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『春駒荘の人々』
第11話
お蚕さま

中元彩紀子

 劇団の若い女の子から、うっかり蚕をもらいうけてしまった。ミヤビ、という名前のその子は福島から上京したばかりで、僕はそれまで口を聞いたこともなかった。稽古の初日にペットの蛇を連れてきて騒ぎを起こすような少々変わった子で、無口で何を考えているのか分からない無表情さが、いかにも蛇のようだ、と同じ年頃の団員の間では敬遠されていた。切れ長の奥二重、長い黒髪、体育の授業で着るようなジャージにTシャツ。どこをとっても雅びとは言いがたい風体だ。
 ミヤビから声をかけられたのはつい二時間ほど前のことだ。実際は、声をかけられるというより、背後に気配を感じて振り向いたら、そこにいたのだった。現れかたまで蛇のようだな、と思いながら挨拶をすると、彼女はそれに答えもせず何やら箱を差し出した。
 一瞬ひるんで、何だい、と僕は尋ねた。
 「これ、もらって下さい」
 それはおよそ頼むという言い方とは程遠く、例えるなら「最後通告」といった感じだった。
 だから何、と僕が言いかけると、それを遮るように、彼女は何か早口で言った。
 「なんだって、」
 「蚕」
 「はあ?」
 人生において、バス停で蛇のような女に突然蚕を差し出される確率がどのくらいあるか知らないが、少なくとも僕は蚕好きな男には見えまい。
 「蚕。うっかり買っちゃったんです。熱帯魚屋で」
 「え、あ、開けなくていいから」
 蓋を開けようとする彼女を止め、僕は先を促した。
 要約すると、こういうことだ。
 蛇の餌を買いに行く熱帯魚屋というのは爬虫類も扱っている店で、彼女はそこで、餌として売られていた蚕を見つけた。小学生の頃に学校で飼っていた蚕のことを思い出して、懐かしくなりつい衝動買いしてしまったのだ。ところが、餌として売られているので、蚕を育てるに必要な桑は十分にない。この辺りで桑を探すのは難しい。
 「ミヤビちゃんって言ったっけ。きみが困っているのは分かったけどね、買った以上は責任があるでしょ、」
 「だから頼んでるんです」
 「どうして僕が、」
 「だって、お花屋さんでバイトしてるって聞いたから、」
 花屋に桑はない。
 「それにタチバナさんて、」
 なんだというのだ。
 「蚕に似てる」
 二の句がつげないとはこのことだ。バスが近づいてくる。
 「こないだの蛇にでもやれば」
 そんなかわいそうなことは出来ないと、彼女は首をふる。
 「蛇って何食べるの、」
 「ピンクマウス。冷凍の」
 ネズミはよくて蚕がだめだという道理が分からない。バスの扉が開く。
 「とにかく僕は無理だから、ね」
 そう言い放って逃げるようにバスに乗り込んだ瞬間、彼女は僕の腕を引っ張り、強引にその蚕の箱を胸の辺りに押し付けてきた。その直後、扉は無情にも閉まり、バスは僕と蚕を乗せて発車してしまったのだ。遠ざかる彼女は軽く頭を下げ、そしてニヤリと笑った。

 
 「で、その子がうっかり買っちゃった蚕を、あんたがうっかりもらいうけたわけね」
 ピンクの階段に腰掛けて、真弓さんはニヤニヤしている。  
 「気持ち悪いけど、懐かしいよねえ。小学生の時、観察日記か書かされたっけ」
 所詮他人事だ。
 「ところでさ。あんた、なんでさっきから箱の中見ないのよ。あたしにだけ見せてさ」
 ぎくりとする。
 「ひょっとして、虫、怖いんでしょ」
 ばれたか。
 バスに乗ってから春駒荘に着くまで、僕はずっと箱の蓋が開かないように、肩が凝るほど力をこめて持っていた。そして、誰か出て来ないかと思い、春駒荘の前をうろうろしていたところに、真弓さんが帰ってきたというわけだ。
 「僕、虫はたいがい平気なんですけど、芋虫とか毛虫はだめなんです」
 真弓さんは、うひゃひゃひゃ、と笑い、やにわに箱の蓋を開け、あろうことか僕に迫ってきた。
 「何すんですかーッ」
 真弓さんはしつこい。僕の叫び声と真弓さんの嬌声がよほどうるさかったのか、「ちょ、ちょっと、し、静かにして下さい」と、梅田君の怒声が聞こえる。やがて、月舘さんが降りてきたかと思えば、慶太と祥子も部屋から出てきた。
 「あ、蚕ですね、懐かしい」
 「俺、三年の時、クラスで飼ってた」
 月舘さんも慶太も、箱の中でうようよ蠢く何十匹もの蚕を、平気で触っている。
 「そうだ、解体屋か慶太んちで飼ってやってよ。脚本家は虫が怖いんだって。いつもすました顔してるクセに、今日は青くなってんの」
 「ほんとだ。鳥肌立ってる」
 祥子が僕の腕を覗きこんで笑う。ほっとけ。
 「俺んちだめだよ。母さんがいやがる」
 慶太が首をふる。じゃあ真弓さんと僕で、と月舘さんが言うと、真弓さんは眉をしかめる。
 「いやだ、気持ち悪い。シルクのスカーフになってからならもらってやるわ。だいたい桑の葉なんか探すヒマないわよ」
 箱の中は、ちらと見ただけだが、もう葉も残り少ないようだ。
 皆して腕ぐみして頭を悩ませている。そもそもこれは僕の持ち込んだ蚕だ。真弓さんを警戒して、少し離れた場所から僕も話に加わる。
 「やっぱり、彼女に返してきますよ。それにしても、桑だけはなんとかしないと」
 「あ、」
 それまで考え込んでいた月舘さんが、急に大きな声を出す。
 「そうだ。僕ね、明日から現場、八王子なんですよ」
 だから何だ、といった顔で皆が彼を見る。
 「あの辺って昔、養蚕がさかんだったんですよね。桑の木くらいあるかもしれない。探して採ってきますよ」
 それを僕に向かって言わないで欲しいのだが。
 「分かってますって。僕が預かりましょう」
 ありがたい。月舘さんに礼を言って、まだなおクスクス笑う真弓さんを睨んでから、僕はやっと帰宅したのだった。


 翌日、夜の八時を回っても、まだ月舘さんは帰って来なかった。原稿を書きながらながらも、気になって表の物音に耳をそばだてていると、九時近くになってようやく隣のドアの音がした。訪ねようかと思っていると、再びドアが開いて階下へ降りていったようだ。しばらくするとドアを誰かがノックする。出てみると、月舘さんだった。
 「桑の葉、手に入りましたよ。で、例の人には返さなくていいですよ。今、下に持ってったんです。祥子ちゃんの夏休みの自由研究の題材にするとかで、佐伯さんとこで飼育することになりましたから」
 それだけ言うと、月舘さんは帰って行った。
 窓の外から顔を出すと、案の定、兄妹の足が見える。
 「なんだか悪いね、きみ達」
 声をかけると二人がこちらを見上げる。
 「いいよ、別に。でもその代わり頼みがあるんだけど」
 「なんだい、」
 すると慶太はしばし考えたのち、やっぱ今度でいいや、と言って先を言わなかった。
 「それよか、よっぽど腹減ってたんだ。すごい勢いで食べてる。ほら、そこからも見える、」
 箱を掲げる慶太を制して、苦笑していると、隣の窓が開く。
 「昼休みに農協に電話して養蚕業やってるとこ聞き出して、夜訪ねたんですよ。そしたら、いろいろ説明されてこんな時間になっちゃいました。でも、すごい量の桑の葉もらえたんでよかった」
 「すみませんでした。でも、そんなにたくさんいるんですか、桑」
 「なんでも、今の倍くらいの大きさになったら、一晩中食べるらしいですよ。何せ、夕立ちがきたような音がするっていうから」
 一瞬、蚕が夕立ちのように降ってくる様子を想像してしまって、鳥肌が立つ。
 「時期がきたらまぶしを作ってあげるよ」
 月舘さんが階下に声をかける。
 まぶしって何ですか、繭作りの部屋のことですよ、ふぅん…。そんな会話をしている時だった。真弓さんが庭伝いに兄妹のところへゆくのが見える。
 「人んちの庭を横切るなって言ってんだろ。びっくりするじゃねえかよっ」
 顔は見えないが江口さんの声がする。
 「明日朝早いんだよ。眠れねえじゃねえかっ」
 やがてすっかり目が冴えてしまった江口さんが縁側に顔を見せる頃には、すでに梅田君は二度ほどヒステリーを起こしていた。
 
 「でね、蚕って不思議なんですよ。蛾になっても飛ばないの。すぐ交尾して、産卵したら即ぽっくり」
 「へえ。なんだか切ないですね」
 慶太によると、繭の糸は伸ばすと二キロ近くにまでなるのだそうだ。それは、織物として重宝がられ、粉末にすれば食品にもなるのだという。シルクの上では菌が繁殖しないことから、医療分野での研究もすすんでいるらしい。
 「なんだか人のためだけに生まれてきたみたいね。お蚕さまって呼ばれるのも分かるわよね。…あれ、この黒いのウンチ、」
 慶太の隣に腰掛けて、真弓さんが箱を覗き込んでいる。
 「そうだ、真弓さん。蚕の糞って、美肌にいいそうですよ。いかがですか、」
 「冗談じゃないわよ」
 皆が一斉に笑ったところで、またも梅田君の咳払いが聞こえる。
 「そういや、蚕のさなぎって佃煮にして食えるんだよな」
 江口さんの言葉に、祥子が「ダメーっ」と泣きそうな声で釘をさす。
 こないだのサワガニだって、と江口さんが余計なことを言いかけて、僕らは肝を冷した。何せ、祥子はいつかのサワガニに一匹一匹名前をつけては可愛がっているのだ。
 「これだけいれば、相当な量のシルクが採れるわよね、」
 色気を出した真弓さんの手から蚕の箱を奪い返すと、祥子が、あっと声を上げた。
 「みんな上見上げて動かないよ。死んじゃったの、おにいちゃん」
 「違うよ、脱皮する合図だ。見ててごらん、そのうち脱皮して大きくなって、もっときれいな白になるから」
 
 気づけば夜も更けて、涼しい風がどこかの風鈴を鳴らす。
 「そういえば、僕、昨日蚕に似てるって言われたんですけど」
 「利用価値アリってとこじゃないの。実際、利用されたわけだし」
 「タチバナさん色白いからかなぁ、」
 「あんた糸は吐かないもんねぇ」
 当たり前だ。
 「『売れない』を『飛べない』で喩えたんじゃねえかウハハ」
 皆、口々に勝手なことを言う。
 良質な芝居を紡ぐ脚本家、とは誰も言っちゃくれない。
 やがて「そっか、おい真弓」と、江口さんが膝を打つ。
 「何さ、」
 「脚本家の糞も美容にいいぞ。食え食え」
 一拍間をおいて、真弓さんの「バッカじゃないの!」の声と同時に一斉に笑う。
 その時だった。
 「いいかげんにしてくださいッ」
 ついに梅田君を本気で怒らせてしまったようだ。彼が吃らないというのは、そういうことなのだ。
 
 「あいつもいつか飛べるといいんだがなぁ…」
 静まりかえった春駒荘で、江口さんがポツリとつぶやいた。
 さしずめここは「まぶし」ってとこですね、と月舘さんが続く。
 「やめてよ、辛気くさい。寝よ寝よ」
 真弓さんがそう言って引き上げるのをきっかけに、僕らはそれぞれ部屋に引っ込んだ。
 「祥子、蚕の糞だけどさ、一応とっといてくんない、」
 やっぱりか。窓の外から真弓さんのひそひそ声が聞こえた。 
 やれやれである。


 
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