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『春駒荘の人々』
第13話
朝顔の君(後編)
中元彩紀子 |
真弓さんは窓の外を見遣りながら、ほら、と顎をしゃくる。
彼女の視線の先には、駅前の横断歩道を渡るひと組の家族がいた。後ろ向きなので表情は分からないが、父親と手をつないだ子供の跳ねるような歩き方や、子供の肩に手を添える母親を見れば、それはまごうかたなき幸せな家族の姿だった。
「あんた、今幸せそうな家族だって思ったでしょ」
意地の悪い笑顔を浮かべてそう言われ、僕は口籠る。
真弓さんはグラスの底に沈澱した、クリームソーダの残骸に目を落とし、それをストローでつつきながら言う。
「ほんとに幸せかもしれないし、幸せそうに見られたいだけかもしれない。父親は他所でよからぬことをしてる、その罪悪感から家族サービスに徹しているのかもしれないし、母親の過干渉に子供は内心辟易してるかもしれない。もしくは親の過大な期待に応えようと、はしゃぐふりを必死にしてるのかもしれない。そうでないと居場所が失われるから。過干渉の母親だって、幸せだと思われたいのは自分に自信がないからで、根っこのところじゃいつこの幸せごっこが崩壊するか不安で仕方がないのかもしれない」
親子連れは駅の発券機の前で料金表を見上げて何やら話している。
「なんでそんな後ろ向きな解釈なんですか、」
言い終わらないうちに彼女は答える。
「たとえばの話だよ。あたしね、幸せに見える家族って信じてないの」
僕が二の句がつげないでいると、真弓さんは急に笑い出す。
「この人の過去に何があったんだろう、みたいなこと思ったでしょ、今。やめてよ、何にもないわよ別に。ただ、」
「ただ、」
「洗剤のコマーシャルみたいな家族、あれは幻想だってことを肝に命じておかないと、うっかり期待してしまうって話」
真弓さんだって幸せになりたいから、ピンクのペンキを抱えてたんじゃないのか。だいたい、僕は彼女が入れ知恵してくれるというから、たかりにもめげずこうしてここにいるのだ。論点が見えず、居心地が悪い。
「それと慶太のことと何か関係があるんですか、」
すると真弓さんはさもうんざりといった様子で煙草に火をつけた。
「鈍いわね。慶太は母親が子供たちのために再婚しようとしてるって思ってんのよ。片親じゃなくて両親の揃った家庭が必要だって。外から見たふつうの家族なんてアテにならないものなのに。人はいつ死ぬか分からないし、悲しみは長く居座るのに、幸せは瞬間でしか感じられない。慶太はそういうこと分かっちゃってる子なのよ、子供のくせに」
「体裁のための家族なんていらないってことですか」
「そう。ま、佐伯さんはそんなつもりではいないはずだけど。それよりあの子自身が怖いのよ。もしまたあの喪失の悲しみが襲ってくるようなことがあったらって。あの子はまだ父親をどこかで憎んでる。わき見運転の単独事故でぽっくり死んで、自分たちと母親を悲しみのどん底に突き落とした父親を」
「朝顔の君にも、その影を見てるってことか」
真弓さんは頷いて、すぼめた口からゆっくりと煙を吐いた。
バイト中も芝居の稽古の最中も、僕はずっと慶太のことを考えていた。春駒荘へ来てからは寂しくない、と慶太はつぶやいた。いつかは別れる連中だと分っているから寂しくない、そういうことだったのかもしれない、と僕は思った。
翌日、僕が慶太に会いに行こうとドアを開けると、階段を上がって来る慶太と目があった。
「よお」
慶太はちらと階下を見やり、佐伯さんが見ていないのを確認すると、脚本は、と聞いてきた。
そのことなんだけどね、と僕が口籠ると、慶太は大袈裟なため息をつく。
部屋にあげ、あぐらをかいて向き合う。
「よく考えたんだけどね、」
「怖じ気付いたんじゃないの、」
ひざ小僧のかさぶたを掻きながら、どうせそんなとこだろうと思った、と鼻で笑う。その表情が口調とは裏腹に、大人びて見えるのは真弓さんのせいだろうか。
「僕はきみのお母さんが悲しむような脚本は書けないよ」
前の晩から考えていた台詞を早口で、でもきっぱりと告げると、慶太はごろんと横になり天井を凝視した。その表情からは、何の心情も読み取れない。読み取れないまま、僕は言った。
「君が朝顔さんと対決すればいいじゃないか」
慶太は目だけこちらに向け、どうやって、と聞く。
「面接するんだよ。で、試用期間を設ける。会ってみてどんな奴か観察してやるんだよ。猛反対するのはそれからでいい。どうだい、」
真弓さんと話をして決めたことだ。朝顔の君にはもう話は届いているはずだった。僕は慶太をその気にさえすればいい。
黙って考えている慶太に、怖じ気付いたんだろ、と同じことを言い返してやる。
「べつに。朝、母さんが言ってた。レストランやめて明日の夜うちに夕飯食いに来るんだってさ。…もし、脚本家が朝顔の犬だったら、オレ許さないよ。蚕ばらまくどこじゃすまない」
「誓って犬じゃない。まだ会ってもいないよ。会ったのは真弓さんだけだ」
「どんな奴だって、」
僕は彼の事情は省いて、朝顔みたいな丸顔で誠実そうな人らしい、とだけ伝えた。慶太は、ふうん、と言っただけでしばらく何も言わず、ただ天井を眺めていた。そして腹を決めたのか急に立ち上がり、「今年の夏休みは気が重いぜ」と言いながら階下へ降りていった。
僕が通う劇団の稽古場の裏手には小学校がある。昼間に窓を開けると、プールに通う児童たちの嬌声や、教師の吹く笛の音が響いてくる。陽の光に晒される水しぶきの一つひとつをとらえようとしていると、その向こう側のプールサイドを歩く少年たちに焦点が定まる。つつき合いながらはしゃいでいる。ちょうど慶太くらいの学年だ。あんな風に楽しげに笑う彼らも、すでに小さな暗がりを持っているのだろうか、と思う。子供は僕らが思うほど、シンプルで明快に生きているのではないのかもしれない。
今夜、朝顔の君が佐伯家を訪れる。僕は稽古場の隅で、何も今日でなくてもかまわない脚本の手直しをしている。この分だと、深夜までかかりそうだ。何しろ、台詞ひとつ、ト書きひとつ変えるまでの間に、僕の思考は慶太に寄り道をする。怖じ気付いた、と言われたっけ。慶太は鋭い。常に傍観者でいようとする僕の軟弱さを見抜かれた気がした。他人の心のひだに触れるのを億劫がっていては、いい芝居など書けない。
「書けないよ」
その言葉にぎくりとして振り向くと、役者の一人が模造紙に何やら書き付けている。手にしたマジックを振って、インクが出ないとぼやいていた。
結局、僕が帰ったのは夜の九時を過ぎた頃だった。坂を上り、春駒荘を見上げると、どことなくアパートが緊張の膜に覆われているように見えた。そんな必要もないのに、足音を立てぬように歩く自分に苦笑してしまう。
部屋に入り、シャワーを浴びて窓を開けると、階下から僕を呼ぶ声がする。
何事だ、と慌てて顔を出すと、そこには缶ビールを片手に僕を指さす真弓さんがいるじゃないか。何してるんですか、と口を開こうとした時だった。
「ね、あれがさっき言ってたうちの飛べない脚本家」
真弓さんに促されてひょっこり顔を出した丸顔の男。
あっ、と声を上げる僕に、彼は赤い顔をして、会釈をする。
「こんばんはぁ」
その声は彫りの深い顔に似合わず妙に高く、昨日からの暗澹とした気分を思えば、拍子抜けするほど呑気な声だった。
「西原です。どうも。よろしくお願いいたしします。こんなところからすみません」
つられて僕も挨拶するのだが、思わぬ展開にこっちまで声が上ずってしまう。
「あの、真弓さん、慶太は、」
「今そっち行ったわよ。それより服着なさいよ失礼ね」
「え、」
僕はパンツ一枚の格好で、初対面の朝顔の君にペコペコ挨拶していたのだった。
沖縄祭りだよ、と慶太はうんざりした顔で、皿に盛られたラフテーを差し出す。
「あいつ、来るなり何て言ったと思う。本日はお招き頂いてありがとうございます。ささやかながら、坊ちゃんとお嬢ちゃんにはこんな物を用意してまいりました…」
窓が開いたままになっていることに気づいた僕は慌てて閉めに走る。
「坊ちゃんだぜ、坊ちゃん。で、その用意してきたっていうのが、母さんには花束で、祥子には犬のぬいぐるみで、オレには虫捕り網と虫篭。しかもさ、虫篭ん中、すでに入ってんの」
「何が、」
「クワガタだよ。意味ないじゃん。女子は花と人形、男子はクワガタで気を引こうってところが甘いんだよ。ああゆうのステレオタイプって言うんだよね。で、さっきまで三線弾いて真弓さんと歌ってた。江口さんは酔っぱらってうるさいからさっき部屋返した」
「江口さんも来てたの、」
「真弓さんと庭で変な踊り踊ってた。うるせえから台所でオレ、宿題広げてたんだよ。そしたら、算数なら教えられます、だって。調子に乗ってるからさ、母さんに聴こえないように言ってやったんだ。うちの家族を守るのはオレの役目だって。そしたら、あいつ何て言ったと思う。分ってますよ、って目を瞑って大きく頷くんだ。お母さんから聞いてますって。芝居がかっててやんなった」
僕は慶太のあまりの多弁ぶりに圧倒されていた。
「で、初対面の評価はどうなんだい、」
慶太は上気した顔を少し傾げてから、だめだね、と言った。
「どの辺が、」
するとしばらく考えて、子供っぽい、と言ったので、僕は思わず声を上げて笑ってしまった。
「だって、来週の土曜日にさ、クワガタの雌を捕りに行くって言うんだ。雄だけでは可哀想だって、真面目な顔して。あの人形焼きみたいな顔が真顔になって迫って来るんだよ、断れないよ」
おや、と僕が意外な顔をしたのを見て、慶太が慌てて付け加える。
「連れてってもらうんじゃないよ、しょうがないからつき合ってやるだけだよ。それに言ったじゃないか、観察しろって」
ぶすっと答える慶太は、まるで娘を貰いに来られた父親だった。
階下では再び笑い声が起きている。慶太は呆れ顔でこちらを見るが、そこには居心地の悪さとともに、どこか照れたような色が見えた。昨夜ののっぺらぼうを見ている僕は、少し安心した。
「傍観してるだけじゃ、掴めないのかもしれないな」
僕の独り言に慶太が首を傾げる。
「真弓さんにとっての家族、僕にとっての芝居」
「何のことだよ、」
分かんなくていいの、と誤魔化すと、子供扱いするなと背中を小突かれた。
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