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第14話
桜色の紅

中元彩紀子

 五才になる娘が、窓辺で絵を描いている。今朝の天気予報では、京都の桜が三分咲きだと言っていた。外は春らしい剣呑さで、昼間の心地よい眠りを誘う。
「ママのかお」
 娘が差し出した画用紙には、おそらく桜のつもりなのだろう、ピンクの花びらに囲まれた私が描かれていた。
「お口もピンクなのねぇ」
「ママは、ピンクが好きでしょ」
 ありがとう、と礼を言うと、今度はパパの顔を描くと言って、再び窓辺に座り込んだ。
 
 幼稚園から小学校の二年生くらいにかけて、私の家には住み込みのお手伝いさんがいた。名前は「紅子さん」といった。年は分からない。幼い私には母より若い人、という認識くらいで、十八と言われればそうも見えたし、三十路と言われればそうも思える。顔は富士額のうりざねであった。彼女に抱きつくと、いつもほのかに白粉のような匂いがした。それは母の匂いとは違う、何か秘め事を連想させるような匂いだった。私はその匂いが好きで、通りの向こうに彼女の姿が見えると、急いでもいないのに走っていき、腰をかがめた紅子さんに飛びついた。私がそうすることを心得ていたのだろう、彼女は私が走り出す前から腰をかがめて待っていた。幼稚園帰りに限らず、デパートの化粧室や家の廊下でも、私はその大げさな再会の歓びを儀式のように繰り返した。
 大学で教鞭をとっていた父は、大学の研究室か自宅の書斎にいることが多かった。口数の少ない、それでいて始終何かむつかしい事を考えている父は、触れたら破裂する水風船を思わせた。決して怖かったわけではないが、話しかけたら傷つけてしまうのではないかという気持ちにさせる人だった。怖いといえば、それは専ら母に対して抱く感情だった。両親は見合い結婚で、父に言わせれば、「気ぐらいの高いところが凛として見えた」らしいが、それは鼻っ柱の強い女性とも言い換えられる。書道のお師匠であった母は、筆の心得なるものを幼い私に説いてみせた。無論、幼い子供に精神論など理解できるわけもなく、そのうち爪を噛み出す私の手を音がするほど叩き、悄然とする私に気がすむまで小言をぶつけた。私に書に対する理解も、また才もまるでないのを悟ると、やがて母は私に対する興味を失った。始終出歩くようになり、私の世話は紅子さんに任せきりとなった。もともと古い商家の一人娘で、面倒事や日々の些事は自分の知らぬことろでよしなに片付いているもの、と考えている母の中で、思うようにいかない娘は、誂えの不出来な筆と同じなのであった。

 紅子さんは、かくれんぼの達人だ。隠れるのも探すのも彼女にはかなわない。私が納戸の空のお櫃の中に隠れ、さらにぬか袋を被って息を殺していても、彼女は他を探すことなく簡単に私を見つけた。また、彼女が隠れる場所は天袋の中や天井裏など、子供には容易に見つからない凝った場所ばかりで、台所の棚の中で金だらいを被っていたこともあった。もっともこの時は、何も知らない母によって見つかったのだった。用あって棚の引き戸を開けたら、そこに手足を折り畳んですっぽりと納まっている人間があったのだから、母もこの時は目を丸くして呆れていた。隠れるために出した物を片付けるように言うだけで叱られることはなかった。また、トイレの天井近くで両手両足を踏ん張っていたこともある。どうやって上ったの、と尋ねると、彼女は左右の壁に手をついて、にじりにじりと上ってみせた。口を開けて見上げる私を天井から見下ろし、美緒ちゃんは危ないから真似しちゃなりませんよ、と言った。紅子さんは子供相手だからといって手を抜かない。だから、彼女は一度たりとも同じ場所に隠れることはなかった。
 いつだかの春、紅子さんは裏庭の桜の大木の上に隠れていたことがある。いつもなら容易ではない紅子さん探しが、この時は簡単に見つかった。驚かしてやろうと真下まで忍び寄ったが、およそ隠れているような様子ではなかったため声をかけるのは躊躇われた。紅子さんは、大木の中くらいの位置の太枝の上で仰向けになり、手紙を読んでいた。黙って見上げていると、ポツリと雨が降ってきた。
「紅子さん、雨だよ」
 不意に声をかけられ、起き上がった彼女は、「早かったですね。今回は上出来です」と言いながら降りてきた。
「紅子さん、高いところ好きだね」
「馬鹿と煙りはなんとやら」
 次は国会議事堂のてっぺんにまで足を伸ばしましょうか、と笑った顔を見たとき、落ちて来たのは雨粒ではなくて、彼女の泪だったと気づいた。目尻からこめかみにかけて、うっすらとその名残りが見えた。私は気づかないフリをした。

 紅子さんは二階の奥の六畳間で寝起きしていた。彼女は、父も母も留守であると、仕事を手早く済まして私を部屋に招いてくれた。紅子さんの部屋は、一歩足を踏み入れると、やっぱり紅子さんの白粉のような匂いがした。母の炊く白檀の香とはちがう。絵本で読んだ外国のお姫さまのお部屋に入ったらきっとこういう匂いがするのだろう。鏡台の前には、きれいな色の液体の入ったビンやかわいらしいコンパクトなどが雑然と置いてあって、目を輝かせる私にそれらの使い方を順に教えてくれた。
「これなに」
「それはね、べに筆」
 銀色のペンのようなそれの蓋を外すと、小さな筆が現れた。紅子さんは、使いかけの口紅の先に、筆をちょんちょんとつけ、口紅をひいてみせてくれた。そして、お母様にはナイショですよ、と言って、私にも施してくれる。目を閉じ、べに筆が唇の上をすべる感覚に集中した。柔らかくて、少しくすぐったい。薄目を開けると、紅子さんは黒目を寄せて唇を固くすぼめている。その顔が可笑しくて、思わず吹き出してしまった。
「あれ、はみだしちゃいましたねぇ」
「だって、紅子さん変な顔してるんだもの」
 すると紅子さんはひょっとこみたいな顔をしておどけ、さらに私を笑わせた。でも、と彼女はふいに真顔になり、「紫や真紅はもの欲し気でいけませんよ」と言った。鏡を覗くと、私の唇は淡い桜色に染まっていた。私は、母の持つ筆より紅子さんのべに筆の方がずっと好きだった。

 夕食の買い出しに行く紅子さんについて行き、帰ってから転寝をしていたある日のこと。目がさめると、台所に彼女の姿がない。下拵えを済ませ、部屋で休んでいるのかと二階へ上がる。小さな声で名前を呼んだが返事がない。襖をそっと開けると、紅子さんは窓辺でぼんやりしていた。彼女の周囲は紫煙がくゆっている。
「あ……」
 彼女の指には、細い煙草が挟まれていた。紅子さんは、あららら、と言って座布団辺りを煽いだ。
「見ちゃった。紅子さん煙草吸うの」
「お母様とお父様にはナイショですよ。……煙草は、とっても嬉しいことと、とっても悲しいことがあった時にだけ吸うんです。でも美緒ちゃんは大人になってもだめ」
「なんで」
「似合わないから」
 そう言って、彼女は煙草とマッチをそそくさとバッグの中にしまった。その日、紅子さんにあったのが嬉しい事なのか悲しい事なのかは聞かなかったと思う。ただ、彼女の揉み消した煙草の吸い口は今でも鮮明に思い出せる。吸い口についたほんのりとした淡いピンク色は、ちょうど裏庭で満開になっている桜の花びらを思わせた。私はぼんやりと、桜の木の上で泣いていた彼女を思い出した。

 紅子さんがいなくなったのは、それからすぐのことだった。桜の花がすべて散り、落ちてみすぼらしく変色した花びらをきれいに掃き終えた紅子さんは、すっきりっ、とひときわ大きな声で言うと、にかっと笑い、私を手招きした。
「これ、いつかのべに筆。あげますよ」
 前掛けのポケットから出して、私に手渡した。すごく嬉しくて、ぴょんぴょん飛び跳ねる私に、口紅はまだ早いからあげませんけどね、と言った。
「幾つになったらつけてもいい」
「そうね、二十歳になったら。でも、ピンクに限りますよ。美緒ちゃんを好きになる男の人もきっとそう思うはず。美緒ちゃんにはピンクが似合うって」
 一緒に選んでね、と言うと、紅子さんは少しだけ真顔になって、またすぐに微笑んで、頷いた。そして、美緒ちゃんは本当に好きな人と結婚してくださいね、と言った。
 翌日学校から戻ると、知らない小母さんが応接間のソファに腰掛けて、両親と何やら話をしていた。
「ですからね、気づいたらもぬけの空だったんですよ、」
 困り顔の母の横で、父が首を捻っている。とっさに紅子さんの事だと思い、彼女の部屋へ行った。彼女の荷物はなかった。鏡台の上も、押し入れの中の洋服も全部なくなっていた。再び、階下へ降りていき、廊下で両親たちの話に聞き耳を立てた。小母さんは紅子さんの親戚の人らしい。彼らの話には、ミチユキとかイイナズケとかお見合いという言葉が頻繁に出てきた。紅子さんは、家族が反対する恋人と駆け落ちしたのだ。誰にも言わず、夜中にそっと家を出たらしい。置き手紙には丁寧な詫び文に、探さないで欲しい旨が添えられていたという。
 翌日からすぐに、両親たちは新しいお手伝いさん探しを始めたが、私は突然彼女がいなくなってしまったことが寂しくてならなかった。あの日、紅子さんが桜の木の上で読んでいたのは恋人からの恋文で、きっと煙草はささやかな決意表明だったに違いない。紅子さんに起きたのは「とっても嬉しいこと」の方だったのだ。そのことに思い至った私が、紅子さんは本当に好きな人と一緒なんだから幸せだね、と言うと、母はそんなもの分かりゃしません、と眉をひそめた。
 一度だけ、紅子さんから手紙が来たことがある。便せんには『二十歳のお祝に、約束の品を贈ります。あなたが幸せであることを祈っています』とあり、桜色の口紅がひとつおさめられていた。同封された写真の中で、紅子さんは男の人と小学生くらいの男の子に挟まれて笑っていた。

「ママ、何描いてるの」
 隣で一緒に絵を描いていると、娘が覗き込んで尋ねる。
「ママのママを描いてるの」
「どうして二人いるの」
「ママにはママが二人いるのよ」
 娘は意味を計りかねて、ふぅん、とだけ言った。かくれんぼしようか、と私が言うと、娘は、する! ママ、鬼ね、と言って飛び跳ねた。
 立ち上がると、春の風がふわりとカーテンを揺らした。吸い込むと、ほんの少し白粉の匂いがしたように思い、私は嬉しくなった。

 


 
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