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『春駒荘の人々』
第16話
うろこ雲
中元彩紀子 |
夕方、バイトが引けてから稽古場に顔を出すと、入り口近くに三台の七輪が並べられ、その前で座長が炭に火をつけている。何かと聞けば、秋刀魚だ、と言う。
「炭がしけててつきが悪いや」
安穏とした秋の夕暮れ、うちわでパタパタと扇ぐ彼の背中は、夕焼けのせいでオレンジ色に染まっていた。
「オマエ、秋刀魚って言われたからって秋刀魚だけ買ってくんなよ」
若手の使いっぱしりが怒られている。手に提げたビニール袋の中には銀色の細長い秋刀魚がぎっしりと詰まっている。
「渡した金、全部秋刀魚に使ったのか」
申し訳なさそうに頷く彼の手の平には小銭が少し。ガキの使いじゃねえんだからよぉ、とか、大根とか醤油とか箸とかいろいろあんだろが、などとぼやきながら、座長は千円札を渡し、またパタパタと扇ぎ始めた。ふと見るとその横で、彼が小さく肩を揺すっている。まさか泣いているんじゃないだろうな、と思って顔を覗けば、何やら彼は笑いを堪えているのだった。僕の視線に気づいて、彼は下を向いたまま黙って小さく指さした。
見れば、背中を丸めてぶつぶつ文句を言っている座長の頭のてっぺんに何かいる。思わず吹き出してしまった僕の顔を、怪訝そうに見上げる座長の頭で、のんびり羽を休めているのはトンボだった。
「呑気だねぇ」
「あんなところで居心地がいいんですかね」
僕らの会話に、訳が分からずいよいよ眉をしかめた座長に恐れをなして、彼はまた買い出しに戻って行った。
「何なんだ、」
「頭にトンボがたかってます」
座長がそっと頭に手をかざすと同時に、トンボは音もなく飛び立って行った。もうすっかり秋だな、とつぶやくと、座長はまたパタパタと炭を扇ぎ始めた。
じきに秋も深まり、深まったと思えばすぐに冬が来る。十二月の演目が終われば、僕らの劇団は解散する。最初こそ皆感傷的になっていたけれど、時間が経つにつれ、稽古をさぼる奴はやっぱりさぼりがちになり、座長は借金返済のメドがたったのか、先週からは毎日顔を出している。稽古は予定通り進んでいて、僕は衣裳の調達や小道具の選択など細々とした仕事に追われていた。結局そこはいつも通りの風景なのだった。
辺りが薄暗くなり、どこからか鈴虫の啼き声が聞こえてくる頃には、稽古場の一角は秋刀魚の匂いと、ビールで顔を赤くした連中で盛り上がっていた。タクシーの運転手役の役者と、解体屋役の若手がアイドルの物真似を競っている。それをホステス役の女の子が煽る。
「何笑ってんだ。そんなに似てるのか、あれ」
炭で真っ黒になった手で髭をなでながら、座長は煙草をふかしている。
「いえ。僕の住んでるアパートも、いつも急に宴会になるんですよ。そこが似てるなぁ、と思って」
「今度の脚本のことだけどさ、」
急に話題を変えて、彼はまっすぐにこちらを見据える。
「最後がまだ納得いかないんだよ」
「どうしてですか、」
「分からない。だけど、どうもしっくりこないんだ。お前だってそう思ってんだろう」
図星だった。芝居の舞台となる古いアパートというのは、まぎれもなく春駒荘のことだ。そこを住処とする人々の群像を描いた芝居だった。市井の人々の悲喜交々を描いたのだったが、どこか間延びした印象が否めない結末に、実際僕は書き直そうかどうしようか迷っていたのだった。
「お前、前に住んでたアパート、コインパーキングになったんだったよな、」
「ええ。そうですけど、」
「どんどん昭和の建物はなくなってくんだろな」
そうでしょうね、と答えながら、僕はガタがきた春駒荘を思い浮かべていた。
「思い出せるか、前のアパートの景色」
「思い出せますよ、パーキングになるなんて思えないほど狭い敷地で、屋根の上はのら猫のたまり場でしたね。階段と廊下の屋根がトタンなんだけど、ところどころ穴が開いてて、年中雨漏りしてましたっけ。外の壁はスプレーの落書きだらけで、いつも大家がぼやいてて。隣は自称ミュージシャンで、聞こえてくるのはいつもボブ・ディランの『風に吹かれて』。しかも毎回同じところでつっかえるし英語はめちゃくちゃだし耳障りだったな。一階の集合ポストの扉は全部ぶッ壊れてて、風が吹くと中身がみんな飛び出しちゃうんですよね。で、それを拾って届けてくれるのが彼だったもんだから、文句も言えなかった」
にこにこしながら、彼は聞いていた。
「思い出せるってことは、それはちゃんと存在してるんだよ」
「……」
「前にも言っただろう。物事は変容するんだって。なくなるんじゃなくて形を変えるだけなんだよな。だから何事にも執着しない方がいい」
最後の方はまるで独り言のようだった。それから、彼は「まだ書き直す時間はあるから。考えておけよ」とだけ言って、嬌声を上げる連中の輪に入って行った。
あくる日の夕方。流し下に仕掛けたゴキブリの罠を取ってくれ、と真弓さんが尋ねてきた。
「ものすごい大物がかかったみたいなのよね。まだ半分生きてバタバタしてるから怖くてさ。ホウ酸団子にしときゃよかったわよ。でも、あれって屍骸はそのままになるわけでしょ。それはそれでイヤよね。親の亡骸に子がたかって、やがて息絶えるのかと思うとちょっとねぇ。あ、でもホイホイも残酷か」
早口でまくしたてる彼女について、部屋へ上がる。ピンク一色の玄関の先、流しの扉の奥を覗くと、確かに大きなゴキブリがかかっていた。
「もう死んでますよ」と言って振り向くと、真弓さんは玄関でナンマンダブとつぶやいて手を合わせている。僕がビニール袋に入れてさらに殺虫剤をかけていると、ようやく上がってきて、今度は「早く捨ててよ。袋の口ちゃんと縛ってよ」と注文をつける。ゴミの日まで置いておくのがいやだとゴネるので、仕方なく僕はそいつを引き受けて、帰ろうとした時だった。
「あ、そういえば」
「はいはい、今度は何ですか」
半ば呆れて僕が振り返ると、彼女は「来月いっぱいで引っ越すから」と言う。
「え、真弓さん越しちゃうんですか、」
「あたしじゃないわよ。佐伯家の話。もっともその頃には西原家になってるわけだけど」
「へえ!」
「だからさ、来月送別会しようと思って。あんたも手伝ってよね」
不意に慶太のむくれ顔が脳裏をよぎる。
「よく慶太が承知しましたね」
すると真弓さんは、それがさ、と眉をひそめる。
「ふーん、って言うだけで、あとは何にも言わないんだって。かなり抵抗すると思ってたのに、拍子抜けしたって佐伯さん言ってた。成長したんだわね、あの子も」
部屋に戻って、原稿を前に、昨日座長から言われたことを考えていた時だった。階段をバダバタと駆け上がる音がする。やがて僕の部屋のドアがノックされ、開けてみると慶太だった。
「何だい、」
「感想文の宿題で出てるんだけどさ、ちょっと読んでよ」
また何かの片棒を担げと言われるのではないかと思っていた僕は、ほっと胸をなで下ろした。
感想文はよく書けている。別段、手直しするような間違いもない。だいたい彼が宿題を持ってくるなんて、これまでなかったことだ。やにわに不安になった僕は、窓辺に座って空を見上げている慶太に、引っ越しの話題をふろうかどうしようか迷っていた。
「あ、明日雨かもよ」
急に慶太が振り向いた。その様子がいつも通りなので、僕は少し安心する。
「なんで分かるのさ、」
「うろこ雲が出てる」
窓から顔を出して空を見上げると、確かにうろこのような雲が一面に広がり、夕暮れの濃い光に照らされて光っていた。
「これ、ひつじ雲じゃなかったっけ」
「ひつじ雲より一つひとつの雲が小さいんだよ。これが出ると、三日以内に雨か風になるんだって。月舘さんが帰って来たら教えてやんなよね。事前に休みが分かるんだから解体屋には有益な情報だろ、」
僕は頷いて、よく書けてるよ、と言って感想文を返した。礼を言って受け取り、彼はそのまま階下へ戻っていったのだが、僕はやっぱり慶太の様子にどことなく違和感を覚えていた。
しばらくして缶コーヒーを買いに表に出ると、ちょうど月舘さんが仕事から戻ってくるのに出くわした。挨拶のついでに、慶太からの伝言を伝える。
「雨でも秋のは小雨ですからね。休みにはならないですよ。それに今の現場は屋内だし」
二人で空を見上げる。そこはまだうろこ雲で覆われていた。
「うろこ雲かぁ。いわし雲ともいいますよね。なんか魚が食べたくなってきた。佐伯さんとこ今夜は焼き魚かなぁ」
そう言われてみれば、どこからか香ばしいいい匂いがする。
「佐伯さんたち来月いっぱいで引っ越すらしいね」
すると彼ももう知っていたらしく、頷いた。
「そうそう。よく慶太くんがゴネなかったって、真弓さんと不思議がってたんですよ」
「何もなきゃいいけどね」
夕方に会った慶太の様子。いつもと変わらない様子がかえって奇妙だった。佐伯家からは祥子のはしゃぐ声が聞こえている。
「もう騒ぎはごめんですよ。でも、佐伯さんの手料理が食べられなくなるのは、けっこう痛いんだよなぁ」
そうだね、と笑って僕らは別れた。
坂下の自動販売機で缶コーヒーを買って、再び坂道を上る頃には、もう辺りは暗くなっていた。空を見上げると、うろこ雲がゆっくりと南へ流れてゆく。初秋の暮れはしっとりと静かだった。それが嵐の前の静けさだったと知るのは、もう少し先のことである。
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