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『春駒荘の人々』
第8話
紫陽花の涙

中元彩紀子

 夕方少し早めに店に顔を出すと、ママが和紙に新しいメニューを書いていた。来週から夜だけでなく、昼は喫茶店として店を開けるのだ。黙って店に入ってきたあたしに、ママは顔も上げず、真弓ちゃん今日は早いのね、と言う。そうなのだ。この人はいつだって、見ていないのに見えているようなところがあった。
 「暇だったから」
 あたしがそう言うと、やっぱりママは顔を上げず、じゃあ昼も入ってよ、と言った。
 「いやよ。昼間は忙しいの」
 「どうせお部屋で本読んでるだけでしょうに」
 筆ペンの先が、柔らかな曲線を描いている。あたしはママの達筆な文字を眺めながら向かいに座った。
 「そうでもないわよ。掃除したりペンキ塗ったり」
 「忙しいのはいいことね」
 そう言ってママは初めて顔を上げた。目尻には幾分シワがあったが、外壁の蔦のせいで昼間でも薄暗いためか、あまり目立たない。ママの歳は知らない。たぶん五十くらいだと思う。
 「真弓ちゃんは幾つなのよ、」
 頭の中を読まれたかと思って、ぎくりとした。この人には時々そういうことがあるから気をつけなければならない。
 「二十五だけど」
 「おかしいわね。去年も一昨年もそう言ってたわよ」
 目だけを上げてにやりとすると、ママはまたメニューを書き始めた。
 「しかたないか。女は時間を行ったり来たりするから」
 「ママ、それどういう意味、」
 「たとえば」
 ママは煙草に火をつけると煙たそうに目を細め、それからゆっくりと吐き出した。
 「女は思い出食べて生きられるってこと」
 「よく分からない」
 「分からなきゃいいわよ。でも、美味しくなるには相当時間がかかるのよね。だから、それまでは忙しくするのがいいわ」
 あたしはママの吐き出す紫煙の行方を目で追いながら、高瀬さんのことを言ってるんだな、と思った。

 高瀬さんとはこの店で知り合った。去年のちょうど今頃のことだ。あたしはそれまでとってもお気楽にやっていたから、彼がこの店にふらりと入って来たときだって、普通の一見さんとしてふだん通りお気楽に接した。
 歳は四十三で既婚。仕事は印刷会社の営業マンで、川崎の出身。今はここから二駅先のマンションに住んでいる。四つになる娘は夏でもほっぺたが赤くて、田舎っ子みたいでかわいい。ためしに目に入れてみたけど痛くなかったよ。そんなふうに高瀬さんは自分のことを話した。趣味だという釣りの話や、学生時代はこの先の雀荘でよく遊んだとか、そういう誰でもする話をしていたと思う。しばらくして、おうちに電話しないと心配しませんか、と尋ねた。時々、酔客の女房がむくれ顔で店までやってくるからだ。
 「昨日から奥さんと一緒に田舎に帰省しちゃってるんだ。だから今夜はひとり」
 「なら持って帰って夜食にいただいちゃおうかな」
 あたしが定石通りの軽口を叩くと、急に高瀬さんは眉をしかめた。そのしかめ方が悲しそうだったので、あたしはちょっとびっくりした。
 「きみはそういう子じゃないでしょう」
 あたしはもっとびっくりした。だって、それは幼いあたしが悪いことをしたときの父親の口癖そのものだったから。
 
 あたしのパパは仕事が忙しく、家にはあまりいなかった。だから時々会える娘に対してはめっぽう甘かった。パパとどこかに出かけて帰ってくるとき、あたしはいつも寝たふりをした。そうすれば、パパが家の中までお姫さまダッコをしてくれるのを知っていたから。あたしは優しいその人が大好きで、そして本当にお姫さまのような気分でいた。
 ある日、パパと二人で公園に出かけると、そこには知らない女の人がいて、あたしは頭を撫でられた。挨拶したり、足を揃えて大人しくベンチに座っているだけで、大袈裟にほめるその女の人をあたしは嘘っぽい人だと思った。彼らの話の内容など憶えていない。だけど、その女の人のためにベンチに広げたハンカチを見た瞬間、あたしはその女の人と、そしてパパの優しさを嫌悪した。それはいつか母親と二人でパパのために選んだハンカチだったから。それでも初めて訪れたその公園が物珍しくて、あたしは彼らが何か話している間じゅう、そこいらを見て回った。季節は梅雨で、上がったばかりの雨の水滴が、青い紫陽花にのっていた。房を引っ張って手を放すと、水滴はキルティングのような葉からほろほろとこぼれた。それが面白くて、手当たりしだいに水をはじいて遊んでいると、背後から声をかけられた。
 「おててがびしょぬれよ」
 女の人はそう言って、パパのハンカチであたしの手をぬぐった。ぬぐいながら、真弓ちゃん紫陽花の花言葉って知ってる、と聞いた。あたしはハナコトバなんか知らなかったから、黙ってかぶりを振った。彼女は、あたしを見下ろしてにっこりと微笑んで言った。
 「『移り気』っていうのよ」
 それからじきに、パパはうちを出て行った。

 「だからあたしは紫陽花が大嫌いなの」
 春駒荘までの坂道をのぼりながら、あたしは高瀬さんにもたれかかってくだを巻いた。本当はあたしはザルなのだ。だから酔って足がもつれているのも、ちょっと悲しいお話をたどたどしく語るのもみんなお芝居なのだ。ただ、そうしていると、男の人はうんうんと頷きながら肩など支えてくれる。あたしはあたしについての話を聞きながら触れてくる他人の温度がとても好きだ。むろん、もうお姫さまだっこはしてもらえないが。
 高瀬さんはあたしよりずっと背が高くて、そして丸いお腹をしていた。心臓破りの坂できれてしまった酒臭い息。それをもうしばらく嗅いでいたいと思い始めた頃、春駒荘についた。垣根の青い紫陽花が、夜にぽっかりと咲いていた。
 「ここなの。ボロいでしょ」
 よたよたするあたしを抱えて部屋まで送ると、高瀬さんは片手を上げた。とたんに悲しくなって、あたしは寄っていけ、とだだをこねた。その声がうるさかったのか、隣の部屋から壁をどんどん叩く音がする。
 「じゃ、ほんとに少しだけね」
 困ったような顔でそう言った高瀬さんの顔を見て、あたしは少しひんやりした気持ちになった。
 
 仲良くなった妻子持ちの男がうちまで送ると言ってついて来たとき、そして部屋に上がり込んで、男がベッドにもつれこむタイミングを計りながらくどき文句を言うとき、あたしはいつも果物の皮を剥いた。台所に立って、ナイフでていねいにゆっくりと剥くのを、男は焦れながら待っている。やがて、待ちきれなくなった男があたしの背後に立った刹那、あたしは振り返って男の顎にナイフの切っ先を向けて聞くのだ。
 「そんなにあたしが好きなら、奥さんと別れる?」
 すると彼らは明言こそ避けるものの、たいていは肯定を匂わす言葉を返した。
 「じゃあ、別れるのね。その時は子供もおいていくのね」
 そうたたみかけると、やっぱりたいていが頷いた。その瞬間、ものすごい怒りが込み上げてくるのだ。あたしは男に水をひっかけたり、そこいらじゅうのものを投げ付ける。望み通りの言葉を言ったのに、とうろたえる男。「あんたが不誠実だからよ」とか「だったら最初から結婚なんかするな」と言われながらナイフを向けられて、わけが分からず彼らはそのまま部屋から出ていった。
 「ばかめ」
 すっきりして部屋の片付けをすませ、一杯ひっかけてから床についたその明け方、夢にはいつも紫陽花が出てきた。
 
 高瀬さんは、これまでのどの男たちとも違っていた。彼はあたしに水を飲ませただけで帰っていった。また必ず顔を出すからと言ってドアを閉め、坂道を降りていく彼を、あたしは窓からぼんやりと見送った。
 梅雨の間に、あたしたちは仲良くなった。といっても、もっぱら高瀬さんが店に顔を出し、帰りはあたしを春駒荘まで送り、小一時間だけ話をしてさようなら。時折、あたしが誘うような仕種をしても、彼は「きみはそういう子じゃないでしょう」と言ってたしなめる。いつしか、あたしはその言葉を聞くためだけに、下品な真似をしてみせるようになった。そしてその言葉を聞くたびに、ぐっときてしまうのだった。まるで自分が薄紙で包まれた贈り物にでもなったかのような誇らしい気分だった。
 昼間に外で会う約束をしたのは、梅雨が終わる頃。さすがに、あたしは「ばかげてる」と思いはじめていた。小学生でもあるまいし。だけど、動物園に行きたいと半ば冗談で言ってみたら、高瀬さんは眉を上げて「いいねえ」と快諾した。あたしは、自分を嘲笑しながらも胸がぞわぞわするのを抑えられないでいた。
 昼過ぎに駅で待ち合わせをして、動物園に向かう。昼間に会うのは初めてだったから、いつもより念入りに支度をした。いったん施した完璧な化粧を落とし、すごく薄い化粧にした。いつもの蝉の羽みたいな服はやめて、デニムにTシャツを着て鏡の前に立つと、自分でも気恥ずかしくなるくらい幼かった。とたんに、ちょっと悲しくなった。

 夏休みにはまだ早かったが、日曜日の動物園はやっぱり混んでいて、あたしは動物の匂いと子供の嬌声に酔ってしまった。結局シマウマとプレーリードッグと孔雀しか見られなかった。実際は、もう二度と訪れないはずの時間をなぞっているようで、緊張していたのだと思う。緊張しながらはしゃぐなんてことをしたから気分が悪くなってしまったのだ。ベンチに腰掛けていると、高瀬さんがお茶を買ってきてくれた。本当は炭酸の方が良かったのだけれど、ありがとうと言って受け取った。
 しばらくしてだいぶ気分が良くなると、高瀬さんは娘のことを話し始めた。子供のくせにオヤジみたいないびきをかくだとか、彼女の足の爪を切るときはいつも緊張するとか、その指をパーに広げるのが彼女の得意技だとか。あたしがミュールを脱いで足の指をパーにして見せたら、彼は「ほぉお」と言って感心した。嬉しくなって、今度は両方の足でやって見せた。すると、近くにいた子供がおもむろに靴下を脱ぎ始めたものだから、あたしたちは大笑いしてしまった。
 あたしは、娘について愛おしそうに語る高瀬さんの声を、そのまま持って帰りたかった。持って帰って、何度も何度もくり返し聞いて眠りについたら、どんな夢を見るのだろうと思った。

 帰りの電車の中、あたしたちはどちらも何も話さなかった。寝たふりでもしてみようかな、と思ったけれど、ばからしいのでやめた。車窓を流れる景色を、ただぼんやり眺めていた。
 駅について、あたしは「じゃあ」と言いかけて、やっぱり聞きたかったことを尋ねた。
 「なんであたしと寝なかったの、」
 聞かれると思っていたからか、高瀬さんは目をそらすこともなく答えた。
 「きみが望んでいなかったから」
 「あたし何度も誘ったじゃない」
 「そうしてたら、きみはきっと悲しんだよ。それに、」
 「それに」
 「僕は奥さんと娘が一番大切だから」
 あたしの内部で、パタン、と分厚い本が閉じるような音がした。あたしが、そうでなくっちゃ、と足下を見ながら言うと、高瀬さんは、そうでしょう、とくすくす笑った。
 「なんでうちの店になんか来たの」
 すると彼は初めて目をそらし、少しだけ考えて言った。
 「きっときみが呼んだんだよ」
 それからあたしたちは別段抱き合うとか泣くとかいった劇的な演出もせず、ふつうに「じゃ」と言って手を振りあった。
 赤信号で立ち止まり、振り返ると高瀬さんが駅の券売機で切符を買っているのが見えた。丸いお腹をしていた。
 「ねえ!」
 あたしが大声で呼び掛けると、高瀬さんはゆっくりと振り返る。
 「なんであたしと寝なかったのーっ」
 前を歩く主婦がぎょっとした顔でこちらを振り向く。 
 高瀬さんは吹き出しそうになりながら、「きみはそういう子じゃないでしょう」と大きな声で答えてくれた。あたしは満足して、横断歩道を渡り、もう二度と振り返らなかった。
 それからしばらくの間は、時折思い出しては泣いた。それは嬉し泣きなのに、隣の部屋の運転手はすれ違いざま、ぼそっと「もう、『妻子持ち刈り』はやめとけよ」などと言ったし、佐伯さんは気を使って差し入れがてら様子を伺いにきた。説明するのも面倒なので、失恋したのだということにしておいた。
 
 「また降り出したわよ。真弓ちゃん傘持ってきたの」
 ママがドアを開けると、店の中を雨まじりの梅雨の空気がひんやりと漂う。
 あれから一年、春駒荘の垣根には今年も紫陽花が色づきはじめている。ずっと憎らしかった紫陽花の花。今年はひと房摘んで、庭に植えてみようかとふと思った。

 
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