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『春駒荘の人々』
第12話
朝顔の君(前編)
中元彩紀子 |
祥子の蚕も随分大きくなってきた、と今朝、出がけに出くわした月舘さんが言っていた。あまりにもりもり食べるので、彼は仕事で現場に行くたびに、農家に頭を下げねばならないと苦笑いしていたが、最近では女主人であるおばあちゃんに気に入られて、夕飯の御相伴に与ることもあるのだと言っていた。今日は桑畑をのぞむ縁側で、そこの子供たちと花火をするのだと言って、彼は坂を降りていった。夕方僕が稽古場で、蛇女の雅に蚕は元気だと伝えると、ふだんは能面のような顔をしている彼女が珍しくにっこり笑ったので、蛇も笑えば愛嬌があるのだと知った。
冷房のない部屋の中で、窓を開けて寝転んでいると、どこからか太鼓の音が聞こえてくる。時折マイクで何やら指示を出す男の声がする。盆踊りの練習でもしているのだろう。春駒荘の坂道の途中にある空き地で、やぐらが組まれているのを見たばかりだ。先週から街のあちらこちらに、ピンクの提灯が揺れている。網戸の隙間から入ってきた蚊に気づいて、パンッと手を叩いた瞬間、部屋のドアがノックされた。
立っていたのは慶太だった。
「どしたの、」
あ、いや、と口籠り、慶太は皿を突き出した。
「母さんが、これ。蚕のお礼だって」
皿の中にはこんもりと豚の角煮が盛られている。佐伯さんの手料理はまずはずれがない。ありがたく受け取ると、慶太はまだもじもじしている。
「悪いね。引き取ってもらって礼を言うのはこっちなのにさ」
そう言うと、慶太の表情はぱっと明るくなり、何やら言いたげだ。
「だったら頼みがあるんだけどさ」
こないだ慶太が何か僕に言いかけたのを思い出した。
慶太は畳にあぐらをかいて、部屋を見回している。クーラーくらい買えだの、本ばっかりで殺風景だの、ぶつぶつ言っている。慶太の浅黒くて小枝のような細い足を見ていたら、ふいに子供の頃よく食べた同じ名前のチョコレートを思い出した。思い出したら急に甘いものが食べたくなって、僕は台所に立つ。冷蔵庫の奥には、今年のバレンタインに佐伯さんがアパートの住人たちに配ったやつがまだ入っているはずだ。
「チョコ、食べる、」
いらない、とすげない返事が返ってくる。仕方なく、僕は冷蔵庫の中から麦茶だけ取り出し、部屋へ戻った。
テーブルの上に広げてあった新聞をたたんで床に置き、かわりに佐伯さんの角煮と麦茶を並べる。これが冷えたビールなら完璧だ、などと考えながら、角煮をつまむ。旨い。
「旨いね、この角煮」
慶太は窓の外を眺めたまま、こちらをちらとも見ずに、それ角煮じゃないよ、と答えた。
「ラフテーって言ってた」
「ふぅん。どっちにしても旨い」
「最近そんなのばっかりさ。ゴーヤチャンプルとかさ。先週なんか豚の耳食わされた」
「沖縄の人は長寿だからなぁ。いいじゃないか、沖縄料理」
慶太はまだ外を眺めている。いつもと様子が違う。こちらから水を向けるのを待っているのだろう。
「で、頼みって、」
僕がそう問いかけると、慶太はくるりとこちらに向きを変えたが、目を合わせない。居心地の悪くなった僕が、沖縄料理について続けようとすると、慶太は吐き捨てるように言った。
「オレは沖縄になんかぜっっったいに行かない」
その言い方が、いつも飄々としている慶太らしくないので、僕は面喰らう。
「一体どうしたんだよ。だから頼みって何なんだい、」
足下の畳のほつれをいじりながら、慶太は口をとがらせている。
「母さんの職場に、むかつくオヤジがいるんだ。オレと祥子は今度、そいつと飯を食わなきゃならない」
慶太の話よると、その佐伯さんの上司にあたる男は、去年の夏に佐伯さんの職場に異動してきたそうだ。夫と死別し、安アパートで小さい子供を二人も抱えて働く佐伯さんに「つけ入って」、花だの輸入食器だのを送るようになったのはごく最近のことだという。先日、祥子と慶太を連れて僕と真弓さんが例の芝居を観に出かけた日、帰宅すると佐伯さんは薄化粧をしていたらしい。きっとその男に会っていたに違いない、と慶太は憎々し気に言う。佐伯さんを丸めこんで、ゆくゆくは自分の故郷である沖縄にでも住もうと目論んでいるに違いない、と慶太は鼻息を荒くする。このところ食卓に沖縄料理が並ぶことが頻繁になったという。
「そいつ、お子さんたちも連れてたまにはレストランでお食事などしませんか、とか言ってんだぜ。調子にのりやがって」
「飯食うくらい、いいんじゃないの」
それを聞いて、慶太はうんざりした顔で、分かってないな、と言った。
「あのさ、脚本家。オレ達がそこへのこのこ行ったら、母さんとそいつが結婚するの許したみたいじゃないかよ」
なるほど。
「祥子ちゃんはなんて、」
「あいつもバカだから、レストランレストランって喜んでるよ」
ちょっとやめてくれないかなそれ、と慶太の畳をむしるのを止め、しばし考える。
「ようは、キミはお母さんが再婚するのがいやなわけだ」
ぶすっとしたまま慶太は頷く。
「オレ達はずっとここで三人で暮らしてきたんだ。それでいいんだよ」
ここで僕が、お母さんにはお母さんの人生が、などと言おうものなら、一生口を聞いてくれなそうだと思い、僕は先を促した。
「だって、佐伯って名前は死んだ父さんの名前なんだぜ。オレはずっと佐伯だし、父さんは一人で十分だよ」
それに、と慶太は口籠る。
「それに、オレはずっとここに住んでたい。父さんが死んでオレ達は三人家族になったけど、ここへ越してきてからは、」
「越してからは、」
少し黙って慶太は、さびしくない、とつぶやいた。
それから慶太が僕に持ちかけた頼み、というのに僕はまいってしまった。
僕に脚本を書けというのである。
「たとえばさ、レストランへ入ってきてそのオヤジに決闘を申し込む、とかさ。麗子さんは渡さない、とかそういうこと言って」
さすがにそれは無理だと難色を示す僕に、慶太は怖いことを言う。
「夜中に蚕、ばらまくよ」
そんな脅迫に、僕はつい脚本を書くと約束してしまったのだった。
巨大な白い蚕は、僕を桑の葉に巻き、今にも食い付こうとしている。僕は、「オレは生春巻きじゃないッ」と叫ぶ。と、そこで目が醒めた。もう昼近くである。夕べの慶太のせいで見たとんでもない夢に、僕は寝起きからぐったりしていた。
バイトに行く前に、駅前の喫茶店でブランチでもしようと階段を降りると、佐伯家の前で真弓さんの声がする。
こんにちは、と声をかけると、そこには佐伯さんもいて、何やら土いじりをしていた。
「何してるんですか、」
「玄関のそばに朝顔植えてんの」
真弓さんとしゃがんだ佐伯さんの手もとに、鮮やかな青や薄紫の朝顔が揺れている。
「あ、夕べは慶太が長いことお邪魔してたみたいでごめんなさい」
僕は、あなたの話をしてたんですよ、とも言えず曖昧に笑い、ラフテーのお礼を言った。すると真弓さんが急にニヤニヤしはじめ、佐伯さんをつついている。
「何よ、もう嫁支度してるわけ、」
違いますよ、と佐伯さんが顔を赤らめている。僕は、合点がいったが話に加わるわけにもいかず、適当にその朝顔をほめた。
「あ、これね、佐伯さんのフィアンセからの贈り物」
話題をそらすつもりが、墓穴を掘ってしまった。
「フィアンセじゃありませんよ。真弓さん、やめて恥ずかしい」
照れて顔も上げずに土を掘っている。
「でもさ、その人も間が抜けてるわよね。朝顔の花言葉って確か“はかない恋”だったわよ」
僕はけたけたと下品に笑う真弓さんをブランチに誘って、その場を辞した。
「あんたが食事に誘うってどういうことよ。あたしに気でもあんの」
窓際の席で、彼女は夏だというのにビーフシチューをすすっている。この店のメニューで一番高いやつだ。
「違いますよ」
「冗談だよ、バカだね。で、なんか話があるんでしょ」
「ええ、ちょっと」
食べ終わってからにしてよね、と言って、彼女は近くの女性誌をぱらぱらめくりながら黙って食べている。僕はサンドイッチをつまみながら、どこまで話そうか考えていた。やがて食べ終わった真弓さんは、メンソールに火をつけ、煙を細く吐き出すと、見当はついてる、と言った。
「おおかたさ、慶太から佐伯さんのこと相談されたんでしょ」
するどい。それなら話は早い。
「要は、その、佐伯さんの恋路の邪魔をしろって言うんです」
僕は夕べの慶太からの頼みごとをかいつまんで話した。
黙って聞いている真弓さんに、僕はあることを思い出して聞いてみた。
「真弓さんいつだったか、大家さんに言ってませんでしたっけ。こんなみてくれが悪いとろくに店子が入らないとかなんとか」
「言ったよ」
「それって、佐伯さんがその朝顔さんと結婚して近いうちに引っ越すってこと、」
「決まったわけじゃないけどさ、その可能性はあるでしょ、やっぱ。あそこに朝顔の君が越して来るわけないじゃん」
そうか、とうなだれる僕に、今度は真弓さんが話しはじめた。
「その朝顔の君はさ、バツイチなんだって。子供はいないの。で、あたしはその男との結婚には賛成なのね。なんでかって言うと、朝顔の君も子供の時に父親亡くしてて、慶太と同じなの。その後母親が再婚して継父に育てられたんだって。最初こそ反発してたらしいけど、新しい父親がすごくいい人だったもんだから、結局うまくいったわけね。それに、前の女房と別れたのだって、相手の浮気なわけだし。何せ、二人の子持ちの貧乏な女を貰おうってんだから、きっといい人よ、うん。慶太のことも分かってやれるだろうし。だいたい、佐伯さんてまだ若いし清貧だし、料理うまいし、一人にしとくのもったいないよ。それに、彼女だってそろそろ幸せになってもいいんじゃないの。慶太の気持ちもわかるけど。」
「真弓さん、その朝顔さんに会ったんですか、」
「うん。こないだちょっとね。丸顔でまさに朝顔。誠実そうな男だったよ。イケメンじゃないから許してやった」
沖縄の男っていうのはあれだね、顔が濃いね、などと言いながら、真弓さんはまたメニューを眺めている。まだ何か注文しようっていうのか。
「で、まさにはかない恋にすべく、あんたは残酷な脚本を書くわけだ」
「どうしよう。困った」
相談に乗ってやってもいいんだけどさ、と真弓さんは頭を抱える僕を覗き込む。
「ほんとですか」
「力になってほしいの、」
頷く僕に、真弓さんはしょうがないな、と言い、大きな声で店員を呼ぶ。
「すいませーん、クリームソーダとあんみつーっ」
蚕といい慶太の脅迫といい、ここのところの僕はツイてない。
真弓さんはにこにこしながら、黒蜜をかけている。
「たかりって言うんですよね、こういうの」
それを無視して、まあ聞きなさいよ、と、真弓さんは自分のアイデアを話し始めた。
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