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『春駒荘の人々』
第14話
シュレーゲル氏のアオガエル
中元彩紀子 |
店を閉めたあと、頭痛がすると言って横になっているママに代わって、あたしはひとりで後片付けを始めた。店の奥にある唯一のボックス席には、最後までママにからんでいた酔客が残していったティッシュのこよりやどこかのレシートなどの紙屑が散乱していた。ソファからだらりと下がったママの手はいまにも床についてしまいそうだ。横たわるママは、その客の業をぜんぶ吸いとらされたようにぐったりとしている。実際、このママという人は、何でも人からもらってしまう。きっと若い時はお金や賛美を、そのうち関わりのない嫉妬や憤怒といった悪感情まで引き受けるようになった。ちょっと虫の居所の悪い男などがくだをまいたりして帰った後、ママはいつも指を二本立てて素早く十字を切る。なんのおまじないかは知らないが、そうすると「マインドをリセットできる」と言っていた。今日の客には効かなかったのだろう。
「ねえ、あの人来ると思う、」
ママは床に下がっている方とは逆の手を額の上に乗せたまま、ふいに声を出した。気を使って音を立てぬように掃除をすませ、洗い物をしていた私は、それがあまりにもきっぱりとした声だったので、うっかり手もとを狂わせ食器を割ってしまった。
「ごめんなさい、びっくりしたものだから、」
ママは食器の割れる音にも驚かず、さっきと同じ格好のままくり返した。
「あの人、来るかしら、」
「シュレーゲル氏ですか、」
「そ」
シュレーゲル氏というのは、先月の雨の日に、一人でふらりと店に入って来た初老の男性客のことだ。正確には一人ではない。彼のワイシャツのポケットには、彼のちいさな連れがぴょこりと顔を出していた。親指の腹ほどの小さなカエルだった。後でママが調べたら、そのカエルはシュレーゲルアオガエルという種類だと分かり、あたしたちはその客をシュレーゲル氏と名づけた。
出張か何かの折りにふらりと現れたきり、二度と来ない客などいっぱいいたし、彼もまたそういう客の一人なのだろうが、どうしてかあたしは彼がまた来るのではないかと思った。
「現場近くの水路の木にひっついてたんです」
どこかの建設会社の会社員だと彼は言っていた。
「こいつを預かってもらえませんかね」
シュレーゲル氏はグラスの水割りが半分ほど減ったところで、そう言った。それまで、テーブルの上を散歩するカエルを笑いながらみていたあたしは訝し気に顔を上げたが、ママは返事もせず黙ってにこにことカエルを目で追っていた。
「子供の頃によくつかまえたのを思い出して、うっかり連れてきちゃったんだけど、放してやるにもこんな都会ではね」
カエルは所在なげに前脚にアゴをのせている。そしてゆっくり上目遣いにママを見上げた。
困ってます、こんなところに連れてこられて。そんな顔だった。
シュレーゲルアオガエルという名前は、シーボルトが日本で採集したものを研究したオランダ人の名前に由来するのだ、とママは言った。最初は、どこかの両生類マニアのところから逃げ出した外国産の高いペットかと思っていたあたしは、日本に古くからいるものだと知ってちょっとがっかりした。近いうちに迎えに来ますから、と言ったきりシュレーゲル氏はまだ一度も顔を見せない。
ママは小さな水槽を買ってきて、カウンターの端に備え付け、そこへポトスだの薬味入れを入れた。薬味入れはカエルのお風呂になるのだという。ママが言うには、カエルは表皮から水分を補給するらしい。餌はその辺の蜘蛛を入れておけばいいからたいして手間もかからない。そのうち愛着がわいたのか、ママは時々、タマだのポチだのと言って話しかけたりしている。
「もらい癖にもほどがあるわよ、ママ」
あたしは幾度となくそう言ったが、ママはそのたびにいそいそと表に蜘蛛を捕まえに出た。
「あのね、言わなかったけど来たのよ。あの人」
「え、」
「夕方の準備中だったから、真弓ちゃんは知らないでしょうけど」
ママはまだソファに寝転んだままだ。
「…あの人、昔の恋人なの」
あたしは思いもかけない言葉に驚いて、また食器を割ってしまうところだった。
ママとシュレーゲル氏が一緒に住んでいたのは、もうずっとずっと昔のことだ。当時大学生だったシュレーゲル氏と、花屋で働いていたママは、将来は一緒に花を売る喫茶店を持つのが夢だった。
「だけど、ある日あの人は消えたの」
ママは彼の行方を探さなかったという。
「恨んでないの、」
「恨んでない。悲しかったのはよく覚えてるけど。その時はね、テーブルの上の茶わんの中に緑亀がいたのよ。だからあたし、あの人は亀になっちゃったんだ、と思うことにしたのよね。そのうち亀が死んで、あたしの中であの人との関係は完結したの」
ママは半身をこちらに向け、天井の灯りを見つめていたが、その顔はまるで思い出せない数学の公式でも思い出すかのように無表情だった。
「ちょうど夏だったから近所のお祭りの夜店で買ったんだろうけど、あたし亀の意味がその時は分からなかった」
「どういう意味だったの、」
「亀って歩くののろいでしょ。年中手足引っ込めてるし。たぶん自分のことだったのよ。もう手も足も出ない。出ても僕はのろまだし、きみのように早くは歩けないって。最後の方はケンカとかすれ違いばかりだったもの。あの人、おっとりしてたでしょう。あたしは何でも促成栽培しようとする人間だったから、どんどんテンポがずれてったのね。あたしは早くお店がやりたかった。彼はまだ他にやりたいことがあったし、大きな責任なんか負える歳じゃなかった」
ママは、そんなことはどうでもいい、とでも言うように早口で話す。
「準備中に顔出して、禅問答みたいな会話して帰ったの。素直に思い出話でもすればいいのにさ」
「どんな会話なの、」
「天気の話とかどうでもいいこと言ったあと、カエルを持って帰ったらって言うとね、『それはカエルですからどうぞここに』って言うの。それっきり」
「はぁ…」
「カエルだからさ、“帰る”ってことかと思って」
「強烈な駄洒落ね」
フンと鼻を鳴らして笑ったあと、ママは起き上がり髪を整えながら言った。
「分かりにくい男よね。寝た子を起こすようなまねはやめて欲しいもんだわ」
もう上がってちょうだい、とママは言うと、あたしが帰るまでカウンターの端にいるアオガエルをじっと見つめていた。シュレーゲル氏が本当に帰りたいのかどうかは分からないけれど、少なくともママの寝た子は起きてしまったようだった。
「そりゃあお前、ひと肌脱いでやらねぇと」
夜中に縁側で一杯ひっかけていたら、隣の部屋の江口が顔を出したので、あたしはいつになくママの話を聞かせた。
「歳とるとなかなか開き直れねえんだよ」
「いやだよ。慶太んとこの騒動で頭使い過ぎたもん」
茶わんの酒をちびりちびりとやりながら、江口は「そういえば」と口を開いた。
「慶太が妙なこと言ってたぞ」
「このアパートは築何年か、とか、あと十年くらいしてもなくならないか、とか」
「そういや、ここっていつからあるの、」
「俺が入った時ですでに二十年は過ぎてたから、もう三十年以上は経ってるな」
部屋の土壁にしろ、風呂場のカラフルなタイルにしろ、このアパートはひどく時代がかっている。大家がケチだから改築は行われないだろうが、いずれここもコインパーキングにでもなってしまうのだろうか。
「そう言ったら、慶太のやついやにしょんぼりしやがって」
「離れがたいんでしょ。きっと大人になったら一人で戻ってこようとか考えてたのよ」
慶太はあれから、母親の恋人観察を続けている。化けの皮をはいでやるなどと威勢のいいことを言って、西原氏の休みの日には虫捕りだの川遊びだのに出かけているらしい。けっこうなことだ。
「因果律」
突然、江口がつぶやいた。
「へ、」
「因果律ってあるだろ。蒔いた種は刈り取らねばならない、みたいな。あれって、確かにあるよな。慶太の母親って、いい種蒔いてんだよ。善意を惜しまないだろ。そういうとこにはさ、いいもんが集まるんだな。あの沖縄野郎、いい奴じゃねえか。あれなら、子供たちも大丈夫だろ」
近いうち、佐伯一家は春駒荘からいなくなる。上の梅田だってきっと来年こそはどこかに受かるだろうし、だめだったとしたらきっと田舎に帰るだろう。少なくともそう遠くない日に、四人がいなくなるのだと思うと、急に寂しくなる。
「寂しくなるよね、きっとここも」
「だめだめ。心から祝福してやらねえと。そうすればいつかは祝福される側だ。因果律ってのはそういうもんだ」
「ずいぶん年寄り臭いこと言うね」
江口は、年寄りだからな、と言って鼻で笑った。
翌日、店の前でカエルの水槽の掃除をしていたら、シュレーゲル氏が現れた。ママは買い出しに出ている、と告げると、彼は「また来ます」とだけ言って、来た道を引き返して行った。改めて後ろ姿を見ると、思いのほかその背中は広く、少しだけ右に傾いていた。それは、幼い頃にうちを出ていった父を思い出させた。あたしはそのまま掃除を続けようとしたけれど、気づいた時にはその背中に声をかけていた。
「ちょっと、」
シュレーゲル氏はゆっくりと振り向く。
「ママのところに帰りたいんでしょ、」
「え、」
「ママのところに帰りたいなら、まわりくどいことやめてそう言ったらいいのよ」
シュレーゲル氏は黙っている。困惑しているのか驚いているのか、それとも図星ゆえにきまり悪くなっているのか、その表情からは読み取れない。
「ご様子伺いなんてやめなさいよ。ちゃんと言ったらいいじゃない。もしすげなくされても、昔傷つけたんだから傷つけられてもおあいこでしょ。それが因果律ってものよ」
息もつがずに一気にまくしたてたからか、途中からあたしは誰に文句を言っているのか分からなくなり、少し目眩がした。
「買い出しなんて嘘よ。ママなら店にいるから」
そう言うと、シュレーゲル氏ははっとした顔をして、こちらに向かって歩き出した。
あたしの横を通り過ぎるとき、ありがとう、と小さな声でつぶやいて、彼は店のドアを開けた。あたしは、カエルじゃなくてママを迎えに来たのならいいのに、と思った。
きれいになった水槽の中で、シュレーゲル氏のカエルがリリリと啼いた。ぼくもそう思います。そんなふうに聴こえた。
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