 |
『春駒荘の人々』
第21話
月夜の篭城(後編)
中元彩紀子 |
真弓さんの部屋の庭から屋根へかけられたアルミの梯子が、月に照らされて無機質な光沢を放っている。誰かが足をかけてのぼろうとすると、屋根のふちから小さな手がにゅっと出てきてゆさゆさと揺する。いくら呼んでも慶太が言うのには、声明文に書いてあることがすべてだという。自分でももう引っ込みがつかなくなってしまったのだろう、それからは誰の声にも応答せず、西原氏が上がろうとした時などは、蜜柑の皮が投げつけられた。ありとあらゆる叱咤と説得の声が飛んだけれど、それは濃紺の空へむなしく吸い込まれるだけだった。皆は階下から上を見上げ、僕は部屋の窓からやっぱり上を見上げ途方に暮れていた。祥子だけが一人はしゃいでいた。
「もう飽きるまで放っておきましょう」
佐伯さんはいつになくきっぱりとした口調でそう言うと、部屋の片付けを始めた。大家のばあさんは眠くなった祥子を預かって本宅へ戻って行った。けれど、誰もそこを離れようとはしなかった。
「月、きれいに上がってるわね」
「ああ、あれは上弦の月じゃないかなぁ」
真弓さんと梅田君が呑気に話しているのが聞こえる。江口さんは自宅の縁側ですでに一杯はじめようとしていた。僕は先刻の宴で渡しそびれたチケットを手に、階下へ降りていった。
僕の顔を見て、真弓さんは「どうするの」といった表情だ。
「慶太のとこへ行くんですよ」
その場にいた全員が心配そうに僕の顔を覗き込む。
「だって僕と彼には責任があるから」
気まずそうな顔をした月舘さんが僕の後に続く。彼に梯子を支えてもらい、案の定屋根の上の小さな手が梯子を掴んで揺らし始めた。けれど、僕はそれには屈せずまん中あたりまで進んだ。下を見下ろすとそこは存外高く、皮膚が泡立つと同時に尻がむずむずする。子供の頃、近所にあった金持ちの家の高い石垣に、親の目を盗んでのぼった時のことを思い出した。のぼったはいいが降りることが出来ず、最初こそ遠くの景色を眺めて悦に浸るも、陽が暮れだすと急に心細くなる。そういう時にかぎってどこからか夕餉のいい匂いが漂ってきて、いっそう後悔が深まった。庇護されるべき者であることがいまいましくて、だのにひどく孤独で寂寞感がひたひたと忍び寄る夕暮れ。誰か迎えに来てくれないか、それとものぼって来て一緒にどうしたものかと首をひねってくれまいか。そんなことを考えているうちに母親がやってきて、内心は安堵しながらも、本当は降りたくはないんだけれども、といったポーズを守りながらズリズリと這い降りるのだ。ヒザをたくさん擦りむいて。
僕は真弓さんを見下ろして、「豚汁でも作っておいて」と頼んだ。
屋根の上は思いのほか傾斜がなだらかで、その中腹辺りで慶太は毛布にくるまっていた。何より僕を驚かせ、そして脱力させたのはその格好だ。黄色いヘルメットを被り、首には毛糸のマフラーを何重にも巻いている。解体屋の被るヘルメットは子供には大きすぎ、顔のほとんどが隠れてしまっていた。そんな滑稽な姿でも、体は緊張と不安と怒りの膜に覆われ、真直ぐにこちらを見据えた目には幾らか後悔の色が滲んでみえた。手に何か握っている。
「何持ってるんだい、」
黙って広げた手には、何個かの爆竹とライター。これをのぼってくる僕に投げ付けようとしていたわけか。呆れてものが言えずにいると、「しけてた」とぼそりと言った。そいつを取りあげ、向きを変えて隣に座る。
「うわ、高いね。でもなかなかの夜景じゃないか」
少し間をおいて、慶太は「降りないよ」と言った。
いいよ、と言うと一瞬だけ瞳が揺れた。
「でもきっと慶太は降りるよ」
「なんで、」
「本当は降りたいからさ」
「降りたくないよ」
「うそだ」
慶太は黙った。それからしばらく僕らは何も話さないまま、眼下を走る電車の灯りを眺めていた。そうして何本か見送った頃、慶太はやっと口を開いた。
「母さんも祥子も楽しそうだった」
視線を眼下の町並みからそらさず、静かな口調だった。
「机や棚や箪笥をどけて、裏のほこりを掃除して、僕らの荷物はどんどん知らない町に運ばれていった。オレも台所のテーブルなんかと一緒に運ばれていくんだって思ったら、すごくいやな気分になった。荷物みたいでいやだった。なのに母さんも祥子もうきうきしてた。三人で暮らしたここにはもう住めないっていうのにさ」
気づくとマフラーに顔を埋めている。表情は分からない。威勢のいい声は影を潜め、くぐもったそれに変わった。
「拗ねてるんじゃないよ。考えてるんだ」
「何を、」
「どうして好きな場所で好きな人と自由に暮らせないのかってこと。父さんは今頃どうしてるかってこと。なんで、僕はいつまで子供なのかってこと」
「転校するのがいやで駄々こねてるのかと思った」
「転校なんて屁でもないよ。学期の途中で転校するほうがむしろいいくらいだ」
「何でさ、だって冬休みまで通うって書いたのは自分だろう」
「あんなのどうでもいい。むしろ、学期の途中で引っ越す方がいいんだ。その方がみんなに覚えててもらえる。…去年、前田ってやつが転校したんだ。夏休みが終わって席替えをするとさ、いつの間にか空いてるはずの机がないんだよ。休み時間も遠足でも給食の時間でも、そいつがいないことなんて、誰も気にとめてないんだ。そうやって前田は、いつか夢の中に出て来た奴、みたいな感じになってる。年賀状が届くまで忘れてたってんならいいんだ。オレなんか、葉書見てこれ誰だっけって一瞬思ったくらいだからね。おじさんと再婚するのもいい、転校もいい。だけど、」
「要するに、慶太はただここで暮らしたいんだ」
こくりと頷いた。
「でも、それは後退するってことだ」
ついと顔を上げ、コウタイって、と尋ねる。
「そりゃあ僕らだって、寂しいけどね。でも、この世のものはすべて変化するようになってるんだ。それは一見寂しいことであっても、実はいいことなんだ。形を変えただけのことなんだよ」
僕はいつか座長の言っていたことを思い出していた。
「たとえば、僕らの劇団は今年いっぱいで解散するけれど、皆それぞれの方法で芝居を愛していくよ。役者を続けるやつもいれば、働きながら時々芝居を観る側になるやつもいるし、僕は脚本を書き続けるつもりだ。僕らの劇団で学んだことを抱えて、それぞれ場所を変えて皆生きていくんだ」
よく分からないな、とくぐもった声が言う。
「ここは舞台なんだと思ってごらんよ。人は自分の出番が終われば舞台から降りる。そうすれば次の舞台がその人の出番を待ってるのさ。そうやってくり返すにつれて、どんどんその役者は上手になっていく。自分の出番はもうとっくにすんだのに、まだ舞台の袖でうろうろしてたら、何も得られないじゃないか」
「オレの出番はもう終わったってこと、」
「このアパートの住人としての出番はね。でも、さっき言っただろう、形が変わるだけだ。なくなってしまうんじゃないよ。僕らがこうして一緒に暮らした時間は神様にだって消せないのさ。形を変えても、僕らは皆この時間に繋がってるんだ」
「父さんも出番を終えたの、」
「きっとね」
「母さんも祥子も、」
「そう。今度はあのおじさんをまじえて、佐伯一家は新しい舞台に上がることになったのさ」
「みんなそれで幸せなのかな」
「本当は分ってるんだろう。本当にお母さんと妹を守るっていうのは、その人たちの心を守るってことなんだよ。幸せであるように願うのが、守るってことなんだと思うよ」
西に傾いた月に照らされて、真直ぐに前を向いた慶太の頬が光っている。ふぅん、と漏れた慶太の声に、回送電車の車輪の鈍い音が重なった。階下からは、江口さんの歌声と一緒に豚汁の匂いが漂ってきた。
「さて、降りてごちそうになるか」
ようやく降りる気になった慶太を促して、まずは僕から体の向きを変え、梯子に足をかけた。そのつもりだった。
うわっ、という声が自分からしたのかどうかも分からなかった。屋根の縁にぶらさがった僕のポケットから、チケットの束がひらひらと宙に舞って落ちてゆく。同時に階下から悲鳴が上がり、人がわらわらと出てくる気配がした。月舘さんが梯子を移動してくれたけれど、それは少し遅かったようだ。僕は言葉にならない叫び声とともに、地面へと落下した。仰向けになったままの僕を囲む皆の頭の向こうに、ゆっくりと降りてくるヘルメットが見えた。
骨折は免れたらしいと分かると、皆よってたかって僕を笑いものにしたが、真弓さんの作った少し塩辛い豚汁は存外旨かった。
僕が落下したおかげで、佐伯さんは慶太を叱り飛ばすタイミングを失ったようだ。しきりに僕に向かって謝る佐伯さんと西原氏の横で慶太がにやにやしている。
「ところで、このピンク色のやつ、ピンサロの割引券か、」
江口さんが土のついたチケットをひらひらさせている。佐伯さんと梅田君がぎょっとする。
「違いますよ、これ、僕らの劇団の解散公演なんです。みなさんにも来てもらおうかと思って」
「ただなのか、」
僕からのプレゼントです、と頷くと、江口さんは「じゃあ行ってやる」と言い、指をなめ、一枚ずつ皆に配り始めた。すると、手にしたチケットを覗き込んで、月舘さんが声を上げた。
「あっ、『春駒荘の人々』って書いてある!」
「ほ、ほんとだ。これ、ここのアパートのことですか」
「やだ、あたしの役の人、美人でしょうね」
「なんだネタにしやがったのか」
急に活気づいた面々の間で、僕は少し照れくさいような気持ちになって、塩辛い豚汁をすすった。横に座った慶太が、最後の舞台なんだね、と言った。
「そうだよ、最後の舞台だ。だけど必ず次もある。形は変わるけれどね」
慶太は、しょうがないなぁ、といったふうに口の端をゆがめて、行ってやるよ、とつぶやいた。上弦の月が所在な気な梯子の上にぽっかりと浮かんでいた。
|