air BE-PALスペシャルコンテンツ

第8話
咲子と餅つきの冬

中元彩紀子

 幼い頃に遊んだ公園に差し掛かったとき、その光景がやはり昔と変わっていたことに、落胆とも安堵ともつかないため息がこぼれた。箱型ブランコもジャングルジムもなくなっていて、不思議な形のカラフルな遊具がそれに代わっていた。この町に到着してから、ともすると長い年月の記憶の止め玉へ押しやられそうになる僕を、その下世話な色がかろうじて現実にとどめた。
 咲子とともに過ごしたこの町は、今僕が住んでいる所からはそう遠くない。JRで二駅先の私鉄に乗り換え、十分も揺られればいい。だのに小学生の時分に今の土地に実家ごと越してからは、ただの一度もここを訪れなかった。無意識にか、ここを避けていたのかもしれない。父が亡くなって半年経った今、母に届けものを頼まれて訪れることになって初めて、当時の記憶が脳裏をよぎった。
 観音橋の手前で靴紐を直していると、頬を柔らかく撫でる風を感じた。つと顔を上げると、今僕を横をすり抜けていった小さな女の子が、母親らしき人と手をつないで歩き始めたのが見えた。その後ろ姿が、記憶の中の小さな咲子と重なって、僕は思わず、咲子、と口の中でつぶやいた。

 咲子は僕が小学校三年の夏休みに、家に突然やってきた。鼻風邪を引いてうちで寝ていた僕は、寝室の襖の向こうで、いつの間にか帰ってきていた父が、母と何か話している声を聞くともなしに聞いていた。すると不意に襖が開いて、ぴょこんと顔を出したのが咲子だった。逆光に黒いおさげが揺れていた。父がその後ろへやってきて、咲子の肩に手をかけてしゃがんだ。
 「咲子だ。しばらく一緒に暮らすから仲良くしなさい」
 父はそれだけ言うと、書斎へ向かった。母は咲子の手を取り、お腹空いたでしょう、と言い、台所へ彼女を連れていった。今の出来事が何を意味するのかを計りかねてぼんやりしていた僕は、いつの間にか寝てしまったのだろう、お熱下がったみたいね、という母の声で目を覚ますと、もう陽が暮れていた。その晩の食卓は咲子を加えた四人で囲んだ。いつもより少し賑やかな食卓に、幼い僕は興奮したのだろうか、それからまた発熱し、しばらく夏休みのプールに通えなかった。
 幼少期の記憶はいつも大事なところを掠め、取るに足らない些末な光景を写し出す。三つ編みの先で揺れる小さな円い玉の色、咲子の両の手の深爪、僕の家のものとは違う名字の書かれた幼稚園のバッグ。『くろべさきこ』という右上がりの文字。今の僕の中の咲子を形どっているものは、そんなどうでもいい記憶だ。僕の中の咲子の印象は、遊びに出ようとする僕の後を追いかけ、僕よりも父になつき、母の膝に遠慮がちに腰掛けている小さな女の子、というものでしかない。妹、というよりも、何か儚くて脆い、両手で包んでそろそろと歩かなければはじけて消えてしまうもののようだった。ただ、一つだけ、ありありと思い出せる咲子の光景がある。

 咲子がやって来た明くる正月、僕らは、毎年一月最初の日曜日に近所の広場で行なわれる町内会の餅つきに出かけた。前の晩に、母が水に漬けておいた餅米を、咲子はまるで宝石でも眺めるかのようにうっとりと眺め、自分で持っていきたがった。所用であとから参加するという母に頼まれて、僕は咲子とともに餅米を持って広場へ向かった。老若男女でわらわらしているその場所で、僕達は所在なげに佇んでいた。ストーブの上の蒸し器から出された湯気の立つ餅米を、女達が臼へ運ぶ。男達が杵でにじりにじりとこねる。その様子を眺めていると、そうなの、高橋さんところのねぇ、という声がした。不意に自分の名前が聞こえ、振り返ると咲子が近所のおばさん達に囲まれてにこにこしていた。僕が近寄って、持ってきた餅米を彼女達に渡すと、ありがとねぇ、と言って、それを蒸し器にあけた。何台ものストーブから順繰りに運ばれてつかれてゆく餅米を、僕は近くで眺めようと、咲子の手を引いた。臼の中でこねられた粒が、ほどよく塊になると、杵を持っていたおじさんが、不意に大きな声でかけ声をかけた。その声があまりにも大きかったので、咲子は一瞬びくっとして、僕の手を強く握りしめて体を寄せた。やっせぇー、ほい、という、つき手と介添え役の威勢のよいかけ声とともに、臼の中の餅米は、なめらかな白い塊と姿を変えてゆき、おばさん達の待つテーブルへと運ばれてゆく。次の餅米には、小海老が入れられた。様子の変わったことに驚いたのか、咲子は微動だにせずじっとそれを見つめている。かけ声が進むにつれ、臼の中は桃色に染まってゆく。不意に咲子が顔をあげ、これ、ウチのお米かなぁ、と言う。分からないよ、と答えると、ウチのだったらいいのになぁ、とつぶやいた。やがてテーブルへと運ばれる桃色の餅に、僕らはついていった。米粉をまぶしたつきたての海老餅を細かく分けて、丸めていく。火傷をしないようにと気遣うおばさん達の間で、咲子は餅の湯気の中で、楽しそうにその作業に加わっていた。
 咲子との想い出らしい想い出といえば、この餅つきの時のことくらいだ。僕は彼女がどういう形で僕らの元を去っていったかも思い出せない。少し大きくなった僕には、咲子が家とどういう関係にあったのか尋ねることも出来たが、それを躊躇させるだけの寡黙さが両親達にはあった。彼女がそこに居たという名残りは、ある日突然、きれいに剥ぎ取られていたように思う。

 「それが黒部さんちの地図だから」
 風呂敷に包まれた荷物の上に母が置いた紙片には、地図と住所と電話番号が書かれていた。
 「咲子ちゃんのこと、あなたは憶えてないかもしれないわねぇ。ちょっとの間しかいなかったから。悪いけど、頼まれてちょうだいね、」
 地図に書かれた住所は、かつて僕が暮らした町からはそう遠くない場所だった。公園をやり過ごし、観音橋を過ぎ、咲子の記憶を手繰りよせながら僕は歩いた。時折地図を眺めては、一軒一軒の表札を確認していると、前方に一人の年老いた女性が立ってこちらを見ていた。
 「高橋さん、雅直さんですか、」
 僕が頷くと、お忙しいのにわざわざ、と言って何度も頭を下げた。黒部と表札のかかった玄関の三和土で、頼まれた包みを渡し、すぐに帰ろうとした僕に、彼女は上がるようすすめた。客間で所在な気にしている僕のところへお茶を運んできた彼女は、自分は咲子の叔母だと言った。咲子の母親の兄嫁だという説明だった。主人は入院中で不在らしい。
 「母親を早くに亡くしましたもんですから、あの後、私のところで引き取ったんです。うちには子供もおりませんでしたし。お聞きになってますか、」
 「いえ、僕は何も、」
 彼女は大きく頷いて、そうでしょうねぇ、と幾度も繰り返した。
 「本当に高橋さんの奥様には感謝しておりますと、お母様にお伝え下さいね。お父様がお亡くなりになったと、連絡を下すったんですよ。咲子は遠慮して、ご葬儀には行きませんでしたけれどね。こうしてきちんとして頂いて……」
 心が粟立つこともなく、ただ彼女の言葉を聞いていられることで、僕は彼女の話の意味することを、自分はとうに気づいていたのだと知った。僕の持ってきた包みの中は、きっと相続に関わる書類や形見が入っているのだろう。
 「彼女は今、」
 「気恥ずかしいんでしょうねぇ、近くの公園に行ってますのよ。こうして訪ねて下すってるのに。じきに戻るでしょうけれど…」
 名残り惜しむ彼女に丁重に挨拶をし、僕は暇を告げた。外に出ると、思いのほか暖かな冬の日射しを受け、一瞬目眩がした。通りの向こう側で賑やかな声がする。誘われるように進むと、そこはこじんまりとした公園で、正月の餅つき行事が催されていた。
 車道を挟んで眺めるその光景の中に、三つ編みの小さな女の子がいるのが見えた。餅を手にしてほおばっているのが分かる。まるであの日を切り取って張り付けたような光景に、しばらくぼんやりした。しばらく眺めていると、その少女のもう一方の手を繋いでいる母親らしき女性が、いつからだろうか、じっと僕を見ているのに気づいた。はっとする僕を真正面に見据えて、穏やかに微笑んだその口元はゆっくりと開き、形を変えた。  
 「お、に、い、ちゃん、ですか、」
 音は聞こえなかったが、そう言っていた。僕が頷くと、彼女はゆっくりと笑顔を作り、深く深く頭を下げた。
 咲子の後ろに餅の湯気がふわりと立ち昇り、それは歓声とともに一月の青空へ溶けていった。


 
air BE-PALに戻る