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『春駒荘の人々』
第17話
柿泥棒

中元彩紀子

 秋もようやく本腰を入れたらしく、朝晩の冷え込みは日がたつにつれ厳しくなってきている。配達から戻ると、空になったバケツを、奥さんがじゃぶじゃぶと音を立てて洗っていた。ホースから出る水の飛沫がまくった腕のあちこちに飛ぶのを見て、僕はいっそう身をこごめる。
 「帰るんならこれ、持っておいきよ」
 そう言って、濡れた手を拭きもせず、彼女は重たそうな袋をよこした。
 「なんですか、これ」
 両手にずしりと重いそれをのぞくと、それは橙色に熟れた柿だった。
 「旦那の実家から送ってきたの。熟れてて美味しいわよ」
 中からひとつ手にとって見ると、ぺかぺかと艶のいい表皮にうっすらと指の跡がついた。柿なんて何年も食べていない。礼を言ってその場を辞すと、辺りはもう夜の緞帳を下ろし始めていた。

 稽古場へ顔を出すと、すでに書き直した僕の脚本を手に、役者達は皆、本読みやら道具の準備で忙しくしていた。年末の明け渡しに向けて先月から少しずつ片付け始めたせいか、荷物の減った空間がやけに寒々とした印象を与えたが、彼らの熱気のおかげで、ドアを開けると心なしか温かい空気が頬を包む。
 その辺にいた連中と、スケジュールについて二言三言会話を交わし、もらったばかりの柿をいくつかテーブルの上に置いて、世間話などしながら、僕は座長の姿を目で探した。
 おとつい、僕の留守番電話に「四、五日留守にする」と入れたまま、彼からは何の連絡もないままだ。それとなく聞いてみたが、誰も行き先を知らない様子だった。また金策にでも走り回っているのだろうかと話しているところで、突然悲鳴が上がる。ぎょっとして振り向くと、そこにいたのは首に蛇を巻いた格好でやってきたミヤビだった。
 「それを持ってくるなと言っただろう」
 連中が逃げるように稽古に戻ると、ミヤビはにやにやしたまま言った。
 「最近、よくペットが逃げ出すでしょ。うちも心配だから鍵つきのケージ買うまで、近くのペットショップで預かってもらってるんですよ」
 「じゃあ、早く持って行きなよ」
 ミヤビはそんなことはどうでもいいとでもいうように、まばたきをし、声をひそめた。
 「あたし知ってますよ、座長がどこ行ったか」
 「どこ、」
 「東北」
 「東北だけじゃ分からないよ。東北のどこ、」
 「たぶん山形あたり」
 「何しに、」
 「知りませんよ。ただ、本屋で地図買ってるの見ただけだもん」
 それだけ言って、彼女は蛇を丸めて上着のポケットにしまうと、鼻唄を歌いながら行ってしまった。蛇は窮屈そうに顔だけ出してちろちろと舌を動かしていた。

 春駒荘へ帰る坂道の途中で、真弓さんと一緒になった。話題はやっぱり佐伯さんのことだった。レストランで食事をするか、いっそのこと大家に頼んで離れを貸し切ろうかなどと話している。
 「送別会じゃなくてさ、壮行会ってことにしようと思うのよね。新たな人生への出発を激励するわけだし」
 どっちでもいいよ、と思いながら頷くと、彼女は急に僕の腕を掴んだ。
 「何ですか、」
 「ほらあそこ、見て」
 彼女の指し示す指先をたどると、そこは大家の家の庭だ。薄闇の中、背の高い木々が街灯にぼんやりと照らされている。
 「柿の木ですね。もう随分実がなってる」
 「そうじゃなくて、よく見て」
 彼女は声をひそめて、じっとそちらを見つめている。
 「柿泥棒だよ、あれ」
 「え、」
 よく見ると、こちらからは伺えない路地の向こう側へ、敷地の角に立つ柿の木の枝が不自然にしなっている。塀の向こうに誰かいるらしい。
 「ちょっとわくわくするじゃないの」
 悪趣味の真弓さんらしく、彼女はらんらんと目を輝かせ、そちらへ近づいていこうとする。止めても無駄だろうと、僕も一緒に忍び足で近寄り、下手人のいる路地まであと数メートルというところで、不意に家の灯がりついた。冷たい手で心臓を掴まれたような心地で、僕らは思わず声を上げてしまった。そのままその場に佇んでいると、押し殺したようなうなり声がする。と同時に、塀の向こうを誰かが走り去ったようだ。逃げられたか、そう思った時だった。
 「ちょっとっ、あんたたち!」
 振り向くと、そこには仁王立ちのばあさんがいた。
 「店子の分際で、大家の柿を盗むとはどういう了見だいっ」
 慌てて誤解を解こうとするも、二人で同時にしゃべっていたのでは埒があかない。と、気づくとばあさんの視線が僕の手もとに注がれている。
 「随分せしめたもんじゃないか、ええ」
 「え、…あっ」
 僕が持っている袋の中身は、まごうかたなき柿である。
 「違うんです、これは、バイト先で頂いたものでなんです、違いますよ、大家さんのとこの柿じゃなくて、旦那さんの実家から送ってきた柿で、その、熟れ具合も違うでしょう、ほら」
 支離滅裂な言い訳に、真弓さんは笑い転げている。
 「なんだい、うちのが不味いみたいな言い様じゃないか」
 ますます分が悪くなった僕がしょぼくれていると、どんな輩だったかね、とばあさんが真弓さんに聞いている。
 「逃げられちゃいました」
 ばあさんはふんっと鼻を鳴らし、柿を見上げた。真弓さんが、おいしそうですね、と世辞を言うと、ばあさんは呆れた顔をしてこちらを向いた。
 「最近の人は、渋柿も知らないのかね」
 「え、これ渋柿なんですか、」
 「これは四ツ溝柿っていって渋いの。干し柿にして甘くなった頃に頂くんだよ。このままもいで食べたって、ちいともうまかないよ、ばかだね」
 言われてみれば、近所の八百屋で目にするものより幾分長い形をしている。なんだぁ、とがっかりする僕らに、やっぱり盗ろうと思ってたね、とばあさんは睨んだ。
 「李下に冠をたださず。習わなかったのかい、まったく」
 そう言って、ばあさんは家の中へ戻っていった。

 「干し柿みたいな顔で、干し柿なんて言うから、うっかり笑っちゃいそうになりましたよ」
 真弓さんが笑いながら、睨む。
 「失礼よ。…それにしても今どき柿泥棒なんてめずらしいよね」
 「僕の小さい頃は、近所の柘榴を失敬しましたよ」
 僕の通っていた小学校の近所には植木屋があって、そこの広い敷地には柘榴の木が何本かあった。大きな庭石に上って背伸びをすると、ちょうど熟れてはじけた柘榴に手が届く。裂け目に指を入れて割ると、中からルビー色の果実がのぞいて見えた。種ばかりでたいしてうまくもないそれを、僕らは競って取り合ったものだ。宝石のルビーは柘榴石とも呼ばれると、何かの本で読んだことがある。ふだん通っている道のすぐ近くの木に実がなって、その地味な表皮の中から現れるあの鮮やかな色に、僕は驚きとともにうっとりしたのを憶えている。
 「あたしはね、おじいちゃんちに来る子供の柿泥棒を、いつも一緒に追い払ってた。おじいちゃんの声だと、皆一斉に逃げるんだけど、あたしだとわざわざ顔出して笑うのよ」
 懐かしそうに目を細めて笑う。
 「でもね、すごい怖い声でおじいちゃんは怒鳴るんだけど、子供たちがキャーキャー言って逃げるのを笑って見てた。本当は盗まれたって良かったのよね。子供たちだって、承知の上なのよ」
 「風物詩みたいなもんですね」
 そうそう、と真弓さんは頷く。
 「でも、あたしが随分大きくなった頃だったと思うけど、最近の子供は怒鳴っても逃げやしないって、おじいちゃんぼやいてた。時代は変わるのよねぇ。今の子供って何考えてるかさっぱり分からないし」
 何を考えているか分からないといえば、今日気掛かりなのは座長の行方だった。それに慶太もここのところすっかりおとなしい。外で話をしていれば、ひょっこり顔を出してもいいものだが。話題がそのことに及ぼうとした時、坂の向こうからよたよたと歩いてくる人影がある。目を凝らすと、それは江口さんだった。彼は僕らに気づくと、よお、と言って片手を上げた。
 「足、どうしたんですか、」
 「ちょっと挫いた」
 そう言って膝をさすっている。
 「なあ、おまえら柿食うか、」
 江口さんの差し出した手には柿が三つ。ひょっとして、と思ってよく見ると、先が尖っているではないか。僕と真弓さんは、あっ、と同時に声を上げ、互いに顔を見合わせて吹き出してしまった。
 「あんただったの!」
 「なんだよ、何かおかしいか、」
 「それ、渋柿です」
 今度は江口さんが声を上げる。そして、まじまじと手の中の柿を眺めると、大きく舌打ちをした。
 「なんだよ、苦労してとったのによ。ちくしょう」
 ぼやく彼を真弓さんが睨む。
 「おかげであたしらが疑われたんだからね。いい年して柿泥棒なんてやめなさいよ」
 「酔い冷ましに歩いてたら、柿の木があるじゃねえか。ガキの頃思い出して懐かしくなって、ちょっと失敬しようとしたらこのざまだよ。おまけに渋柿だなんて、しけてんなぁ、あのばばあ」
 その言い方が本当に悔しそうだったので、僕は持っていた袋の中から柿を二つ三つ、頂き物ですと言って彼らに手渡した。
 「熟れてますよ」
 江口さんは、恭しく受け取って、今度は真面目な顔をしてそれを眺めている。
 「おまえら、柿の花ってどんなのか知ってるか、」
 不意に尋ねられ、僕らがかぶりを振ると、彼はやにわに口をすぼめて尖らした。
 「こぉんな形してんだよ。子供の頃悪さすると、柿の木にくくられるだろ。その時の膨れっ面が移っちまったんだって、母ちゃんがよく言ってたよ」
 そう言って、江口さんは豪快に笑うのだった。そして、皮も剥かずに柿にかぶりつく。
 「うまい!」
 僕も真弓さんも、真似てみる。甘くて瑞々しいそれを味わいながら、僕は見たことのない柿の花を想像してみたが、それはどうしても、柿の木に吊るされた頬の赤いいたずら小僧たちにすりかわってしまうのだった。


 
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