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第11話
野良と糸遊

中元彩紀子

 寛治と房枝。大辻の近くで小さな蕎麦屋を営んでいる熟年の夫婦である。子はない。二人の不仲は、隣家はおろか、角の肉屋も辻の駐在も近所の大学生も知っている。最近、駐在のところに居をかまえた他所者までが知っているというから、ここ最近の戦況はいよいよ激しくなってきたとみえる。客の少ない時間になると、彼らはどちらともなくぶつぶつとなにか文句を言い始め、そのどれかが片方の地雷を踏むなりして喧嘩が始まる。たいていは口喧嘩なのでこちらとしては午睡の邪魔になるだけなのだが、たまにレモンやら菜箸が飛んでくる時は素早く避難する。
 先週は寛治の、俺のイボイボつきのサンダルを何処へやった、から始まって、濡れ布巾が宙を二往復し、ストーブの上の餅が破裂したのをきっかけに鎮火した。やれやれと近寄り、房枝の足元で削節のお裾分けに興じていると、寛治の言うイボイボのサンダルらしきものが竹箒の影に見えた。こういう時は気をつけねばならない、というのは会長からのご託宣である。会長は裏のお屋敷の駐車場に間借りしており、そこの娘が年中刺身だの数の子だのを寄越すが故に、町内で一番大きなお腹をしている。氏の託宣とは、人の喧嘩に利き足を出すなというもので、例えばそのサンダル。うっかり竹箒の奥から引き出そうものなら、サンダル盗の下手人の汚名を頂戴することになる。怒った家主に利き足を踏まれたら事であるからして用心せよ、というんである。

 「最近、キミのところのご夫婦はどうも案配がよくないらしいね」
 満月集会のとき、会長は言った。
 「糸遊だよ、キミ」
 「イトユウとは?」
 「夏毛に変わる少し前にだね、感じないかね。何もないのにこう、ふわっと何かがひげや額に触れる妙な感じを」
 「ああ、あれですか」
 「人は蜘蛛の糸などと言うがね、あれは人のご婦人の指の先から出る癇の虫である場合が多い。だいたい蜘蛛の糸遊にはまだ時期が早い」
 そう言うと、会長は大きなお腹を揺すりながら右足で顔を洗った。そしてやにわに、明日は雨ふりっ、と一声あげる。それを合図に一同はそれぞれのねぐらに帰る。その様子を見届けてから、会長はもう一度言った。
 「糸遊だね、おそらく。蜘蛛の糸ではない方の。あれは短歌に詠まれるような風雅な代物ではないのだよ、キミ。蜘蛛の糸に紛れて、癇の虫がふぅわふぅわ漂っておるのだ」
 「はぁ」
 呑気な相づちに会長は少し苛立った様子でぐるぐると辺りを回る。
 「癇の虫は飛ぶ。飛んで人にうつる。で、うつった人は癇癪を起こす。キミんちは我が家の目の前だ。うちのお嬢さんのお腹にはお子が宿っておる。癇癪を起こされたらかなわんのだよ」
 一気にしゃべり終えると、会長は居住まいを正した。尻を下げ、両の前足で何もない宙に向かって何度も何かを挟んで掴むような真似をした。
 「それは何の真似ですか」
 「光を反射してきらっと光ることもある。そしたらこうやって糸をつかまえる。喧嘩が始まったら辺りにはいくらでも漂っておろうからかまわず続けるといい。明日から励みたまえ」
 そう言って会長は背中を向けて帰って行く。屋根から降りる寸前で一度立ち止まり、こちらを振り返ると、猫にはうつらん、と言った。
 
 そもそも寛治と房枝の不仲の原因は、先々月の房枝の誕生日だというのが、薬屋と小間物屋の塀の間で寝起きしている情報通の話だ。無頼漢の彼はふだんは無口だが、元情報屋である。なんでも昔いた処で諜報行為がバレたとかで、この町に流れ着いたらしい。ただというのも何なので、削節の欠片を差し出すと、こいつはありがてえ、と彼は恭しく受け取った。
 「前から蕎麦屋の旦那は頑固な人だったけどよ、おかみさんの誕生日には毎年極上のところ天を作ってやってたそうだよ。店仕舞いの後でかたかた作り始める。で、風呂から上がったおかみさんに黙ったままつつつっと出して何十年。それがこないだばっかりはどうしてか忘れちまったんだなぁ。女ってのは執念深いから当分は続くぜ」
 彼の右目の横には古い傷跡がある。隣町の町議会議員のとこの洋猫ともめて出来たやつだ。
 「糸遊ねぇ。大方、あの会長の爺は刺身が惜しいんだろ。野良のくせにぶくぶく肥えやがって」
 文句を言いながら足元の鰹節を全部舐め終えてしまうと、彼は、もうないの、と顔を上げた。

 半日ぶりに蕎麦屋へ戻ると、それはすでに始まっていた。夕方の仕込みの時間は、尾を踏まれる心配もなくストーブの前でぬくまっていられるのだが、寛治と房枝の気が立っていると安穏ともしていられない。
 「あたしゃそんなサンダル知らないよっ」
 「おめぇがろくに片付けもしねえからどっかいっちまったんだろが」
 「ないないって、だったらその頭のてっぺんの毛から探したらどうだい」
 「んだとっ誰の所為だと思ってやがんだっ」
 なんだ、なにさ、と言い合う間で細く光るものを見たような気がした。糸遊か。かまわず例の所作で宙を掴んで払い落す。あるかなきかの細い蜘蛛の糸のようなものだとは言うが、てんで手ごたえのない仕事はかえって骨が折れる。否、この辺りには会長の言うようにきっと数多の糸が浮遊しているに違いないのだ。そう想像して一心に両足で宙を掴んでいると、不意に静かになった。
 「何してんだ、こいつは」
 「ひょっとして拝んでるんじゃないかい」
 二人は顔を見合わせるとげらげら笑い出し、ほれもういっぺんやってみろ、と腰を屈めてこちらを覗き込む。何もせずにいると、房枝に抱え上げられ仏壇の前へ連れて行かれた。ちーんとお鈴が鳴らされ、また二人でこちらを覗き込む。
 「さあ、さっきみたいにやってみろ」
 「あんたの言うことなんか聞きゃしないよ」
 すると目の前に鮭の皮が差し出された。これは卑怯だ。じっと耐えていると再び雲行きが怪しくなってくる。
 「ちっともやりゃしねえじゃねえか」
 「おかしいねぇ」
 「だいたい猫が仏壇を拝むわけねえんだよ。そもそも野良猫が芸なんかするもんか」
 「さっきあんたも見たじゃないのさ」
 「蜘蛛でも垂れてたんだろうよ。それより仏壇が埃だらけじゃねえか、罰当たりが」
 「気づいたら自分でやったらいいじゃないのさっ」
 その時だ。また何かがチラと細く光った。糸遊だ、と思った時にはうっかり宙を掴んでいた。四つの目がじっとこちらを見ている。ほらやっぱり、と房枝。店先でやらせりゃ客寄せになるかもしれねえな、と寛治。飼い猫にでもされたらかなわないので、急いで逃げた。

 あれから毎日、喧嘩のたびに糸遊捕りを繰り返している。おかげで喧嘩は下火になるのだが、その所為で店の客からもせっつかれるようになった。やらなきゃじきに「糸遊」がおっぱじまるので、結局は同じことになる。さすがにうんざりして表へ逃れると、元情報屋と出くわした。
 「おまえさん、気をつけた方がいいぜ。夕べ薬屋の親父がテレビ局に電話してたからな」
 「え」
 「カメラの前でやらされるんだよ、首に鈴つけられてさ。信心深い可愛い飼い猫ちゃんの出来上がりだ。みいちゃんなんて呼ばれる前にねぐらを変えなきゃならねえな」
 にわかに背筋が寒くなる。
 「だがなあ、おまえさんとこの蕎麦屋の削節は旨いからなぁ」
 確かに。
 まぁ、じっくり策を練ろうぜ、と情報屋は笑う。ねぐらを変えずにこの難を逃れる策があるのか、そう尋ねたのだったが。
 「そこで、だ」
 果たして彼は、最近食ってねえなぁ、削節、とニヤリ笑うのだった。 


 
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