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『春駒荘の人々』
第9話
半夏生(ハンゲショウ)の夢(前編)

中元彩紀子

 梅雨の明け方の空気は、独特の匂いがする。人の温度にさらされる前に、すでに植物たちに親しまれたその名残りが、僕の腕や頬にまとわりついているようだ。草花の吐く生きる意欲にあふれた空気の中を、半ば泳ぐように歩いていると、既視感にも似た感覚に突然襲われることがある。自分が一体、どこにそれを感じたのか五感を研ぎすませていると、それはたいがい明け方に見た夢と現実の景色が交差しているだけだったりする。
 その朝も、僕は筆が進まないまま気分転換に表へ出たのだった。騒々しい春駒荘が唯一静まり返るのがこの時間だ。サンダルをつっかけて、そっと階段を降りる。真弓さんの塗ったピンクの階段は、最初こそ目に鮮やかすぎて少々辟易したが、今ではすっかり慣れたものだ。
 坂下までコーヒーを買いに行き、戻りしなの出来事だった。人気のない明け方にはめずらしく、坂の上方から一台の自転車が降りてくる。若い女の子だった。黒いポロシャツにデニムのその子は、下り坂をすーっと音もなく降りてきた。そしてちょうど春駒荘の前に差し掛かったとき、彼女は自転車を降りた。カゴの中から何やらチラシのようなものを取り出し、アパートの敷地へ入ってゆく。大方どこかのポスティングスタッフだろう。僕は坂道をゆっくり上がりながら、今入っていったら彼女を驚かせてしまうだろうな、などと考えた。

 ゆっくり歩を進めると、近所の生け垣や庭、側溝などに咲いたたくさんの花に気づく。ついこの間まで膝丈くらいしかなかったたち葵は、すでに僕の身長を越えて薄羽のような一重の花をいくつも咲かせていた。青紫の露草は繁殖力が強いのか、側溝やアスファルトの亀裂からも顔を出している。どこかのこぼれ種だろう、白い百合のような花までが側溝に咲いていた。およそ似つかわしくない場所から咲く花たちが僕は案外好きだ。きれいに手入れされた庭に咲いているものより、発見の喜びがある。幸いにもこの町内には、それらを手入れのために引っこ抜く人もいないらしい。このままどんどん繁殖していったら、道という道が草花に占拠されて、しかし佐伯さんあたりは「あら、ちょっとすてき」なんて言いそうだし、真弓さんなら「フースイ的」に喜びそうだ。そんなことを考えながら、ようやくアパートまで辿りついた。妙なことに件の彼女の姿はアパート内には見当たらず、入り口に止めた自転車もない。いつのまに出ていったのだろう。足下の雑草に気をとられているうちに出ていったのだろうか。首を捻りつつポストを覗くと、そこには一枚のチラシが投函されてあった。
 「劇団ナツヤスミ第一回公演『半夏生の夢』」
 芝居の公演チラシだった。薄青地の紙に二色刷りのそのチラシは、件の彼女が入れたのだろう。お世辞にも手のこんだデザインとは思えなかった。蔦で囲んだ枠内に、隷書体で大きく書かれた演目。あとは日時と場所、簡単な文章とクレジットのみだった。質素なチラシを手配りしているところに、少しせつないような懐かしいような気がして僕は苦笑した。だが、読み進めるうちに、僕はある人物の名前を見つけ、ひどく驚いた。
 「タチバナハルオ」
 それは僕の死んだ祖父と同じ名前だった。でも僕が驚いたのは、その名前が脚本家の欄にあったからだ。祖父は若い頃にやはり芝居の脚本を書いていたことがあると聞いていた。だから両親や親戚には、血筋だねぇ、などとよく言われたものだった。目が出ないところも血筋なわけだが、祖父はそれでも専門誌に時折小さく評が載っていたというから、今頃は空で焦れているに違いない。
 「半夏生の白く葉の色づきはじめる頃、僕らはここへ落とされた。キハダの葉陰、僕らは夏の住処でじっとそのときを待つ。祭まであとひと月。翠色の水辺を見つけなければ、僕らの翅は縮こまり、もうどこへも帰れない。」
 チラシに書かれた文章は短かく、キャッチコピーも見当たらなかった。どうやらメルヘンらしいところを見ると、子供向けに書かれた芝居なのかもしれないと思ったが、それにしては開演時刻が遅すぎる。
 「七月二日午后十時」
 場所は春駒荘の坂を上がった先にある公民館だった。しかも、「当日は黒い服装にて来られたし」とある。
 あの不意に消えた女の子、祖父と同じ名前の脚本家、遅すぎる開演時刻と奇妙な注文。僕は腑に落ちない分だけ、その芝居にひかれてゆくのだった。

 浅い眠りが続き、昼過ぎに目覚めた僕は重たい体を引きずってバイトへ出かけた。最近になって新しく増やした花の配送アルバイト。飽き性なため、年中仕事を変える僕だが、これは続きそうだ。日給はそれほど多くはないが、車に乗っている間は一人きりだから面倒な人間関係もない。何より、花を贈られた人の顔は大概笑顔だし、突然の贈り物に涙ぐむ人さえいて、僕はただの運び屋なのに、うっかり誇らしい気持ちにすらなってしまう。
 夕方になって店に戻ると、店主の奥さんが走り寄ってきた。
 「ちょうどよかった、タチバナくんもう一軒だけ頼まれてくれない」
 「いいですけど」
 悪いわねぇ、と言いながら彼女が奥から持ってきたのは、包装も梱包もされていない葉ばかりの植物だった。根元を新聞紙でくるんだだけのそれを、隣町の華道教室まで届けてほしいと言う。
 「お金はもう頂いてるから。それと、届けたらそのまま直帰していいわよ」
 僕は地図をもらって、その住宅街へ向かった。

 地図を片手にきょろきょろしながら歩いていると、じきにその華道教室の看板は見つかった。呼び鈴を押してしばらくすると、中年の女性が待ちわびた顔で玄関の引き戸を開けた。僕が届けものを渡し、さあ帰ろうとしたとき、奥からもうひとり女性が出てきて言った。
 「あら、センセイ、手に入ったのね。半夏生」
 帰りかけていた僕は、その「半夏生」という言葉に思わず振り返り、あの、と口を開いた。
 「あの、それ半夏生っていうんですか」
 きょとんとした顔で、センセイと呼ばれた女性が頷く。
 「ええ、半夏生ですよ。片白草ともいうの。あら、お花屋さんでもご存じないの」
 最近入った配達小僧なんです、と言うと、彼女たちは合点がいった様子で頷いた。
 「暦の半夏生の頃にね、この上の葉が片面だけ白くなるんですよ。半分化粧をしたようだから、半化粧と書くこともあるの。半夏といえば烏柄杓(カラスビシャク)のことなんだけれど、これも同じ頃に咲くんですよ。湿地の植物だからこの辺じゃあまり手に入らなくて、取り寄せて頂いたのよ。かめに活けると、とっても涼し気でね」
 「あの、暦の半夏生って」
 「夏至から数えて十一日目。今年は七月二日」
 七月二日。あの劇団の公演日と同じだ。
 関心があるなら生徒にならないかという誘いを丁重に断り、僕は帰途についた。

 明け方に投げ出したところから、僕の芝居の脚本はほとんど進んでいなかった。開けた窓からしめった風とともに、階下の佐伯兄妹の声が入ってきて、初めてもう夜の九時を過ぎていたことに気づく。窓辺でいつものように彼らの話声を聞くともなしに聞いていると、庭づたいにやってきたのだろう、真弓さんの声もまじっている。
 「へえ、慶太んとこはうどんなの」
 「真弓さんちは違ったの」
 「うちは母親が関西だったからタコなのよね。タコとワカメの酢の物。関西じゃ、半夏生にはタコなんだって」
 またも半夏生という言葉に出くわして、僕は窓から身を乗り出した。見下ろすと、真弓さんの手にはなるほど、件のチラシが握られている。
 「そのチラシ」
 僕が声をかけると、ああ脚本家、と見上げた。
 「この芝居ってあんたの劇団なの」
 「違いますよ、明け方ポストに入ってたんです」
 「なんだ違うのか。ここんとこ、タチバナってあるからあんたかと思った」
 それは芝居を書いてた僕の祖父と同じ名前なんです、とは言わずにおいた。大成しなかった祖父を思えば内緒にしておくのが賢明である。芽が出ないのも血筋、と揶揄されるに違いない。
 「二日って土曜日でしょ。この子ら連れて行くんだけど、あんたも行く」
 突然誘われて返答に窮していると、佐伯さんが顔を出した。
 「夜も遅いし、男の人が一緒だと助かるんですけど」
 結局、頼まれるかたちで承知したのだが、はなから僕は行くつもりでいた。
 「ねえ」
 「なんですか」
 「脚本家んとこは半夏生に何食べてた」
 僕の家ではそういう習わしはなかったが、それもつまらない。
 「カレーライスでしたよ」
 そう言ったとき、しばらく止んでいた風がすーっと吹いて、僕の足下に例のチラシがはらりと落ちた。うそだあ、という彼らの笑い声を聞きながら、僕は来月のカレンダーに印をつけた。七月二日、半夏生の夜はもうすぐだ。

 
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