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第9話
吟遊詩人と陸亀

中元彩紀子

 クロッキー帳と色鉛筆の入ったバッグを片手に、緩やかな坂道をのぼり、途中の自動販売機でデミタスコーヒーを買う。手の中でぬくい缶をもてあそびながら、のらりくらりと一軒家の庭を一人勝手に品評などして歩く。薬局の隣のオレンジ色の屋根にクリーム色の家。ここの奥さんはきっと自己主張が強いに違いない。陽が高くなるとまるで布団干しのように、葉牡丹のプランターを三つも四つも歩道に出している。やがて赤茶色のレンガ造り風の病院の屋根が見えて来たら左に入る。人しか通れない細い砂利の小径だ。その先にある原っぱが、私の散歩コースの最終地点だった。

 失業保険で暮らしながら、絵の題材を探すためと自分に言い聞かせ、ただぶらぶらと無為に時間をやり過ごしていた去年の秋、私はふとしたことからこの原っぱに続く細い小径を発見した。いつもなら、通りを真直ぐ進んで、病院の前の河原へ向かうのだが、その日は風が強く吹いていたせいで、コンタクトレンズを落としてしまった。片目を瞑り、屈んで地面をくまなく探していると、視線の先の方に何やら動く影がある。
 のそりのそりと動くそれは亀だった。あまりに突然の、そして不可解な出現者に驚き、しばらくぼうっと眺めていると、それはゆっくりと進み、ついと曲って姿を消した。後を追って出くわしたのが、この小径だったというわけだ。だが、強い風が運んだ砂塵が目に入り、目の前がぼやけてしまったせいで、その日は亀の行方を見定めることは出来なかった。私が亀とその持ち主――後で彼が言うには"同輩"――と出会うのはその翌月のことだった。

 傷つけた眼球の眼帯も取れ、ようやく散歩に出られるようになると、午後を河原で過ごすには幾分肌寒くなっていた。ふと思い立ち、私はあの小径を行くことにした。この先に何があるのだろう、と思って足を進めると、生い茂った常緑樹で仄暗くなった六畳ほどの空き地が現れた。ジメジメするその場所をさらに進むと、そこには午後の日射しが差し込む原っぱが広がっていた。目の眩みがおさまるのを待って、ゆっくりと辺りを見回すと、そこは木立の中のポケットのような、こぢんまりとした空間で、隅の倒木に腰掛けた老人がこちらを見ていた。一瞬たじろいだが、腰掛けた老人の横にあるものに私ははっとした。あの亀だった。
「こないだ会ったお嬢さんだね、」
 見知らぬ老人に不意に声をかけられ、返答に窮していると、老人は笑いながら、アマティウロがそう言っている、と付け加えた。
「ところで目の具合はよくなったのかな、」
 そしてまた、アマティウロがそう言っている、と言った。
 これが私と彼らの出会いだった。

 それからしばしば、私はその原っぱへ出かけた。仄暗い常緑樹の空き地を抜けると、必ず彼らはそこにいた。深緑色の綿入れを羽織った老人の姿はいつ見ても背景に溶け込んでいたが、先に気づいて顔を上げてくれるのですぐに気づいた。当初、何を話していいか分からず、あなたのペットなんですか、と聞いた私に、老人は頓狂な声を出した。
「ペットとはとんでもない。アマティウロは同輩だよ。もう三十年も一緒にいる」
 へそを曲げられたかと恐縮する私に気づき、老人はすぐにまた笑みを浮かべ、自分達は吟遊詩人だと名乗った。私がきょとんとしていると、老人は知らない国の言葉で静かに歌い出す――歌い出す時に、ひゅうっと喉を鳴らすのが癖だ。言葉の意味は分からないが、それは詩吟ともオペラとも違う、呼吸のように滑らかな旋律だった。耳をそばだてていると、何か胃の腑に溜まった澱が吸い取られていくような錯覚を覚える。言葉の意味が分からないでいる私に、老人が最初に語ってくれたのは、アマティウロの詩だった。
「何百年も前のこと。アマティウロは旅をしながら詩を奏でる吟遊詩人だった。旅をしながら見聞きした事や、人の心を歌って暮らしていた。ある日王宮の晩餐会に呼ばれた彼は、貴族の娘と出会い、二人は恋に落ちた。たったそれだけで他国のスパイだという嫌疑をかけられ、詩人は陽の当たらない牢へ幽閉された。それでも彼は詩を奏でた。娘はそれをくる日もくる日も書き写し、やがてアマティウロの詩が聞こえなくなると娘も行方知れずになった……っていう詩。分かったかい、」
 そのアマティウロは自分の詩にしみ入っているかのように目を閉じている。悲しい詩ですね、と言うと、老人はまたもや頓狂な声をあげる。同時にアマティウロも目を開けた。
「悲しくなんかあるものかい。彼はその時にはすでに私くらいの歳だったんだから。じじいのくせに、最後に若い娘と色恋できたってだけで儲けものだよ」
 老人は愉快でたまらないといった様子で笑う。
「だがね、確かにそのせいで彼はこんなに小さいままなんだから、とんだ災難とも言えるわけだ」
 首を傾げる私に老人は言う。
「陸亀ってのはね、紫外線を浴びて甲羅を成長させるんだよ。この詩人がいくらこうして日なたぼっこしても大きくならなかったのは、幽閉されたときのいわば名残りってやつだな。本当ならこのくらいおっきくなっていてもいいんだが。老いらくの恋なんざ、するもんじゃないねぇ」
 老人は両の腕を足幅くらいに広げてから、大げさに頷いた。アマティウロは老人の膝の上に移され、恥ずかしそうに手足を引っ込めている。黒味を帯びたその真ん丸の身体は私の手の平の上に乗るくらいの大きさしかなかった。
 そんな珍妙な彼らだったが、大方あの病院から時折抜け出すという入院患者なのだろう。そうだと思えば、こちらとしてもいい退屈しのぎになる。そんな風にその時の私は考えていた。

 それから私はたびたび、老人や老人が代わりに歌うアマティウロの詩を聴いた。成さぬ仲の道行きの結末、モンマルトルの丘に咲く水色の花の詩、煙突掃除夫の日記、羊飼いのおねしょの詩なんていうのもあった。老人の声はいつもうっとりとした眠気を催させた。ある時は老人しかおらず、アマティウロは散歩に出ていた。いつものように老人の詩を聴いていると、私はいつの間にか寝てしまっていた。目覚めると、アマティウロはお風呂に入っていた。湯を張った小さな桶に、ふんぞり返って目を閉じている姿は、まるで銭湯につかるおじさんそのもので、思わず笑ってしまったものだ。近くの子供に見つかって、土をかけられ、冬眠させられそうになったのだ、と憤慨しながら走って――あくまでも走ったのだという――戻って来たらしい。老人の説明が終わると、アマティウロは大きなあくびをした。
 年が明けても、彼らと私の逢瀬は続いた。いつも詩を聴かせてくれるお礼に、クッキーを焼いたり、アマティウロ用の水菜や林檎を持っていくと、老人とアマティウロは何やらコソコソ話ながら、お礼のお礼に、と言って、私のお気に入りとなった「羊飼いのおねしょ」を歌ってくれた。これは羊飼いの少年が、自分の描いた大海を航海する冒険譚だった。

 一月も終わりに近づいたある日、老人はひゅうっと音を立て、若い娘の失意の詩を歌った。
「天涯孤独のその娘は、絵本が大好きだった。お針子、家政婦、帳場見習い、パン工場に生花市場、自分の絵本を描くため、一生懸命働いた。ある時、娘は気がついた。描きたいものがまるでない。泣きじゃくって歩いていると、小さな亀が現れた。亀は静かに言ったのだった。片目じゃ何も見えないよ」
 そこで老人は一呼吸おいて、耳をアマティウロのそばへ寄せ、やがてゆっくり頷くと、そろそろ旅に出なきゃならん、と言った。
「もうじきここにも雪が降るらしい」
「続きは聴かせてくれないんですか」
 アマティウロが老人をじっと見上げている。
「続きはまだないって、アマティウロが」
 悲しくなって何も言えずにいる私に、老人は言った。
「もう目は治ったんじゃないのかい」

 その日以来、彼らを見ることはなかった。
 今日も私は倒木に腰掛け、絵を描き始める。冬枯れの木立を、ひゅうっと懐かしい音を立てて冬の風が吹き抜けた。


 
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