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『春駒荘の人々』
第10話
半夏生(ハンゲショウ)の夢(後半)

中元彩紀子

 真弓さんは黒い夏麻のワンピースに、同色のカーディガンを羽織っている。いつも原色の派手な色合いの洋服ばかり着ているせいで、今夜はずいぶんと上品に見えた。慶太も祥子も黒いTシャツに短パン姿で、彼女の横に並んでこちらを見ている。
 「ねえ、ほんとにチケット要らないのかなぁ」
 後ろからのんびり坂を上がってきた僕に向かって、真弓さんが不安げに首を傾げる。
 「どっかの新興宗教のセミナーだったりして」
 僕と真弓さんの顔を交互に見ながら、シンコーシューキョーってなに、と祥子が尋ねている。
 「半夏生の夜は妖怪が出るって、田舎の祖母が言ってましたっけ。とにかく不思議なことが起こるから気をつけろって。迷信でしょうけどね。天から毒が降るからって井戸には必ず蓋したそうですよ」
 出がけに佐伯さんがそう教えてくれた。
 空気は昼間より幾分冷静さを取り戻してはいるが、それでも、夏の夜は妖し気に霞んでいる。妖怪にはうってつけの夜だ。
 
 昼間なら選挙のポスターや、掲示板に貼られた雑多な告知チラシが目につく公民館も、夜更けだと、まるでどこかの廃虚のように見える。入り口でぼんやりと点った電燈に、小さな羽虫が無数にたかっている。その下でぼーっと浮かんでいるのが、劇団ナツヤスミの看板だった。
 ガラスの扉は開いていた。その向こうには黒いカーテンがかかっていた。そこをくぐって入ってゆく人を数人見送って、僕たちも後に続いた。会場は薄暗かった。蛍光灯がついていないうえに、人々は皆黒い服を着ている。ようやく目が慣れてくると、そこには椅子などはなく、わらわらと集まった人々は皆思い思いの場所へ座っているのが分かった。僕たちはちょうど会場の中程あたりに空間を見つけて、座りこんだ。
 夜の外出に興奮気味だった慶太と祥子も、黙って辺りを見回している。
 「クラスの子はいるかい」
 僕が尋ねると、慶太もやはり見知った顔を探していたようで、いないみたいだ、と答えた。
 「それよりさ、知らない人ばっかだよ、ここ」
 訝しく思ってぐるりを見回すと、慶太の言う通り、近所で見かけるような顔はどこにも見当たらなかった。そのとき、開演のベルが鳴った。やがて緞帳がゆっくりと上がりはじめた。そして見えてきた舞台に僕はあっと息を飲んだ。
 そこには本物にしか見えない木々が鬱蒼と茂っていたのだ。袖から風を送っているらしく、時折葉が揺れる。上手には沼でもあるのか、奥の暗幕にゆらゆらと水面が映っている。下手の天幕には三日月がぼんやりと霞んで見えた。耳を澄ませば、何やら鳥の啼き声まで聴こえてくる。土の匂いがするのは気のせいだろうか。まるでどこかの雑木林の一角をそのまま舞台へ運んできたかのような見事な舞台装飾に、僕はあぜんとするばかりだった。
 真弓さんが、なんだかすごいわね、と囁きかけたとき、舞台から声がした。
 「半夏生の夜がきた」
 茂みの中からひとり、またひとりと現れる。少年のようにも見える彼らは皆黒い衣装を見にまとい、背中につけた大きな蝶の翅には、メタリックブルーの紋様が描かれている。光に照らされると妖しく光るのだが、僕はその光源が一体どこにあるのかついぞ分からなかった。
 「あれ、ミヤマカラスアゲハだよ」
 慶太が耳もとで囁く。
 「ほら、尾翅の裏に白い帯がついてる。去年高尾山に遠足に行ったとき、水たまりで吸水してたの見た。オスしか吸水しないんだって先生が言ってた」
 そのとき、前に座っていた女の子が振り返り、しーっと口元に手をやった。そして僕を見て、彼女はなぜか一瞬驚いたような顔をした。その顔には見覚えがあった。あの日、自転車に乗ってチラシを投函していた少女だ。
 
 芝居は、淡々と進んだ。舞台はずっと林のままだ。そこで繰り広げられる物語は、演者の台詞のみによって進む。最初こそ、ふだん見ている若手のエチュードを彷佛とさせたが、暗がりで妖しく光る翅を見ているうちに、僕は彼らの紡ぐ物語にしだいに引き込まれていった。
 
それは輪廻の話だった。前世から引き継いだ業によって尾が縮んでしまった彼らが、前世の記憶をたよりに、業を落とすことができるという翠色の水辺を探している、という設定だ。祭までにそこを見つけ、翅を癒さなければ、また同じ人生をくり返さなければならないという。前世で積んだ業や徳は、みな今生における使命を決定し、要所要所で迫られる選択によって運命は作られてゆくらしい。今生で出会う者たちは、前世でも縁のあった者たちなんだそうだ。そして互いに今生の目的を果たすために、ある者は敵としてある者は味方としてその人生に現れる。そして起こる出来事は、いわば試験のようなもので、答えの選択に誤ると再び来世でも課題として現れるのだという。
 「この世は舞台なんだ。だけど皆そうとは知らずに演じているのさ」
 「大事なのは、単位をとることなんだ。でなきゃ業は消えないんだから」
 「じゃあ、徳はどうなるのさ」
 「美しい翅、美味しい蜜、どこにでもゆける自由」
 「それより、あそこに懐かしい顔がたくさんあるよ」
 演者のひとりが僕ら観客の方を見渡して叫ぶ。
 「だめだよ、彼らは何も思い出せないんだから。しかも祭は彼らにとって死でしかないんだ」
 「せっかく約束して出会っているのに」
 「仕方ないよ」
 こんな具合に彼らの会話はしばらく続き、やがてそのまま下手へひとりひとり消えて行った。すぐそこに彼らの探す水辺が、水面を揺らしているというのに。

 不意に舞台は暗くなり、開演時と同じベルが鳴り響いた。じっと舞台を見つめていたのと、人々が黒い服を着ているせいで辺りを見回してもそこは真っ暗闇だ。ようやく目が慣れてきたかに思えたときだった。
 「どうして春駒荘を書かないの」
 そう聞こえた。前にいた少女だろうか。判然としないまま人波に押されて、僕らは表へ出た。

 「捉えようによっては、宗教セミナーよね」
 真弓さんが笑いかける。
 「青い鳥みたいですよね、すぐそこに目指す水辺があるのに気づかないんだから」
 「でも、あたしちょっと分かる気がするな」
 「何がですか」
 「この人生は一度きりだけど、形を変えてこりもせず繰り返してるってこと」
 「輪廻転生を信じてるんですか」
 「信じてはいないけど、ありかな、とも思う。その方がロマンチックじゃない。たとえば、アンタは前世であたしの家来だったかもしれないわけで、祥子は妹で慶太は旦那だったかもしれない」
 「はあ」
 「で、あたしたちはお互いの単位修得のために、いろいろ打ち合わせして生まれてきている、みたいな感じ」
 真弓さんは影響されやすい。苦笑まじりに適当に相槌を打っていると、祥子が寝ぼけ顔で目をこすりながら、夢見ちゃった、と言った。
 「ショーコが大きくなって赤ちゃん生むの。すごくかわいいんだけど、実はそれは死んだお父さんなの。だから、ショーコはお母さんにそう言うんだけど、信じてくれないの。……なんかお腹へった」
 コンビニに寄ってアイスクリームでも食べながら帰ろうという真弓さんの提案に賛成し、僕らは夜道を歩き始めた。真弓さんと祥子が手をつないで歩く後ろを、僕と慶太は少し離れて歩く。
 「確かにさ、夢見てるような芝居だったな」
 「それより、俺、あの人の旦那なんて絶対やだね」
 「家来よりましじゃないか」
 「家来になるくらいなら、それこそ蝶にでもなった方がいいよ」
 慶太が本当に嫌そうに顔をしかめるので、僕は思わず吹き出してしまう。
 「吸水する蝶ってさ、ションベンしとくといっぱい集まるんだよな」
 幼い頃、林道近くの湿地で父から教わってやってみたのを思い出した。しばらくすると、あちらこちらから蝶がやってきたっけ。
 「げっ汚ねーのっ」
 慶太が笑いながら叫ぶ。
 
 僕は考えていた。ひょっとしてあの芝居は祖父が書いたものなのではないか、とか、だからわざわざ印象づけるようにチラシが投函されたのではないか、そして僕は導かれてここへ来たのではないかとか、それは愚にもつかない想像で、我ながら苦笑してしまった。でも、もし何かの目的をもってこの人生が始まっているのだとしたら――。
 せっかく約束して出会っているのに、という台詞が脳裏をよぎる。
 「どうして春駒荘を書かないのさ」
 そう聴こえたのも、空耳ではなかったかもしれない。何せ、今夜は半夏生だ。何が起きても不思議じゃない。
 真弓さんが振り返る。
 「何、ボケっとしてんの。どれにする、おごってあげる」
 
 春駒荘までの道のりを、僕は黙々とアイスクリームを食べながら歩いた。三日月がぼんやり霞んで浮いている。楽しそうに笑い声を上げながら前を歩く三人の黒い背中。蝶の鱗粉のように一瞬キラキラと瞬いて見えたのは、きっと半夏生の夢にちがいない。


 
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