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第10話
雪のレプリカ
中元彩紀子 |
長田造園の未亡人とうちの祖父の仲が怪しいと言い出したのは妹の静香だった。
「だっておじいちゃん、最近翡翠のループタイして出かけるんだよ、」
翡翠のループタイというのは、喜寿の祝いに祖母から贈られたもので、一昨年にその祖母が亡くなって以来、箪笥の奥に仕舞いこんだままになっていたものだ。
「それに、こないだ隠れてお父さんの整髪料つけてた。毛なんかほとんどないのにさ、こうやって、」
静香は祖父の手つきを真似て、頭をこねくりまわす。
「何で長田造園のばあさんだって分かるんだよ、」
僕が尋ねると、静香は心持ち鼻を上に向けて得意げに言った。
「尾行したんだもん」
塾をさぼって何をしているのかと思えば、手前の祖父の尾行である。呆れていると彼女はさらに続けた。
「角の豆腐屋あるでしょ。あすこで急に立ち止まって、ガラスに映った自分の格好を眺めんの。で、帽子をかぶり直して、そのあと入っていったのが長田造園。一度じゃないよ、もう何度もつけたんだから」
長田造園は半年前に先代が亡くなって以来、息子夫婦が切り盛りしていて、未亡人は母屋の離れに隠居している。つれあいを亡くしたショックで寝込んでいたと聞いていたが、この頃ではお嫁さんの勧めで俳句などを詠み始めたらしいと、つい最近母が話していた。先代とうちの祖父とは幼馴染みで、祖母が亡くなった時、いっとう最初に駆けつけたのが先代だった。それから三日と空けずに顔を出しては、茶など啜って帰っていく友を見送るうちに、祖父もようやく元気になったのか、部屋からは時折、好きな浪曲が聴こえてくるようになった。ところがその翌年に今度はその先代が急逝してしまったものだから、祖父の落ち込みはかなりのものだった。泣くことはなかったが、自室で悄然としている膝元には、昔の写真やら手紙の入った箱が転がっていたりしたものだ。それが、突然いそいそと表へ出かけるようになったのだから、静香が怪しむのも道理といえば道理である。
「ただ慰めに行ってるだけだろう、きっと。年寄りには年寄りの付き合いがあるんだよ」
「分かってないね、おにいちゃんは。もしなんかあったらどうするのよ」
「なんかって、何だよ、」
連れ合いを亡くした者同士が慰めあっているうちに、愛しあうようにはなったものの、ほとばしる熱情に浮かされながら未来に希望を見たのは遠い日のこと。はたと気づけば行く先に何が待っているでもない先の短い人生。逢瀬はいつしか悲観とため息に満ち、やがて厭世的になった二人は、それならばいっそ、と皺だらけの手と手を結んで心中を企てる……ってことになったらどうするのだ、というのが静香のいう「なんか」らしい。
「あほか」
「じゃ、おにいちゃん確かめてよ。大学、もう春休みでしょ。時間ならいくらでもあるじゃない」
そう言うと、静香は鞄から手帳を出して見せた。ご丁寧にも表紙には、「武治とトシ子の逢引録」とある。そこにはここ一か月の祖父の行動がこと細かく記されてあった。
「おまえ、これ全部見てたのか」
「そ。塾と部活があるから毎日は無理なの。今週は忙しいからよろしくね。たまに川向こうの神社で話しこんでるから、その様子もちゃんと見といてよ」
そう言い残し、幼い探偵は部屋を出ていった。
尾行といっても、うちから長田造園までは歩いてたかだか五分である。静香の言う通り、祖父は豆腐屋の前で帽子を被り直すと、その先は何が起こるでもなく、じきに到着してしまった。近くのバス停でしばらく煙草をふかしていたが、出てくる様子もないので、僕はそのままパチンコへ向かうことにして尾行を終えた。
「どうだった」
夜になって帰宅した僕に、静香は待ってましたとばかりにせっつく。
「どうもこうも、何もないよ」
見たままを書いた手帳を見せると、静香は深いため息をつく。
「なってないね。雰囲気ってものが何も書いてないじゃない。お母さんによると、おじいちゃん六時頃帰ってきて、御飯ふつうに食べて、今はお風呂。それはそうと、おじいちゃんの文机の上にあったメモ、今急いで書き写してきたんだ。これ見て」
そう言って差し出したメモには、「ジクロロエンタン」やら「ホルンバール」等、何やら薬品めいた名前が書いてある。
「これって、いよいよってことじゃない」
静香が低い声で囁く。化学には疎かったが、僕は肌が粟立つのを感じた。
翌日の昼飯時、祖父はふだん通り母と談笑している。午後は雪になるらしいのぉ、などと言いながら茶を啜っている。見ようによってはそのにこやかな表情も、死の覚悟をもって人生の懊悩を吹っ切った人間のそれに見えないこともない。空は雲が低くたれこめ、空気がピンと張っていた。
昼過ぎになって予報通り雪がちらつきはじめると、祖父は身支度を整え、小さな紙袋を抱えて出かけた。長田造園の手前の橋の上で、件の未亡人と落ち合う。どうやら川向こうの神社へ向かうようだ。えんじの傘と紺の傘が揺れながら先をゆく。他人が見たら、長年連れ添った夫婦に見えるんだろうなぁ、と思いながらつけていると、じきに境内が見えてくる。やがて二人は傘をたたみ、境内脇の屋根のあるベンチへ腰掛ける。すると祖父は持ってきた紙袋から、液体の入った小さなビンを取り出した。これはいけない、と慌てて僕は駆け寄った。
「じいちゃんっ」
祖父は一瞬びくっとしたが、じきにそれが孫であると気づき、なんだ賢治か、と言って頬を緩めた。未亡人は、まあまあ、と目を細めて隣に座るよう促した。僕が息を切らせながら、これまでのいきさつを話すと、二人はころころと笑うのだった。
「じゃあ、俺は毎日つけられてたわけか、」
僕が頷くと、祖父はなおも笑う。
「心中とは恐れ入った」
「じゃ、その薬は何なの」
ぶ然として僕が尋ねると、代わりに未亡人が答えた。
「おじいちゃんはね、雪の標本を作ってみせて下さるっていうの」
「雪の標本って」
祖父の横には、例のビンの他に、スポイトやガラス板が置いてある。祖父は黙ったまま立ち上がり、舞い降りる雪をガラス板に受けた。そしてそれを覗きこむと、これはいい案配だ、と言って、すかさずそこへ例の薬品をぽとりと垂らした。
「これで一晩待てば雪の結晶の標本になるというわけだ。お前、大学行ってて知らんのか。続きはお前がやっとけ。……トシ子さん、温かいもの買ってきますんでちょっとお待ちを」
そう言って祖父は石段を降りていった。
「武治さんが言うにはね、雪は先に逝った人たちからの便りなんですって。天からの報らせなんて素敵じゃありませんか。武治さんにそう言われると、本当に亡くなった主人が降らせてくれてるような気がするから不思議なんですよ。こんなに綺麗な形をしてるんですもの、きっとこれは元気の報らせでしょうね」
未亡人はそう言って、虫眼鏡を取り出し、黒いビロードの布に受けた雪片を指差す。これは六花、こっちは扇。一つひとつ、愛おしそうに眺めている。それをレプリカにして残してやろうというのだから、祖父も粋な真似をする。
不意に、おおい、と呼ぶ声がしたので顔を上げると、戻ってきた祖父が手招きしているのが見えた。駆け寄ると、祖父はひそひそ声で、小遣いやるからもう帰れ、野暮な奴め、と囁く。僕は、苦笑いを抑えながら未亡人に会釈し、家路に向かった。通りは、ひらひらと舞う天からの便りでいっぱいだった。
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