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第5話
雪虫の舞う

中元彩紀子

 茉莉絵から絵葉書が届いた。
 『時は満ちた。今月最後の日曜日、夕方六時に紅葉の三角。怖じ気づいたら承知しませんよ。後日必ず報告を。』

 ガネーシャというインドの神様が描かれた極彩色の絵葉書に、もったいぶった言い回しは、神秘主義者である茉莉絵の好みだ。紅葉の三角というのは、ここからそう遠くはない公園の中央にある、ピラミッド型の大きな滑り台のことを指している。
 『追伸、白いセーターを着て行くべきよ。ユキちゃんは白が一番似合うゆえ。』
 彼女は毎年十一月になるとこういった葉書や電話を寄越す。大学を出てすぐに結婚し、今は地方で夫と子供と三人で暮らしている茉莉絵は、五年前に私が修一と交わした約束を、本人より大事にしている。
 修一とは大学時代にアルバイトをしていた本屋で知り合った。彼は二つ年上の大学生だった。実家から離れて一人暮らしをしていたのと、浪人生活を経験していることもあってか、私から見るととても大人びた感じのする人だった。黙々と仕事をこなし、誰とでもそつなく会話をし、人より少しだけ遅れて笑い、誰にでも親切で優しい人だった。およそ感情を取り乱すことなどないだろうその落ち着き払った物腰を、周囲の人は、特徴のない人という言葉で片付けたが、私にはそれが強烈な個性と何か秘密めいたものに映った。

 晩秋のある日、バイトを終えると、いつもなら自転車ですっと帰ってしまう彼に、声をかけられた。その「島田さん、途中まで一緒に帰りませんか」という言葉は、まるで記号のように耳に響いた。それは用意された台詞だと思った。ところが、並んで歩き始めた彼の口から出てくる話といえば、ボードレールや金子光晴、詩の表現技法といった話題ばかりで、私はふんふんと頷いたり、おおげさに感心してみせるなど、返答のバリエーションに苦心するばかり。紅葉山公園を過ぎたところで私達は方向を別にするのが分かっていたから、私は少し歩みを緩めた。その時、目の前を何か白いものが横切った。
 「雪ん子だ、」
 私はなんだか味方を得たような気持ちになった。
 「雪ん子、」
 「笹野さん見たことないの、雪虫。北国ではこれが飛ぶと雪が降ったり、鮭が大漁だったりするんですって。雪みたいな綿毛をしょってて、冬の使者って感じですよね、」
 たよりなく浮遊するそれを目で追っていた彼は、ふいに空を掴むような仕草をしたかと思うと、私にその手を開いてみせた。彼の大きな手のひらには、小さな雪ん子がのっていた。
 「トドノネオオワタムシ」
 「は、」
 「本当の名前はトドノネオオワタムシっていうんですよ。夏に過ごす木から冬に過ごす木へ、この時期になると引っ越しするんです。油虫の仲間で、実は害虫なんです」
 「油虫、害虫、」
 「ええ。綿毛に見えるのは実はロウみたいなもので、」
 そこで私は大笑いしてしまった。彼はきょとんとしていた。
 「雪ん子でいいの。冬の使者なの」
 笑いながら私がそう言い放つと、修一ははっとした表情を見せ、急に照れたような困ったような顔をした。彼の感情を初めて手にしたようで、私は嬉しかった。茉莉絵は、どうしてそんなロマンスの欠片もない人を好きになれるの、と言って不思議がったが、この時を境に私達は急速に親しくなっていったのだった。紅葉山のピラミッドの上で、星がきれいだと言って私がうっとりと夜空を見上げれば、修一は「現在、地球から肉眼で見える星の数」について話すような人だったが、私はそれにいちいち文句を言いながらも、彼といるのが楽しくて仕方がなかった。やがて、「島田さん」が「ユキちゃん」、そして「ユキ」に、「笹野さん」が「修一さん」「修一」と変わってゆくように、私たちは二年の歳月をかけてゆっくり恋をした。私は周囲にいるどの男の人より個性的で理知的な修一を誇りに思っていたし、彼は彼で私に対してつねに理性的で優しかった。でも。 

 別れの日は急にやってきたわけではない。その少し前から、私は彼の、自分の苦悩までをも穏やかさで覆い隠してしまうようなところに苛立ちを感じていたように思う。「気持ち」を共有させてほしかった。
 きっかけは些細なことだった。近くの自動販売機までビールを買いに行ってくるという修一を見送って、彼の部屋でぼんやりしていた時だった。テレビ台の下の隙間に落ちていた封書に気づいた私は、それを引っ張り出してしまった。封書の中身は、彼の出した退学届を受理したという大学からの通知だった。日付けはもう半年も前のものだった。それから後のことは詳しくは憶えていない。あなたは嘘をついた、私に隠し事をしていた、どういう事なの、説明して。たぶん私はそんなふうに罵ったのだ。彼はただ悲しそうな顔で、実家が、とか、やりたい事があって、と、一生懸命説明をしていたように思う。あなたが分からない、もう我慢できない、そう一方的にまくし立て、私が靴を履いてドアを開けた時、ごめんね、という声が聞こえた。振り向かなくても、その時の修一の悲しそうな顔は想像出来た。

 数日後か数週間後、留守番電話に彼からのメッセージが残っていた。もう一度会いたいだったか、電話をくれだったか内容は忘れたが許しを乞うようなものだったと思う。私はそれすらも無視した。しばらくして後悔し始めた私が彼の部屋に電話をすると、その電話はもう繋がらなかった。私は彼を追いつめて、ふだんは感情を表に出さない彼が必死になって、自分の話をしてくれているのを拒否したのだ。許しを乞わねばならないのは私の方だと気づいてももう成す術がなかった。いつかの冬の日、あのピラミッドの上で交わした、約束とはいえないほど他愛もない、若い恋人同士の幸せな感傷に過ぎぬものを、しばらくは生きるよすがにしていた。

 「ぼくが三十になった時、君とここにいるかな」
 「じゃあ、その年の今月最後の日曜日、ここに来ようか」

 のろけ話を聞かされていた茉莉絵が憶えていなかったら、とうに忘れていた会話だった。その後もいくつか恋愛をし、上手で卑怯な駆け引きも知っている。今なら恋人の嘘に騙されてあげられる余裕もある。また打ち明けられるくらいの度量だって以前よりはあるはずだ。そして、何より、修一とはもう終わったのだ。今となっては恥ずかしい、陳腐でありがちな約束だと思うのに、私は白いセーターを着て、こうしてバスに揺られている。
 「会えなきゃ会えないで、いいのよ。行かなかったらユキちゃんはきっとまた後悔するんだから」
 電話口の茉莉絵の言葉に背中を押されてバスを降りる。あたしはね、今や人のロマンス食べて生きてんだから協力して、と茉莉絵は軽口を叩く。

 ピラミッドの頂上を見上げたが、そこにはやはり誰もいなかった。コンクリートの階段は一段上るごとに、じゃりっと靴の裏で音を立てる。頂上について階段に腰掛けると、眼下の街と夜空の境がくっきりと分かれて見渡せる。同じ景色があの日も広がっていただろうに、まるでそれは初めてみる知らない景色のようだった。その時、下方で人の気配がした。一瞬身を固くしたが、犬を連れた老人だった。ふいに苦笑いが込み上げる。
 「来るわけがない」
 ひとりごちて立ち上がった時、目の前を白い雪虫が浮遊していた。
 「トドノネオオワタムシ。つまんない名前」
 昔、修一がそうしたように、私は空を掴む仕草でそれを捕まえた。綿毛を取ったらただの羽根の生えた油虫になってしまう、そんな危うい虫を飽きずに眺めていた。
 二匹目を捕まえようとした時だった。
 「茉莉絵ちゃんが毎年実家に絵葉書を寄越すんだよ」
 突然現れたその人は、そう言いながら階段を一段飛ばしに上ってきた。
 「君の後悔を解いてやってくれって」
 黙ったままの私に、
 「でもぼくは最初から来るつもりでいたよ」
 息を切らしながら、彼はそう言った。
 「あ、雪ん子じゃないか、」
 「冬の使者なのよ、」
 「知ってるよ」
 辺りには冬の住処を目指す雪虫たちが、まるで粉雪のように舞っている。


 
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