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『春駒荘の人々』
第19話
闘う魚
中元彩紀子 |
店のカウンターでは、いつかのアオガエルがこんもりと体を丸めて、住処であるガラスのケージに張りついている。その後、シュレーゲル氏がママとどうなったかは知らないけれど、時折訪れてはカウンターの端に座り、ママとひそひそと笑いあっているところを見ると、彼らの二十数年はこちらが思うほど埋めつくしがたい時間ではなかったようだ。もっとも、彼らという人は──少なくともママは──過去を食べて生きているような人だから、そのへんのところにはてんで頓着しないに違いない。例えば、シュレーゲル氏が誰かと所帯を持っていたのかとか、何故あの時彼が去っていったのかだとか。その証拠に、彼らの会話に聞き耳を立てていると、それは高校時代の倫理の授業で聞いた哲学者の名前だとか、ともすると形而上学的な単語の混じった問答でほぼ統一されていた。
「我思う故に我ありって、どなたの言葉だったかしら、」
「デカルトだねぇ」
「でも、よく考えると論理的におかしいわよね」
「どうしてだい、」
「だって思うことが存在することの証しであるっていう、その証明がまず先にないと」
「なるほど、言えてるねぇ」
「でしょう。それはそうと、宇宙のアカシックレコードには、統べての人類の過去と未来が記録されてるっていうじゃない。あたしたちの記録もあるのかしらね」
「どうだろうねぇ。あったとしたら知りたいかい、」
「まったく興味ないわ」
「同感だね」
ママとシュレーゲル氏の奇妙なやりとりが続く間、あたしはつきだしを拵えたり、グラスを磨いたりしている。やることがなくなると店の外を掃き、それも済んでしまうと再びカウンターに戻って、マーキスカットのような細工が施されたグラスの底越しに彼らを覗く。カットの一つひとつに納められた二人はグラスの底で大勢となり、そこで飽くことなく退屈な宇宙の話をしているのだった。
この人たちがあたしの両親だったら、などと考え、その陳腐な発想に苦笑しつつ眺めていると、“大勢の小さな二人”が、いっせいにこちらを向いた。
「真弓ちゃん、何してるの、」
それには答えずに黙ってグラスを置き、今日のつきだしを差し出した。一口食べて、ママは「合格」と言って目を細める。
「ラフテーだね、とてもおいしい。ごちそうさま」
シュレーゲル氏は大袈裟に一礼した。
「この人は味にうるさいの。良かったわね。どこで覚えたの」
「アパートの佐伯さん」
ママは合点がいったという顔をして頷いた。彼女のことはあらかた話しており、壮行会で店を使わせてくれないかと打診したばかりだった。
「もうじきお引っ越しね。三人もいなくなると、ちょっと寂しいわね」
「べつに」
関心なさ気に言ってはみたけれど、本当はあたしは人に去られるというのに滅法弱い。佐伯さんが、朝顔の君の車に古本を積み込んでいるのを見たのはつい先日のことだ。名前は知らないが、白いファミリーカーだった。これまで車に乗ることが少なかったからか、祥子は、新しい父親が車でやってくるとぴょんぴょんと跳ねてはしゃいでいる。まるでシャボン玉みたいだ。その笑顔を見るたびに、笑い声を聞くたびにあたしは嬉しくなった。あたしの中にいるかもしれない小さな女の子は、祥子の屈託のない笑い声によって、かつて得られなかったものを取り返し、ずいぶんと元気になった。女の子は永遠に笑っていなくちゃいけない、と強く思う。でも、そんな祥子を眺める安らぎがもう来ないのかと思うと、やっぱり感傷的になってしまうのだ。
「面倒くさがりの真弓ちゃんが、お別れ会の幹事なんてさ。寂しいのを紛らわしてる感じもしてよ」
軽く睨むと、ママは首をすくめて見せた。
「だめよ。女の子は永遠に笑ってなくっちゃ」
「え、」
ママはふふんと言って笑うだけ。声に出した覚えはない。相変わらず、怖い人だ。
それからあたしたちは、しばし佐伯家や他の住人達の様子を説明して、メニューをあれこれ考えた。
「まだおかんむりの慶太ちゃんには、何か考えなきゃね。小学生の男の子って何が好きなのかしら」
「だめよ、ママ。会えば分かると思うけど、あの子は一筋縄じゃいかないの」
そうなのだった。このところの慶太の様子だと、当日、連れ出すのにひと苦労しそうだ。沈んでいたかと思った翌日は、階段でマンガを読んでけたけた笑っている。そうかと思えば、ぶつぶつ独り言を言っていたりと、つかみ所がないのだ。
翌日。あたしが店に顔を出すと、シュレーゲル氏はすでに来ていた。カウンターを挟んでママと何かを覗き込んでいる。
「なに、それ」
あたしが尋ねると、シュレーゲル氏は「トーギョ」と言った。
ガラス瓶が二つ。一つには赤い魚、もう一方には青いのが一匹ずつ泳いでいた。その体色があまりに鮮やかなものだから、あたしは言葉もなくただじっとそれを眺めていた。
「闘う魚って書いてとうぎょって読むんだ。一般にはベタって呼ばれてるんだけどね、闘魚の方がかっこいいだろう」
「何と闘うの、」
「雄同士を一緒に入れておくと、大げんかするんだよ。ほら、瓶を近付けると、エラを広げて威嚇する。ライオンみたいだろう。タイではお金を賭けて闘わせたりするらしいけど、僕はそんなのは好きじゃないな。尾ひれや背びれを広げた姿には見とれてしまうよ。傷つけるには勿体無い。彼らはとっても気高いんだ。もっとも値段は安いけどね」
シュレーゲル氏はうっとりとした表情で、その赤と青の魚を眺めている。胡麻粒より小さいエサを水面に落とすと、ひょいっと顔を上げて、しゃくれた口で吸い込む。そのたびにママは嬌声を上げる。
「物騒な名前のわりには可愛いじゃないの、ねえ真弓ちゃん」
「カエルの次は魚ですか、まったく。ママ、それここで飼うつもり、」
すると、シュレーゲル氏が口を開いた。
「慶太君への餞別に、と思ってね」
雄同士を一緒にすると闘う…。
「いやだ、悪趣味」
するとシュレーゲル氏は、口の前で人さし指を左右に振った。
「違うよ。この闘う魚はね、自分の尊厳と命をかけて、身を震わせながら闘う勇敢な魚なんだ。家族を守ろうとする少年にはぴったりだと思わないかい、」
さも妙案だとでも言いたげに、二人は顔を見合わせて笑った。
その週の土曜日、脚本家と解体屋が店に顔を出した。
「どしたの、二人で来るなんて珍しいね」
週末だというのに外は生憎の曇天で、ついさっきまで小雨が降っていたせいか、彼らからはうっすらと雨の匂いがした。
席につくなり脚本家が言う。
「慶太君がこの頃少しおとなしいって話してたんですよ」
「感傷的になってんじゃないの。学校も変わるわけでしょうし」
すると解体屋が、それだけじゃないんです、と眉を潜め、脚本家もそれに同調する。
「昨日、僕んとこ来て、現場で使うヘルメット、もし余ってたら都合してくれって言うんです」
ヘルメット。さっぱり分からない。
「何に使うのかって聞いても言わないんですよ」
「で、あんたあげたの、ヘルメット」
「いえ、うちにはないから、事務所で聞いてみてやるとだけ言ったんですけど」
「どっかの雑木林で探検ごっこでもするんじゃないの。あの子のことだもん、子供っぽいと思って隠したんでしょ」
解体屋が、「ですよね、」と言いながらも腕組みをしていると、今度は脚本家が口を開いた。
「僕のとこには、いちご白書持ってないかって来たんですよ、昨日」
「いちご、何、」
「いちご白書ですよ」
「何それ。マンガ、」
「いちご白書っていう古い映画ですよ、アメリカの」
いちごいちごと騒いでいるのを聞きつけて、常連の電器屋の店主が割って入って来た。でっぷり太った腹が常にベルトの上にかぶさっている。いつも連れ立ってやってくる肉屋の親父は痩せぎすで、二人が並んで腰掛けているのを見つけると、商売を交換したらどうだ、と言って皆で笑うのが挨拶となっている。
「いちご白書なんて懐かしいじゃないか、え、」
「おじさん、観たことあるの、」
「あるさぁ、何度も観たね、うん」
電器屋はカウンターから灰皿を持って来ると、あたしたちに席を詰めさせて、その大きなお尻をソファに降ろした。春駒荘の痩せた二人が、その瞬間揺れたのが可笑しかった。
「六〇年代の後半だったな。学園闘争真っ盛りだよ。熱かったねえ、あの時代は。ぬくい世代にはピンと来ないだろうけどよ」
勿体つけてアゴをさすり、遠い目などしてみせる電器屋に、先を促す。
「子供の遊び場に軍事施設を建設しようとする動きがあったんだよ。それに反対したコロンビア大学の学生たちが抗議の声をあげて、やがて学校を占拠しちゃうわけだ」
「バリケード封鎖とかするの、」
「そうそう。主人公はさ、最初は活動家の女学生への下心から学生運動に参加するんだけど、途中から本気で闘い始めるんだよ。結局は武装警察に突入されて、鎮圧されるんだけどな。あのクライマックスの迫力は、興奮したもんだよ。青春だよなぁ、今思えば。キミらも腑抜けになる前にいっぺん観たまえよ」
それだけ言って、電器屋は大きな腹を揺すって、またカウンターへと戻っていった。
「あの人、学生運動してたようには見えませんけどね」
脚本家の疑問に解体屋が頷く。
「してないわよ。あのおじさん、山梨の高校出てすぐ親戚の電器屋継いだんだもん」
背後のカウンターでは、まだいちご白書の話題で盛り上がっている。
「で、問題はヘルメットといちご白書ですよ。真弓さん、どう思います、」
二人がこちらを凝視している。
「まさか、あんたたち、」
やっと分ったか、といった面持ちで二人は頷いた。
「慶太が一人でそんなことするわけないでしょ、考え過ぎだよ。あの子は母親を悲しませるようなことはしないよ」
笑いながらそう言うと、彼らも少しほっとしたのか、ふうっと同時にため息をつき、顔を見合わせて照れ笑いを浮かべた。
「ですよねぇ。ヘルメットは探検ごっこで使うんですよね」
ようやく和やかに酒を酌み交わし始め、酔いもいいあんばいにまわってきた頃のこと。
「でも、慶太も一体どこでそんな映画を知ったのかねぇ」
「彼は博学だからなぁ」
「何でもなくたって、そんなもの観たら影響されちゃうわよ。危なかったよねぇ」
不意に脚本家が「へっ」と言って顔を上げる。いやな予感がする。
「あんたそのビデオ持ってたの、っていうか貸したの、」
「貸しちゃいました…」
その一言で、あたしたちの酔いはすっかり醒めてしまった。
「あーあ」
ふとカウンターの隅っこに目をやると、赤と青の闘う魚がそれはそれは優雅に泳いでいるのだった。
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