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第13話
ヤドカリと妻と僕と
中元彩紀子 |
起き上がってベッドの脇に腰掛け、醒めきらない頭を抱えてぼんやりしていた。隣のキッチンに妻の気配がする。まな板の上で刻まれる葱の音や天気予報を告げるテレビの音でもなく、やかんの湯の温度が静かに上昇する音に紛れて、時折、パサリと紙の擦れる乾いた音が聞こえる。体を斜めに反らせると、少し開いたドアの隙間から、椅子に腰掛けた妻の背中が見えた。彼女が着ている淡いオレンジ色のセーターは、年末の何でもない日に僕が買ってきたものだ。クリスマスを祝う習慣のない僕に、妻は新婚当初こそ不服そうだったが、四年も経つと何も言わなくなった。僕は、膨れてすねていた妻が少し懐かしくなった。
年末のある日、会社の帰りに、スーツの直しを取りにデパートに立ち寄った。エスカレーターの脇に中年の女が立っていた。何を探しているのか、ガチャガチャと音をさせながらバッグの中をかき回している。年末で混雑している中、立ち止まってぶつぶつ独り言を言いながらバッグを覗き込む女。灰色のジャケットにこげ茶色のセーターを着た彼女は、四十代半ばくらいだろうか。地味な中年の女だ。女はじきに、あったあったと言ってエスカレーターに乗り込んだ。目の前に立つその女の足元を見ると、黒い靴のかかとが白く擦り切れていた。エスカレーターが次の階に近づき、降りようとする女ごしに見えた淡いオレンジ色のセーター。僕が衝動買いをしたのはそれが初めてだったと思う。
淡い色は好みじゃないんだけど、と言いながらも、包装紙をたたむ妻の頬は緩んでいた。そんな妻を見ながら、僕はデパートで見かけた中年の女の話をした。まだ女性として十分に活動期であるのに、どことなくくたびれ、それでいて羞恥心は薄れかけている厚顔そうなその女は、使いかけの石鹸のようだった。まだ使えるのに、表面が薄汚れたせいで手を伸ばすものがいなくなった石鹸。会社の給湯室にもそんなのがあるよ、と、そんなことを言ったのだと思う。妻は、にこやかに僕の話を聞いていたが、ふと黙った後、でも香りも泡も使われなきゃ立たないのよ、と言った。
ぶらぶらさせている妻の足からスリッパが落ちたのと、沸騰した湯がシュンシュン鳴り始めたのが同時だった。慌てて立ち上がる妻が、短く「あ」と言ったのが聞こえた。
「あなた起きたの」
ドアから顔を出し、もう八時よ、と言うと、妻は朝食の支度を始める。
「パンでいいでしょ」
立ち上がってキッチンへ行き、いいよ、と返事をすると、すでにフライパンの上で、卵が焼かれていた。テーブルの隅には、さっきまで妻が熱心に眺めていたのであろう新聞の折り込みチラシがたたんで積まれている。それとは別にまとめられたチラシが数枚、テレビの上に置いてあった。
朝食を終え、着替えて戻ってくると、妻はテレビの上に置かれていたチラシを見ていた。
「なんかいいのあったか」
「いまいちね」
「そうか」
短い会話の後、妻は立ち上がり、茶の間の本棚の上に置いた水槽を覗き込む。ポチもゴハンにする、と彼女が声をかけているのは、先月僕が知人からもらってきたヤドカリだ。先週まではルドルフと呼ばれていたそのヤドカリは、妻の気分によって名前が変わる。突き出た黒い目と、揃えた足が漫画みたいだと言って、妻は水槽の中のレイアウトをしょっちゅう変えて可愛がっている。夏には白い砂をひいて、ビーチパラソルを立てるらしい。背中に背負った茶色の貝殻が、幾分窮屈そうに見えた。
先々週の平日、会社から帰宅した僕と妻はささいなことから口論をした。ふだんは鷹揚でのほほんとしている妻が、その時はこれまでにないくらい苛立って、僕にあたりちらした。最初、僕はただ黙って話を聞き、頃合を見計らって、まだいいよ、と言っただけだった。すると彼女はついと立ち上がり、水槽の方へ向きを変えた。
「ルドルフはいいわよね、好きな時にいつでも引っ越せるんだから。しかもただで。しかもどんどんグレードアップして」
僕が笑って、もう一匹飼おうか、と言った時だった。
「ヤドカリはけっこうよ」
振り返った妻は、うっ血した目で僕をにらんだ。
「私は犬のルドルフがいいのよッ」
妻がもうけっこうだと言ったのは、僕らの住む賃貸マンションのことだった。彼女はそれから、僕が結婚前にしたという約束や、北東の水場は家相が悪いのだとかいうことを次から次へとまくしたてた。
「何も、一生買わないって言ってるわけじゃないだろう」
「去年はね、来年になったら考えようかって言ったのよ、あなたは」
確かに去年、妻が犬を飼えるマンションか家を買いたいと言ったのは覚えている。いつか持ち家を買おうと思っているのも本当だし、来年になったら考えようと言ったのもおそらく本当だ。結婚前、誰もが口にする理想を嬉々として語り合ったのだって、べつに釣り餌というわけではない。ただ、すぐには手が出ないと分かっているものには、なかなか腰を上げる気にはなれないだけだ。
「見学会に行くくらいいいじゃないっ」
妻はそれきり、その日は口をきかなかった。翌日からこれ見よがしに、不動産のチラシ広告を広げて眺めている。
久しぶりに旧友たちと飲んだ時、その話をこぼすと、女の友人はため息をついて笑った。
「ばかね。望みを断ち切ってどうするの。女の望みは少しずつ叶えてあげるの。叶えられない小さな望みが重なると」
「重なると」
「その先の大きな望みが叶う可能性は低くなる。少なくとも女はそう思う。女は子供の頃から無意識に男の力を試してるものなのよ。だから、こいつはダメだなって思ったら、さっさと諦めるの。優秀な遺伝子が欲しいもの。」
「そんな簡単なものじゃないだろう」
「判断に膨大な時間がかかるだけのことよ。だから、小さな望みをちょこちょこ叶えてかなきゃだめなの。女はね、すぐにでも欲しいと思いながらも、あと少しで願いが叶うって状態も十分楽しめるのよ」
女はつくづく欲深い、と横から別の友人が笑う。
「見学会に行くくらいいいじゃない」
結局妻と同じことを言うのだった。でも本当は叶えてくれようとする夫の気持ちが一番欲しいのかもしれない、とも言った。
「今日は、帰り遅いの」
空になったヤドカリのエサ箱を潰しながら、妻が尋ねる。
「どうしてさ」
「会社の近くにペットショップあるでしょ。帰りにエサとこれ、買ってきてほしいんだけど」
突き出されたメモには、何か絵が書いてある。
「何、これ」
「ペットショップの地下に百円均一の店があるのよ。そこの台所用品のコーナーにあるから」
カラフルな小さな容器だという。
「ポチのおうちになりそうじゃない」
久しぶりに妻の頬がゆるんだ。オレンジ色のセーターを着ているのを見るのは、そういえば買ってきた翌日以来初めてだったな。マンションの階段を降りながらふと気づいた。
思いのほか早めに仕事が終わり、僕は妻のメモを片手に店の中をウロウロしていた。見るともなしに雑貨の棚を眺めていると、「海の仲間たち」と書かれたポップの前に、イルカや椰子の木の置き物がある。くじら、魚、ヒトデ、カニ、と順に見ていき、水槽に入れてみようか、とふと思いついた僕は、それらを全部カゴに入れた。これで衝動買いは二度目だ。海の仲間達をカゴに入れたスーツの男は、きっと奇異なものに見えるだろう。
マンションまでの道すがら、心なしか歩調が早まるのがおかしかった。建物が見えてきた時、僕は携帯電話を取り出して妻に電話をかける。しばらくして電話に出た妻に、他に買うものは、と尋ねると、食器洗いスポンジ、と答え、四個で百円だから、と付け加える。
「あのさ、でももう家の近くなんだ」
「じゃあ買えないじゃない。なんでここまで帰ってきてそんなこと聞くの」
「あのさ、明日どっか行くのか」
「予定なかったけど、じゃあスポンジ買いに行くわよ」
だったら、だったら海に行かないか。そろそろ暖かくなるし。明日は日曜日だし天気もいいそうだよ。もう随分海なんて一緒に行ってないじゃないか。そうだ、弁当作ってくれよ。ポチにちょうどいい貝殻も落ちてるかもしれないよ。だから、そうだ、ポチも連れて行こう――。ずっと考えていたことを一気にしゃべり終えると、妻は少しの沈黙の後、分かったから早く帰って来いと言った。そして、今はヤドカリのおうちでガマンしとくわ、と笑った。
電話を切り、僕は妻とヤドカリの待つ我が家へ走った。
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