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第6話
柚子日和
中元彩紀子 |
行きかう人波の中に知った顔があったような気がして、振り返った。
十二月になると平日でも街は人々で賑わう。クリスマスのイルミネーションはそれ以前からすでに見なれたものだ。街頭でビラを配るアルバイトの若者や、量販店の前でおどけるサルやウサギのきぐるみたちもまた、色彩を一段と派手に彩っている。
立ち止まって目を走らせたが、そこにはいくつもの似たような頭が右へ左へと交差するばかりで、憶えのある顔などはどこにも見当たらなかった。誰を見たのだろうか、と思い巡らしていると、娘がジャケットの裾を引っ張る。
「パパ聞いてるの、」
「え、」
「だからママに頼まれた柚子、今度は忘れちゃだめだよ」
「ああ、うん。分かったよ」
産前に体調を崩して入院している妻を見舞った帰り、ぼくは六才になる娘のユリの手を引いて歩いていた。予定日まではあと十日ある。妻の玲子は、ユリを産んだ翌年の春に二子めを身ごもったが、夏に流産してしまった。男の子が欲しいと強く願っていたせいだと言って彼女は号泣したが、お腹の子が女の子であったかどうかなんて分からない。ましてや、もしそうだったとしても、胎児が遠慮して世を去るなど聞いたこともない。慰める言葉も見つからずに、ただ仕方がないじゃないかと繰り返すぼくを、玲子は泣き腫らした目で見つめていた。そしてゆっくりと、あの子は絶対に女の子だったはずよ、とつぶやいた。だいぶ元気になってから、何かの折りに彼女は言った。
「わたしはね、あの時あなたに、一緒になって悲しがってもらいたかったのよ」
「悲しかったに決まってるじゃないか、」
「そうじゃないの。悲しむのと悲しがるとでは違うの。女はね、ただ共感してほしいのよ。仕方がないってことは分かってるの。また作ればいいってことも。欲しいのは納得材料でも解決策でもなくて、悲しいねっていう言葉なのよ。わたしは、いなくなってしまった彼女の悲しみをあなたと共有したかったのよ」
ぼくはあの時、悲しむより、まず今後の妊娠の可能性を医師に確認した。そしてまだ希望があることに安堵していた。それなのに泣き暮れる玲子をどこかで持て余していたのだ。随分たってからその話を親友の暮林にすると、彼は酒の入ったグラスをぐるぐると回しながら、女っていうのは、と始めた。
「女っていうのは男の心を知りたがるんだな。男はそんなものはいっぺん言えば分かると思っちまう。問題は、女はそれを常に知りたがるってことだ。常に、だ。まず意見するより話を黙って聞いてやることだ。聞いた後で、俺もそう思うよって言ってやればいいんだ。一度じゃなくて何度でもだ。サボればゆくゆく俺みたいに面倒なことになる。まぁ、なったらなったで気楽だけどな」
あの時の玲子の言葉と暮林の言葉が、今になって頭の中で交差する。流産以来、なかなか子供が出来なかった。やっと出来たと思ったら、今度は妊娠中毒症や早産の危険から入退院を繰り返す。今回また何かあったなら、その時はどう救ってやればいいだろうか。
ユリを実家に預けた後、まっすぐマンションへ帰る気になれず、再び街へ出た。一緒に夕食をという義母の申し出を断り、ジングルベルと華美な電飾と人波の中をぶらつく。そうだ、年賀状のための新しいプリンターでも見に行こう、と向きを変えた時だった。またあの感覚がよぎった。視界の隅っこに、それも一瞬だけ、見知った顔があった気がする。立ち止まって辺りを見回すがそれらしき人物は見当たらない。しかし、それは明らかにこちらに向けて何かを言いあぐねているような気配をまとっていた。あきらめて電気店に入り、目当てのプリンターの前まで来ると、店のスタッフが近寄ってきてその機能について講釈を始めた。最初はふんふんと聞いていたものの、どうにもさっきの違和感が気になって集中出来ず、店をあとにした。
通りに出て、風船を配るきぐるみや、大きな買い物袋を下げた家族連れやカップルたちの波を横切り、人通りの少ない方へ向かった。ぼくは人波の先から感じたあの感覚を探そうとしていた。何があるのかは分からない。だけど、そうせずにはいられなかったのだ。歩調を速め、辺りを見回す。街の喧噪はもうぼくの耳には届かない。電飾も人の動きももはや活動の色を失くし、そこにはただ何かを探すぼくのもつれる足音だけがあった。向こうだ、と感じたのはなぜだかは分からない。そう思った時にはすでに駆け出していた。街の賑わいと閑散とを分ける狭い路地の角に差し掛かったとき、ぼくは立ちすくんだ。そこには、ちんまりと鎮座する小さな道祖神がいた。
いつだったか、ぼくは玲子と二人で近くの寺に水子供養をしに出かけた。果物や駄菓子や玩具を前に、風ぐるまを手にした小さな地蔵は、詣でる悲しい大人達の心を癒すべく安らかな表情をしていた。住職の説法を賜ったあと、玉砂利の敷き詰められた境内で、この世に生まれなかった子供を、ぼくらはひっそりと供養した。その小さな地蔵をどのくらい眺めていたろうか、ぼくがそろそろ帰ろうかと腰を上げても、玲子はじっとしゃがんだまま、ゆっくりと両の手を伸ばし、地蔵の頭を撫でていた。ぼくはといえば、その時、あくびを堪えていたのだった。いつまでも落ち込まれていては、ユリのためにもよくないと考えていたぼくは、もう気がすんだだろ、そんなことも言ったような気がする。ごめんね、と繰り返しながら、玲子は地蔵の頭をいつまでも撫でていた。目の前の道祖神は、その時の地蔵の顔によく似ていた。
「そうか、柚子…」
供え物の中に黄色い柚子が一つあった。柚子の香りが好きな玲子は、退院したら冬至の柚子湯につかるのを楽しみにしている。柚子をかいでいると気持ちが落ち着くの、と、先週から玲子が欲しがっていたのを、ぼくは行く度に忘れて彼女を落胆させていた。
「それといいか、女っていうのはな、知りたがるだけじゃない、聞いたら最後、決して忘れないんだ。だからいっぺん言ったことは何があっても忘れちゃならない。失いたくないなら、言葉を尽くして動け。難儀なことだがな。男が忘れた分だけ、慰謝料の額が増えると思って間違いない。だから今日の勘定はおまえが持て」
離婚したての暮林の自嘲まじりに笑った顔が脳裏をよぎる。あの生まれてこなかった子は本当に女だったろうか。だとしたら、今度生まれてくるのも女の子に違いない。ぼくはあの日、水子地蔵の前で手を合わせながら思ったのだ。また生まれてくるのを待ってる、と。
閉まりかけた八百屋で柚子を買い、面会時間をとうに終えた病院へ急ぐ。人気のない看護士の詰め所の前を足早に通り過ぎ、病室へ向かう。音を立てないよう静かに戸を開けると、玲子は起きて編み物をしていた。玲子、と声をかけると、彼女は短く声を上げ、びっくりしたと言いながら胸を押さえ、もう一方の手でせり出た腹部をさすった。
「驚いて出てきちゃうじゃない」
「これ、」
袋から出したむき出しのままの柚子を差し出すと、怪訝な顔つきは大きく緩み、満面の笑みが広がった。
「柚子! ありがとう。明日でも良かったのに、どうして、」
不思議そうに首をかしげる妻に、ぼくは言った。
「ぼくと結婚してください」
妻は口を開けてきょとんとしている。何言ってるの、私たちはもう結婚してるじゃない、という妻の反応を予想していたぼくに、彼女は、ねぇ、と声をかける。
「わたしのお腹、この子を生んだら、きっとこんなふうになっちゃうんだわ」
ぼてっとした柚子の果皮を指して、笑っている。
「それでもいいの、」
「ああ、いいよ」
「それならよろこんで」
ぼくらは交互に柚子の香りをかいだ。ふいに妻が、この子は女の子だと思うわ、と言ってお腹をさすった。どうして、と尋ねると、そんな気がするのよ、と微笑む。
「ぼくもそう思うよ」
玲子は大きな柚子を両の手で包み、ああ柚子湯が待ち遠しい、とつぶやくと、目を瞑って大きく息を吸い込んだ。そしてもう一度彼女は、ありがとう、と言った。彼女がずっとこんなふうに微笑んでいられるのなら、暮林の言う難儀な努力も悪くない、とぼくは思った。
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