出ていってもらおう」とかたく誓っていたりする。
 ぼんやりしたまま冷蔵庫を開けて、牛乳を取り出しながら冷気にあたっていると、今度は本当に誰かがドアを叩いている。また誰か行方不明にでもなったかと訝しく思いながらドアを開けると、そこにいるのはやっぱり真弓さんである。手に持っているのは塗装用のハケだ。いやな予感がする。
 「あんたバイト前に軽く働かない」
 唐突に言われ、何のことだか分からないでいると、彼女は続ける。
 「大家のばあさんがさ、階段の手摺だったらペンキ塗ってもいいって言ったのよ、ふふ」
 「ピンクにですか」
 すると彼女は、うん、と頷く。
 「錆がひどくなる前に何とかしないと、見てくれ悪くなってろくに借り手も見つからないぞって言ったのよ。それでもまだしぶるから、ひどくなったらバキッと折れて修理代かかっちゃいますねって言ったの。そしたら、やるのはあんたの勝手だよって、ふふ」
 借り手もなにも、ここはもう六部屋すべて埋まっているのに、よく大家が承知したものだ。
 「手伝ってよ」
 きたか。
 「いやぁ、今日は忙しくて」
 「バイト、日曜日は夕方からじゃない。今度の舞台のチケット、店の子たちに売ってあげてもいいんだけどなぁ」
 「やります」
 結局この人に逆らえるのは慶太と江口さんだけなのだ。階下へ降りれば、そこにはすでに月舘さんが頭に手ぬぐいを巻いて黙々と作業をしているのだった。
 錆止めの処理をしてからペンキを塗るまでの行程を聞かされて早くもうんざりし始めた時、佐伯さんと娘の祥子が部屋から出てきた。佐伯さんに祥子がまとわりついている。
 「だからね、犬は飼えないの」
 「飼えるもん。しょうこが世話するから」
 「ここは犬は飼っちゃいけないの」
 「猫ならいいの」
 「犬も猫も、毛の生えた動物はだめなのよ。決まりなの」
 「祥子だって毛、生えてるよ」
 「へりくつ言わないの」
 今にも泣き出しそうな顔をして、祥子は佐伯さんの腕にしがみついている。僕たちに気づいた佐伯さんは、これ幸いと小走りに歩みより、何とかしてくれと言わんばかりに眉をひそめる。
 「駅の近くの動物病院の貼り紙見ちゃったんですよ。仔犬ただで差し上げますってやつ」
 それなら僕も知っている。雑種だが、器量が良かった。学校帰りの小学生たちが、病院の前に出されたカゴに群がっているのを、つい先日見かけたばかりだ。
 「祥子ちゃん、犬じゃなきゃだめなの」
 月舘さんに尋ねられて、祥子は首を傾げてしばらく考えた後、ちっちゃいのが欲しいの、と小さい声で言った。
 「みんなペット飼ってるもん。祥子も何か飼いたいんだもん」
 佐伯さんが深いため息をつく。
 「最初は小さくてもじきに大きくなっちゃうのよ。それにここはペット禁止なの。いつまでもわがまま言うと、お買い物連れて行きませんよ」
 いつになく厳しい口調で叱りつける佐伯さんに、祥子はついに泣き出した。そして泣いたまま引きずられるようにして、坂を降りて行った。

 それから僕らは、上段、中段、下段に分かれて錆止めを塗りながら、ペットの話を続けた。
 「もともと好きじゃないのよ。動物とか赤ん坊とか、理屈が通じないものは苦手なのよね」
 「じゃ、何も飼ったことないんですか」
 「小学生の時、インコ飼ってたけど、猫に食べられておだぶつ。一応泣いたけど。脚本家は」
 「僕も小学生の時、犬飼ってましたけど、車にはねられて死にました。やっぱ泣きましたね。だから、その後は何も飼ってないんです。死ぬと悲しいから」
 「ふぅん。……そういえば解体屋の田舎って、金魚とか鯉の養殖やってんのよねぇ」
 「ええ。ザリガニとかサワガニもいますよ。……なんだかはかどりませんね」
 何せ何本もある錆だらけの鉄柵の四面すべてにちまちま塗らねばならないのだ。手間はかかるしすぐに腰が痛くなる。
 「これ、錆びたらそのつどペンキ塗ればいいんじゃ」
 月舘さんの提案に、真弓さんはそれもそうだ、と頷くと、いよいよ例のピンクのペンキを持ってきた。
 「本当に、ピンクにしていいって大家さん言ったんですか」
 「いいのよ。ピンクじゃだめとは言わなかったもん」
 僕らは顔を見合わせたが、真弓さんはすでにやる気である。
 「フースイ的にここは絶対ピンクなの」
 あたしのロマンスがかかってるんだから、と言いながら、中身をバケツに分けている。これは止めても無駄だろうと、僕らは黙って従うことにした。

 「でもさ、ボロアパートでも、こんなご時世なんだし番犬がいてもいいわよね」
 犬はまずいでしょう、ねえ、などと話しながら、手摺はみるみるうちにピンクに染まってゆく。あの人プラモデル感覚ですよね、と月舘さんが笑う。ずっと冗談半分に聞いていた真弓さんの計画が、日曜日の昼間、こうして現実になっていくのが、僕はなんだか愉快だった。
 「さて、僕のところはもう終わりましたよ。……って、真弓さんッ」
 月舘さんの大声に思わず振り向くと、上段で手摺を塗っていたはずの真弓さんは、あろうことか階段そのものをピンクに塗っている。
 「だって、ペンキあまっちゃったんだもん」
 「そうじゃなくて」
 「なによ」
 「それ、僕らどうやって部屋まで帰ればいいんですか」
 「あ、」
 やれやれである。

 乾くまでの間、昼食がてら坂下の喫茶店で過ごすことにした僕らは、例の動物病院の前で立ち止まった。祥子が欲しがっていたあの仔犬を見ようと、真弓さんが言い出したのだ。ところが、仔犬は案の定すでに貰い手がついたらしく、姿が見えない。
 「良かったんだか悪かったんだか」
 「これであの子もあきらめつくわよ」
 その後二時間ほどを喫茶店で過ごし、僕らが春駒荘に戻ろうと坂道を上ってゆくと、前から江口さんが降りてくるのに出くわした。
 「おまえ、とうとうやりやがったな」
 「大家の了承ずみだもん」
 「佐伯家の長女がさっき泣いて帰ってきたぞ」
 「ペンキのせいじゃないわよ、犬のことよ」
 江口さんには要領を得ないらしく、そのままぶつぶつ言いながら行ってしまった。
 「祥子ちゃん、かわいそうですね」
 月舘さんが言う。そして、小さければ何でもいいのかなぁ、とつぶやいた。

 真弓さんのペンキ塗りは、翌々日まで続いた。スナックから帰った後も、夜中までかかって一人で仕上げたのだと言う。階段も手摺もペカペカとしたピンク色に染まって、まるでおもちゃみたいだ。満足げに見上げる真弓さんの横で、佐伯さん親子と僕とが苦笑していると、大きな段ボール箱を抱えた宅急便の青年がやってきた。その建物とあまりに不釣り合いな階段をおっかなびっくり上るのを見て、真弓さんは「あら、ちょっといい男。ロマンス一号」などと言って小さく拍手している。
 「月舘さん、お荷物です」
 青年が月舘さんの部屋の前で叫んでいる。やがて荷物を受け取った月舘さんが、急にいそいそと階段を降りてきた。
 「祥子ちゃん、これ見てごらんよ」
 そう言って、月舘さんは祥子の足下に段ボールを置き、中を開ける。みんなで覗き込むと、そこに入っていたのはサワガニだった。とたんに母親のかげに隠れてしまった祥子だったが、「あら、サワガニ。懐かしい」と佐伯さんが目を細めるのを見て、おそるおそる近寄る。
 「犬は無理だけど、サワガニならいいんじゃないかと思って、実家から分けてもらったんです。けど、ちょっと多すぎたなぁ」
 「犬欲しがってる子に、カニはないんじゃないの」とけんもほろろの真弓さんに、月舘さんは頭を掻いている。
 水槽の中に蠢く無数のサワガニを、祥子はじっと見ている。
 「小さいけど歩く力は強いんだよ。水辺からずっと離れたところへでもどんどん歩いていくんだ」
 「何食べるの」
 「何でも食べるよ。ごはん粒でもパンでも煮干しでもキュウリでも」
 「これ子供なの」 
 「大人だよ。ほら、片方のハサミが大きいのがオス、両方同じなのがメス。夏になるとメスはお腹にオレンジ色の卵を抱えるよ。サワガニは卵からかえった時から、もうカニの形をしてるんだ。小さいうちはお母さんのお腹に抱かれて守ってもらうんだよ」
 月舘さんの説明を真剣に聞いていた祥子は、不意に、お母さん飼ってもいい、と振り向いた。
 「いいんですか」とすまなそうに聞く佐伯さんに、月舘さんはもちろん、と頷いた。
 「こんなにたくさんだと共食いしちゃうから、五、六匹がいいでしょう。水辺と丘と半々くらいになるように砂利を敷いて下さい。大きめの石とか草で隠れ家を作るといいですよ。あと、水はカルキ抜きしたのを、マメに取り替えて。泡吹いてたら、水が汚れてるって合図ですから。あとは、分からないことがあったら聞いて下さい」
 祥子の分をのぞいた残りのサワガニを、わいわい言いながらボウルに移していると、江口さんが顔を出した。
 「お、サワガニか! ビールのつまみにちょうどいいな」
 それを聞いた祥子の顔がみるみるうちに曇ったかと思えば、やがて泣き出した。
 よけいなことを、とみんなに責められて、江口さんはきょとんとしている。泣きながら睨み付けられて、ますますわけの分からない江口さんは、俺の方が泣きてえよなんだよ、と言いながら引っ込んでしまった。
 礼を言って帰ってゆく佐伯さんたちを見送り、真弓さんも部屋へ戻り、僕らだけになると月舘さんはにやりと笑って言った。
 「さて、江口さんとこで一杯やりますか」
 「やっぱり」
 「だってどうするんですか、こんなにたくさん」
 「ですよねぇ」
 「浪人君も誘って」
 「そうそう」
 「から揚げ粉あります?」
 「ありますあります」
 ピンク色の階段を、カンカンと音立てて上れば、ボウルの中のサワガニから雨の匂いがした。梅雨ももうすぐだ。

 
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