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『春駒荘の人々』
第22話
河原の蜃気楼(最終話)

中元彩紀子

 日曜日の早朝、春駒荘の上空には雲ひとつない空が広がっていた。窓から見える眼下の町並みには、残り少なくなった黄色い銀杏の葉が、時折吹く木枯らしにちらちらと葉を震わせているのが見える。町の中を走るその黄色い線沿いには、僕の勤める花屋と、その前に勤めていた工場がある。真弓さんの店はあのあたり、行方不明になった慶太と祥子を発見したのはあのあたり、と目でたどってゆく。高台に建つこの古いアパートから見える景色は、南にゆくにしたがってだんだんぼやけてゆく。一つひとつの建物の輪郭が溶けて、薄ぼんやりとした膜のように見えているあたりに、今日、僕らの劇団の解散公演が行われる河原がある。
 
  僕は身支度を整えて稽古場に向かった。こんなに朝早く到着してもまだ誰も来てやしないだろうと思っていたけれど、到着してみるとすでに五、六人が来ており、トラックに荷物を積み込んでいた。
  「泊まり込みだったのかい、」そう尋ねると、寒さで真っ赤な顔をした若い役者が頷いた。
  「最後だし。なんとなく帰りそびれて、奥から引っ張りだしたんですけど、黴くさくて」
  彼が顎で示した稽古場のまん中には、いくつかの寝袋が転がっていた。
  「おととい来るなり、座長なんて言ったと思います、」
  笑いながら彼が尋ねる。かぶりを振ると、彼はあきれ顔でこう言った。
  「何かの書類をひらひらさせてね、ようやく許可がおりたって。河原のテント小屋ですよ。あきれますよね、僕らそんなのとっくにおりてると思って準備してたのに。もしダメだったらどうしようと思ってたんですかね」
  「そんなのあの人のことだもの、強行するに決まってるじゃなーい」
  トラックの荷台からホステス役の女の子が叫ぶ。
  チケットも全部さばけ、後は箱の準備だけとなった。今日をもって解散という日とは思えないほど、彼らはいつも通り快活な様子だった。
  集まり出した連中と河原へ向かったのは昼の少し前だった。到着してみると、群生するすすきの穂に真昼の陽が降りて、光りながら揺れている。その向こうで、先に来ていた座長と数人がすでに小屋を建て始めている。気温は平年以下だというのに、彼らの額には汗が浮かんでいる。着々と作業は進み、やがてやってきたトラックからイスと大型ストーブを運び終えると、僕はもうすっかり息があがり、着ていたウインドブレーカーを脱いだ。この柿落としおよび千秋楽の準備が整い、前日まで毎日こなしていた通し稽古の最終リハーサルが終わる頃になると、早くも辺りの景色は橙に染まり始めていた。
  「風が止んで良かったよ」
  焚き火で暖をとっていた僕の傍らにやってきて、座長は言った。
  「今日はオマエんとこのアパートの住人たちも来るんだろ、」
  「ええ、来ますよ。ただと分かればどこにだって行く連中ですからね」
  僕がそう言うと、痛い出費だったな、と言って座長はくつくつと笑った。ふと見ると、小屋の外に「紅玉屋」と書かれたダンボールがひとつ、ぽつんと置いてある。僕が見に行こうと立ち上がると、座長はそれを制した。
  「あれはいいんだ、オレの私物だから」

 開演時間が近づき、人々がぽつぽつと集まり始めると、役者達のいる舞台の裏手は緊張に包まれた。観客席は満席。その中程に、春駒荘の人々が一列に並んで腰掛けているのが、僕のいる最後列からも分った。やがて幕があがり、真っ暗な舞台の下手で、脚本家志望の青年がスポットの中、一心に書き物をしている。そしてナレーションは流れた。
  「夜になると部屋の窓を開け、階下の兄妹の話し声に耳を傾けるのが、この頃のぼくの日課だ」
  こうして僕らの最後の芝居は始まった。

 見知った店や駅、通りの名前が頻繁に出てくるせいか、観客たちの反応は上々だった。浪人生の失踪、解体屋の失恋、運転手の後悔、と小さなエピソードが流れ、兄妹の家出に差し掛かった時には、客席の慶太がこちらを振り向いて笑った。ホステスの女はピンクのペンキを持って走り回り、解体屋はボヤを出し、運転手は年中飲んだくれ。ペットのサワガニは男たちの酒のつまみになり、アパートの庭で繰り広げられるめちゃくちゃな人達の宴会が、浪人生のヒステリーを呼ぶ。脚本家の恋慕はホステスの女に向い、女はそれと気づかずアパートをピンクに染め上げる。やがて、アパートが取り壊しになる場面に入った。その際の少年の台詞は、いつかの座長の言葉だった。
  「思い出せるってことは、それはちゃんと存在してるんだよ。物事は変容するんだ。なくなるんじゃなくて形を変えるだけなんだ。だから何事にも執着しない方がいい」
  そして、アパートの庭で彼らの最後の宴会が開かれる場面になれば、そろそろ芝居も終盤に差し掛かる。
  「打ち上げ花火とまではいかないまでも、」
  そう言って、手製の線香花火に浪人生が火をつける。それと同時にテントの天井の梁にかけられた幌の一部が解かれ、寝待ち月夜から始まった物語りにふさわしく月が姿を現す。今夜は立待ち月だ。それがうまく見えれば、彼らは一様に夜空を見上げ、後は脚本家の青年のナレーションで幕引きとなる。
 
  天井の幌の一部が静かに解かれ、夜空がのぞいた。見上げる役者に誘われて、観客たちも一斉に上を見上げる。上手い具合に、計算通り月はそこにあった。青年のナレーションが終わりかけ、僕がほっと胸を撫で下ろした、まさにその時だった。
  外からひゅーっという音がし、何事かと思った瞬間、それは天井から覗く夜空で破裂した。
  濃紺の空一面に色鮮やかな火花が散った。
  僕らが見たのは一発の花火だった。それも、赤や黄色の眩しい特大の打ち上げ花火。
  役者たちも僕も驚き、皆口をぽかんと開けて、夜空を見上げたままだった。
  やがて観客たちの鳴り響く拍手に我に返り、演者たちは一様に深々と頭を下げた。
  拍手は彼らが頭を上げても鳴り止まなかった。

 「跡形もなく、っていうのはこのことですね」
  小屋を解体し、荷物をすべて乗せたトラックを送りだすと、そこはもとの静かな何もない河原だった。焚き火を囲んで、打ち上げ会が始まる。
  「座長も内緒にしておくなんてずるいよね」
  「楽しみを一人占めしたんだ」
  いつだったか何日も座長が稽古場を留守にしたことがあった。あの時、ミヤビは山形あたりにいるに違いない、と言っていた。あれは花火を調達しに出かけていたのか。梁の幌を解くのは、ミヤビの仕事だった。
  「君、知ってたんだね」
  「何を、」
  「まあいいさ」
  さっきまで歓声があがっていた河原を指して、幻みたいだ、と誰かが言った。
  「蜃気楼だな」
  座長が僕の隣でぽつりとつぶやいた。
  「おまえ知ってるか、砂漠の蜃気楼を」
  「見たことありませんよ、そんなの」
  「砂漠で生きる人々は自分の望むものを蜃気楼に見るんだ。森、湖、オアシス…。それらが見えると、彼らはそれを前兆だととらえるんだよ」
  「だけど実在しないんじゃ、落胆しますよ」
  「そうじゃない。彼らにとってそれは神からの合図なんだ。それは必ず行く手に現れるっていう。だからそれが次の日には見えなくなっても、決して落胆なんかしないんだ。信じるってことを知っているから、砂漠の民は強い」
  「分かるような、分からないような、」
  彼は煙草の煙を長く吐き出すと、「まあ、がんばれってことだ」と言って、僕の肩を叩いた。
  「座長も」
  「当たり前だ。打ち上げ花火は高いんだ。借金返済するために、これから休みなしだよ」
  そう笑って、彼は皆の輪の中に入っていった。
  僕は焚き火を眺めながら、砂漠のまん中で今日のような打ち上げ花火を上げたなら、砂漠の民はやっぱり拍手するだろうか、と考えていた。
  こうして僕らの劇団は、この日をもって解散した。

 心臓破りの坂道を、今日も僕はひいひい言いながら上る。
  民家の桜のつぼみがほころび始めている。
  新しい劇団では、座長の原案である中世のヨーロッパの叙事詩を現代風にアレンジさせられている。三日前からその初老の座長のうちへ泊まり込み、今日ようやく解放されたのだった。
  しょぼしょぼする目を擦りながら、ようやっと春駒荘の前までたどりつい時、生け垣の向こうから真弓さんの声がした。
  「だから気をつけてって言ったじゃない」
  「それよりこの上着、どうしてくれんだよッ」
  江口さんである。何事ですか、と言いながら門に手をかけた瞬間、僕は絶句してしまった。
  僕の目の前に建っているのは、壁一面がピンクに塗られた春駒荘だった。
  「おい脚本家、おまえのせいだからな」
  ピンクの染みがついた上着を見せながら、江口さんが毒づく。
  「今日から春休みでしょ。慶太たちがこれから久しぶりに遊びに来るのよ。びっくりさせてやろうと思ってさ」
  言い訳のように早口でしゃべり、彼女は黙々とペンキ塗りの作業を続けている。その横で、月舘さんと梅田君が手伝わされている。つくづく人の好い連中だ。
  「今日は庭にストーブ出して春の宴だそうですよ。真弓さんと佐伯さんの手料理付きだそうです」
  月舘さんが鼻の頭についたペンキをむしりながらにこにこしている。
  「おまえのせいだぞ」
  ぼそっとつぶやく江口さんに、何でですか、と詰め寄ると、彼は僕の腕を引っ張り通りまで出た。
  「おまえが一言、真弓に惚れてるって言えばいいんだよ。白状しねえと、屋根まで塗るぞあいつは」
 

 薄暮の光が消えかかる頃、階下の庭から懐かしい嬌声が上がった。窓を開けると、いい匂いが漂ってくる。僕は、屋根まで塗られてはかなわないからなぁ、と思いつつ下を覗き込むと、春駒荘の人々が一斉に顔を上げる。
  早くおいでよ、今行くよ、茶わん持参ですよ、分ったよ。
  僕は机の灯りを消して、いそいそとドアを開け、そして春駒荘のピンクの階段を勢いよくかけ降りた。


 
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