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第2話
玉虫のかけら

中元彩紀子

 先月、私は会社を辞めた。会社といっても、そこは親戚が営む小さな不動産屋で、私は五年間そこで事務をしていた。プロを目指して続けていた音楽活動からは、アルバイトをやめて就職した頃から少しずつ遠ざかっていった。それでもライブやイベントの話があると嬉々としてしまう自分の往生際の悪さに辟易していた頃だ。辞めよう、と思ったのはほんの些細なことがきっかけだった。

 「珠樹さん、今からでも宅建とっといた方がいいよ」
 営業の佐倉さんは、近所の喫茶店で不味いアメリカンを啜りながらそう言った。私と同い年の彼女は、去年の春に入社して、すぐその宅地建物取り扱い主任者の資格をとり、一年足らずで大口の契約を何件も成立させていた。

 「音楽は趣味で続けてけばいいじゃない」
 私にはそれが、もうあなたはここで働くしか生きる道はないのよ、と聞こえた。彼女に腹を立てたのではない。彼女の言葉をそんなふうにしか受け取れなくなっている自分に嫌気がさしたのだ。そして明くる日、辞表を出した。

 いざ会社を辞めてみると、何もすることがない。すがすがしかったのは最初だけで、三日も過ぎると、焦燥感と虚無感が胃の下で静かに蠢いていた。作曲に没頭できないのは時間に余裕がないからだと言っていたのは、自信のなさからくるただの言い訳だったのだと思い知らされた。音楽では生活できない。何か仕事を探そうにも、また同じような日々が始まると思うと、就職雑誌すら買う気になれなかった。西日を浴びた電子ピアノの表面に埃が浮いていた。寝転がって、窓から見える空にひこうき雲が伸びてゆく様を見ていると、ふいに電話が鳴った。そのまま放っておくと、留守電に切り替わった。

 「珠樹さん、友彦です。いますか」
 受話器をあげると、やっぱいましたか、と言う。
 「明日、病院の日なんですけど、相方が風邪ひいちゃって。で、珠樹さん代わりに弾いてもらえませんか」
 友彦は警備員の仕事をしながら、週末はボランティアで病院やホスピスなどに赴き、弾き語りをしているらしい。ライブで何度かステージを共にしたくらいで、特に仲がいいわけでもない。ましてやボランティアになどまるで関心がなかったのに、即座に、いいよ、と答えていた自分に違和感を感じた。

 翌日、少し早く病院に着いてしまった私は、中庭のベンチで友彦を待っていた。しばらくすると、ガラガラと点滴を引きずった男の子が近寄ってきた。隣にちょこんと腰掛けたその少年は、私の顔を覗き込んでニコニコしている。随分愛想のいい子供だなと思いながら年を尋ねると、七才、と答えた。何で入院しているのか聞こうとして、
 「どうしてここにいるの」
 と尋ねると、
 「音楽会までまだ時間あるから」
 と見当外れな答えが返ってきた。すると、少年は急に、アシダケカブトだ、と言って立ち上がり、点滴をガラガラいわせながら歩き出した。
 「アシダケカブトって何」
 近寄り、少年のしゃがんだ足元を覗いて吹き出してしまった。昆虫の足らしきものが落ちている。
 「やだ、足だけじゃない。鳥の仕業だね」
 「昨日はツノダケカブトもいた」
 「角だけ、ね。ちょっと残酷だね」
 「なんで。ぜんぶなくなっちゃうまで名前がついてるの、嬉しいよ、たぶん」
 「君がつけたの」
 そう尋ねると、少年はかぶりを振って、トモヒコが教えてくれたと言った。
 「お昼はいつもトモヒコと遊ぶんだ。ぼく、学校行けないから」
 「そう、早く治るといいね」
 「おねえちゃんは何の病気」
 「あたしは病気じゃないの。音楽会でピアノ弾きに来たの」
 すると少年は目を輝かせて、じゃあトモヒコの友達、と聞く。
頷くと、少年は胸のポケットから折り畳んだハトロン紙を取り出して、ついと私の鼻先に差し出した。
 「じゃあ、コレあげるね」
 広げてみると、そこにはメタリックな虹色をした何かが包んであった。よく見ると昆虫の翅のようだ。
 「何これ」
 「お守りだよ」
 そうじゃなくて、と言いかけた時だった。

 「ハネダケタマムシ」
 背後から答えが返ってきた。いつのまにか友彦が来ていた。
 「翅だけになっても綺麗でしょう」
 友彦はそう言いながら少年と戯れている。私は午后の陽に照り輝く玉虫のかけらを見ながら、新しいピアノを買おうと思っていた。あのおねえちゃん名前なんていうの、と尋ねる声がする。
 「ヒクダケタマキ」
 振り返って、私が大きな声でそう答えると、笑い声が澄んだ秋の空に響き渡った。    
 

 
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