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『春駒荘の人々』
第20話
月夜の篭城(前編)
中元彩紀子 |
バイトへ向かう坂道の途中、空を見上げると、そこにはレースのような月が、青空に薄っぺらく浮かんでいた。三日月というには少し太った、それでいて半月と呼ぶにも少々歪な形に見える月が、心もとな気にかかっていた。
今夜遅刻しないでよね。さっき真弓さんはそう言って、部屋の中へ戻って行った。今日はバイトがひけた後、佐伯さんたちの“壮行会”が、真弓さんの勤める店で開かれるのだ。花束を用意する係にされた僕は、真弓さんから言われたままを店主の奥さんに告げる。
「ピンクを基調に、バラを数本入れて、ゴージャスかつ可憐な感じで」
奥さんは、ハイハイと言いながらメモしている。
「カサブランカも入れると豪華になっていいわ」
そんな独り言を背後に聞きながら、僕は配達に出かけた。
最後の配達を終え、僕は劇団の稽古場へ顔を出し、刷り上がったばかりのチケットを受け取った。僕らの解散公演は、この土地を東西に流れる川沿いの野球広場で行われることになっている。いつもの小劇場ではなく、テント小屋を作ろうと言い出したのは座長だった。手間がかかるだけでなく師走の空の下でなど、考えただけでも身震いがする。最初は皆が反対したけれど、彼は譲らなかった。僕らの劇団の規模からして、そう大きいものは作れないと判断した結果、チケットは昼と夜の公演併せて二百枚。たった一日の公演のために彼は今日もどこかへ奔走しているらしく、姿が見えない。
「ある日突然テントが現れて、次の日には跡形もなく消え去ってるわけだ。あれは幻だったのか、なんて噂されるのも悪くない」
彼はいつか、そう言って笑っていた。
奥さんが拵えてくれた花束は、それは豪華なもので、一人で抱えて歩くのは少々気の引ける大きさだった。セロハンを頬に押し当てて、顔を半分隠しながら店に到着すると、佐伯一家以外は大家のばあさんはじめ、皆すでに顔を揃えていた。可笑しかったのは江口さんだ。彼の着ていた背広は、本人が言うところによれば一張羅らしいのだけれど、それはどう見てもかなり以前に誂えたものらしく、寄る年波で出っ張ってしまった腹の前で、ボタンは弾けんばかりにひっつれていた。しかも、座るとズボンの裾から靴下のほとんどが見えてしまっている。
「仕方ねえんだよ、これっきゃ持ってねえんだから」
正装しているのは彼だけで、後の皆は普段着だ。月舘さんにいたっては、着替える暇がなかったらしく作業着のままで、真弓さんにくんくんと臭いを嗅がれていた。
「あのな、結婚式だとかそういう祝い事ってのはやむを得ず欠席してもいいが、葬式とか送別会とかな、人との別れの会には何をおいても出かけるもんだ。きちんとした格好で、厳粛な気持ちで…」
やめてよ葬式なんて縁起悪い、と真弓さんが制する。
「これは祝い事なの。佐伯さんの門出を祝う会なの」
すると、江口さんは「ふん」と鼻を鳴らし、坊主にとっちゃどうだかな、と言った。
料理を並べ終え、それぞれが用意した子供達への贈り物に話題が移ったとき、店のドアが開いた。
「なんだか遅くなっちゃってすみません」
軽く息を弾ませて佐伯さんが顔を出す。テーブルの上に並んだ料理に目を輝かせる祥子とは対照的に、慶太は佐伯さんの後ろで仏頂面をしている。
ほどなくして朝顔の君が加わり、壮行会は始まった。
乾杯の音頭は、春駒荘に一番古くから住んでいる江口さんがとった。すでに一杯ひっかけていた彼の話は長い。
「…というわけでして、え、春駒荘に居を構えた佐伯一家でしたが、この度縁あって、前途有望な、なんてったっけ、あ、西原氏と人生をともに歩む結果となりましたことは、大変めでたくもあり、また我々にとっても、彼女の作る惣菜にありつけなくなる寂しさはありますが、これ一つの春駒荘始まって以来の慶事ということで、一同こうして顔を揃えてその門出を祝おうと、」
「長い」
途中から眠りこけてしまっていた大家のばあさんが、急に顔を上げた。それを機に、乾杯の声が上がった。佐伯さんたちへの花束と贈り物の贈呈が済むと、佐伯さんが目を潤ませながら謝辞を述べた。真弓さんもつられて鼻を赤くしている。とはいえ、宴会好きの面々である。結局はいつものようなどんちゃん騒ぎとなるのだったが、気づけば、慶太が独りカウンターの隅で、店のママからの贈り物である闘魚を眺めている。
「まだおかんむりなわけかい、」
話し掛けてても返事が返ってこない。
「もう部屋の片付けは終わったんだろう、」
するとゆっくり首を持ち上げ、慶太がこちらを見ずに頷く。
「寂しいのは分かるけど、電車でたった一時間じゃないか。また遊びに来いよ。それとも転校するのがいやなのかい、」
すると、慶太はそれには答えず、「ねえこれって、闘う魚って書くんでしょ」と聞いてきた。
「そうらしいね」
「今一緒にしたら闘うかな」
急にいたずらそうな表情を浮かべたので少し安心し、やめておけよとだけ言って、僕は宴席に戻った。
酔いを冷ますため表に出ると、商店街のスピーカーからクリスマスソングが流れてきた。空を見上げると、昼間はぼんやりとしていた月が南の空高く浮かんでいた。煙草を二本立続けに吸うと、すっかり体が冷えてしまった。店に戻ろうとノブに手をかけると、不意に扉は開き、月舘さんが顔を覗かせた。
「あれれ、慶太君は。一緒じゃないんですか」
いいや、とかぶりを振ると、彼はやにわに顔を曇らせて、いないんですけど、と言う。
「トイレだろう。だって、出る時はそこに座ってたよ」
そう言って、カウンターに目をやった瞬間、僕は血の気が引いた。闘魚がピチャピチャ音を立てて一つの水槽の中で死闘を繰り広げていたのである。慌てて元の水槽に戻すと、まだ興奮しているのか、二匹ともエラを広げて激しく身を揺すりながら泳いでいる。
店内を見回したが、慶太の姿はない。宴席では西原氏のつま弾く三線の音に合わせて、真弓さんと江口さんが踊っている。口を開けて眠りこけている梅田君以外は、皆調子を合わせて唄ったり、飲んだりして盛り上がっていた。トイレを覗きに行った月舘さんが、戻ってきた。
「やっぱ、トイレでした。鍵かかってたし」
ほっと胸を撫で下ろし、宴席に加わりどのくらいたったころだろうか、開いたトイレのドアから水の流れる音が聞こえた。叱ってやろうとそちらを見て、僕と月舘さんは口を開けたまま顔を見合わせてしまった。トイレの前でハンカチで手を拭っていたのは、大家のばあさんだったのである。
座が白けてはいけないと、僕らだけでそっと店を抜け出し坂道を急いだ。案の定、佐伯家の灯りがともっている。慶太、と声をかけてドアをノックするが応答がない。何度もしつこく呼ぶと、やっと返事が返ってきた。
「なに、」
玄関ではなく、奥の部屋の方からこもった声がする。
「いるなら返事くらいしろよ。急にいなくなって、心配したじゃないか、開けろよ」
すると少しの間をおいて、いやだ、という声が聞こえた。
そのとたん、携帯の着信音が鳴り、出てみると真弓さんだった。
「慶太がいないんだけど、あんたたち一緒なの、」
「ええ、まあ、」
「ならいいんだけど、そこアパート」
はい、と僕が言おうとした時だった。
「バリケード封鎖だッ」
慶太の大声が、しんと静まり返った玄関先に響き渡った。
「何いまのっ」
僕が口籠っていると電話は突然切られ、ツーツーという音だけが耳に残った。
「どうしょう。バレた」
それからが大変だった。
佐伯さんが叱っても、西原氏がなだめても慶太は頑として譲らない。最後に大家のばあさんが到着した頃には、業を煮やした月舘さんがバールを手に、ドアをこじ開けようと奮闘していた。何せ庭へ回ろうとしても、壁と建物の間も見事に封鎖されているのである。どこから調達したのか、有刺鉄線とベニヤで塞いであるのだ。
「いつの間にこんなこと…」
おろおろする佐伯さんの横で、西原さんも途方に暮れている。大家の了解を改めてとりつけ、ドアの隙間にバールをくわせた。
すると、ドアの上の隙間から一枚の紙が出てきて、地面に落ちた。拾い上げて皆で覗き込む。
一、オレは独りでもここで暮らす。
一、百歩ゆずっても冬休みまではここで暮らす。
一、佐伯家の墓はオレが守る。
一、おじさんが親父ぶるなら、オレは絶対引っ越さない(おじさんのことはそんなに嫌いではない)。
一、闘魚とまゆみさんの店のおばさんには悪いと思っている。
カッコ書きの部分と最後のは、さっき書いたのだろう、付け足したような走り書きだった。
「こういうの声明文ってんだろ。慶太もやるねえ」
軽口を叩く江口さんを睨んで、真弓さんは「あんたにも責任があるわよ」と僕に囁いた。そうこうしているうちに、バキバキと音を立てて、ドアが少し開いた。隙間から見えるのは堆く積み上げられたテーブルやイス、布団だの風呂の蓋ばかりで、中の様子はまるで見えない。梅田君が月舘さんの部屋からペンチを持って降りてきた。チェーンを切って、中の物を取り払っている間、僕と江口さんは庭へ通じる側の封鎖を解いていた。
「だめだ。脚本家、軍手持ってねえか」
自室へ上がり、軍手を探していると、階下からガタガタガタッという音が聞こえ、しばらくして窓を開ける音とともに「いないぞっ」と声が上がった。
その時だった。妙な物音が聞こえた。ギシギシと床を踏みしだくような音だ。耳をすませてみれば、それはあろうことか天井から聞こえてくるのだった。
慌てて窓を開け、階下に向かって僕は叫んだ。
「上ですッ」
わらわらと庭に出てきた面々が一斉にこちらを見上げ、口を開けている。
「…上って何よ、」
僕がひとさし指を上に向けるとと同時に、佐伯さんが短い叫び声を上げた。
「屋根の上です」
言い終わらないうちに、慶太が怒鳴った。
「俺は絶対降りないからなッ」
夜空に慶太の声がこだまする。澄んだ夜天に煌めく星々が一瞬震えて見えた。昼間の所在な気な月は西に傾き、まるで慶太に加勢するかのように、今や煌々と輝いていた。
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