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第15話
金魚の戯れ

中元彩紀子

 エレベーターのないアパートの五階で私は暮らしている。ベランダがないかわりに屋上を使ってもいい、と言う大家に合鍵を渡されたのは一昨年の春のことだ。古い建物で、外壁の半分は蔦に覆われている。昔造りであるためか、入り口は建物の西側中央に位置していて、その左右に各部屋が並んでいる。入り口から覗くと奥の方は仄暗く、うっかりすると昼間であることを忘れてしまいそうになる。一階の奥のドアの前には、包帯を巻いたようなマネキンが一体立っており、慣れない頃は帰るたびにどきっとした。あれ、なんとかなりませんか、と大家に告げると、あすこは美大のセンセイのアトリエですので、とけんもほろろに返された。マネキンはこの二年余りで三体に増えた。
 「ここってなんだか不思議だね」
 アキラは遠慮がちにだが、そう言った。彼にしてみたら、これから何度も通うことになる恋人のアパートが、こんなに陰気であるのが気に入らなかったのだろう。でも、住むのは私なのだ。文句を言う筋合いじゃない、と思ったのか言い方は平たんなものだった。アキラはいつでも穏やかで、他人の批判など滅多にしない。
 「不思議でしょう。しかもアンテナ持参で引っ越さなきゃならないのよ」
 アキラは私の言うことが分からなかったらしく、眉をしかめた。私は、アンテナとはテレビのアンテナのことで、ここの住人たちは皆、自分でアンテナを購入しなければならないのだということを説明した。ほら、とあごでしゃくってみせると、アキラは屋上を見上げた。そこには、おびたたしい数のアンテナが青空を背負っていた。
 「気味悪くないか」
 私は、べつに、とか、ちょっとね、と言ったのかもしれない。もうずっとずっと昔のことのようで、記憶はところどころ抜けている。永遠に完成しないパズルを抱えているようで、途方に暮れていた時期もあったけれど、お腹は確実に減ったし、日々の活計に追われるうちにどうでもよくなってしまった。それでも過去というのは、時折ふと頭をもたげ、胃の三寸下あたりをむんずと掴んだ。私がその時思うのは、ひょっとしてあの時笑っていた私は今もまだどこかで生活をしていて、時々別の生活をしている自分を空想し、それが今の自分なのではないか、などということだ。そんな「私」が世界にはうようよとしていて、彼らは決して互いにコンタクトするとこは出来ない。そこまで考えた時、胃の三寸下あたりがきゅうっとするのだった。抜け落ちたピースは今もどこかにある、そんならちもない考えは、今ではどこも掴むことなく私の中で時々遊んで、やがて去ってゆく。
 
 アキラが、タエにはついて行けない、と言ったのは、去年の今頃のことだ。私はその時、連休の遊園地は混んでいるからどこか他のところへ行こうとか、夕焼けと黒助の鉢を大きくしようとか、そんな話をしていたはずだった。なのに、彼はあぐらをかいたかかとのあたりを眺めながら、そう言ったのだ。私は、買ったばかりの金魚鉢をまた買うこと、もしくは休日の行き先を変更することに、彼が腹を立てているのかと思った。
 「あの子たち、なんだか窮屈そうなんだもの。時々ジタバタしてるの」
 夕焼けと黒助は、熱帯魚屋の閉店セールで買った金魚だ。夕焼けは頂天眼、黒助は黒いらんちゅうで、その滑稽な姿体と、蝶のように優雅な尾びれが気に入って衝動買いしたものだった。
 「そうじゃなくて」
 「あ、連休のこと」
 彼は首を横にふり、ゆっくりと顔を上げると、私の顔を真直ぐに見た。
 「もう、タエにはついて行けない」
 もう、という言葉がついただけで、私は彼が私たちのことを終わりにしようと言っているのだと分かったし、同時にとても驚いたものだが、何より私が気になったのは彼の言い方だった。
 「ついて来いなんて言ったっけ、」
 すると彼はあからさまに眉をしかめ、そういうところ、と言った。
 「タエは、自由すぎるんだよ、勝手って言ってもいい」
 私は、何を言われているのかさっぱり分からないでいた。手持ち無沙汰なので、側にあった煙草に手を伸ばした時だった。煙草吸う女もあまり好きじゃない、と言うので、私はすっかり困ってしまい、仕方ないのでお湯を沸かしにキッチンに立った。すると、またしても彼は、そういうところ、と言う。
 「今は大事な話をしてるんだ。お湯なんてあとでいい」
 私はひどくきょとんとした顔をしていたんだと思う。その顔のままで彼の目の前へ座りなおし、どうして、と聞いた。
 「キミは俺のことなんか必要としていないんだと思う。一人で何でも決められるし、俺の好みとか悩みとかそういう俺個人のことについてなんて興味ないだろ、」
 そこまで言うと、彼は再び下を向いた。私は、夕焼けと黒助の鉢に餌を落しながら、だんだん腹が立ってきて、拗ねてるわけね、と言った。そのとたん、彼の顔はやにわに赤くなり、矢継ぎ早に言うのだった。
 「むかつくんだよ、そういうの。いつだってお前は涼しい顔をして自分の好きなようにしてるんだよな、引っ越しだって、急に、しかも一言の相談もなしにこんな気持ち悪いところに決めた。普通、相談するだろ。連休だって行き先は前から決めてたのになんで変えるんだよ」
 「それに」
 咲を促すと、彼は金魚鉢の方を向いて言ったのだ。
 「気味が悪いんだよ、その金魚。顔はぼこぼこしてるし、目が上向いててまるで奇形じゃないか、普通そういうのって飼わないよな」
 その瞬間、私の肌は粟立ち、気がついたら彼の頬を思いきりひっぱたいていた。
 「別れて」
 明らかな言葉を先に言われてしまったのが悔しかったのか、彼はその後、私の服のセンスやら部屋の香の匂いにまでケチをつけて部屋を出ていった。残された私は、今目の前にいたのが、あの穏やかなアキラだったとはとても思えず、しばらく呆然として過ごした。どのくらい経ったのだろう、だったらそう言えば良かったのに、とひとりごち、私は沸かしそびれたお湯を火にかけた。
 
 「別れて正解よ、そんな了見の狭い男。あたし、前から気に入らなかったのよ、アキラ君て」
 里美は、私の報告を聞き終えると即座に電話口でそう言った。
 「腹の中でついてる悪態を見破られたくないから、僕は心の広い人間です、みたいな顔してさ。誰からも好かれたい男なんて、要は自分に自信がなくて人に意見できないだけじゃない」
 確かにアキラは、いつでも控えめな人だった。彼の口癖は、普通はこうじゃないの、とか普通はそう思わないよね、というものだった。彼には普通であることがとても大切なことのようだった。それでも、私と付き合い始めた当初は、タエのその独特なところがとても好きなんだ、と言ったもので、私は自分のことを独特だとは思ってもいなかったから大いに誇らしく思ったのだった。そんなアキラのことを、里美はそれからも親の仇のように罵ったが、私は別のことを考えていた。あの時、私に悪態をついた彼は、過去の彼がどこかで想像した自分とひょんなところで入れ代わってしまったのではないかとか、それともどこかで自分をあまり主張しない穏やかな彼を疎ましく思っていた私が、ふと思い描いたタチの違う彼を具象化してしまったのではないかとか、そんなことだ。それを里美に言うと、彼女は、大丈夫なの、だか、行ってあげようか、と言ったのだと思う。それを丁寧に断り、電話を切って、一呼吸おいてから、私の目から初めて涙が落ちた。それは、ぽろんぽろんと、音を立てていくつも落ちた。

 それから一度、彼は自分の細々とした荷物――歯ブラシとか二、三枚の服、旅行鞄、靴――を取りに来た。玄関先でそれらをきまり悪そうな顔で受け取る彼は、やっぱり私のよく知る彼で、私は自分達がこれからもう二度と、屋上のアンテナに囲まれてお昼をとったり、ベッドで共に寝たりビデオを観たりしないのだということがまだ信じられないでいた。彼は、上目遣いで私を見、ごめん、と言った。金魚のこと、と尋ねると、それも含めて全部、と答えた。私は、「いいよ、もう食べちゃったから」と笑いながら答えた。すると彼はにわかに気持ちの悪いものでも見るかのような顔をして帰って行った。私は笑いながら部屋へ戻り、夕焼けと黒助に餌をやった。
 「金魚なんか食べるわけないじゃないねえ」
 私は泣くかな、と思ったけれど、涙がひとつ落ちただけだった。ぴちょんと鉢の水が音を立てた。夕焼けと黒助は蝶のように尾びれを水にたゆたわせている。黒助は相変わらず重そうな頭をしていたし、夕焼けは覗き込む私を心配そうに見上げていた。

 屋上に鉢を出してひなたぼっこをしていると、やっぱりここか、と言って里美がやって来た。
 「なんでエレベーターないのかね、ここは」
 六階分の階段を上るのはキツイらしく肩で息をしている。しかもこのアンテナ、と言って呆れたように見回している。
 「このアンテナはさ、ホントはテレビの電波を受信していると見せかけて、実はどこかのよからぬ地下組織の怪しい電波用なのよ。知らないのはあんただけでさ、」
 そうかもしれない。夕焼けと黒助が鉢を変えても時折ジタバタするのは、そのせいかもしれない。
 「エレベーターがないのはさ、容易に上がって来られないようにするためで。で、一階のアトリエのマネキンは、秘密を知ってしまった人間が始末された姿で」
 「なるほど」
 「その中にはあのアキラって野郎も」
 ありうる、と言って私たちは大笑いする。
 私は今でも時々考える。ある過去の一日、すごく楽しかった一日の私と私をとりまく人や風景は、今でもどこかでその延長にある日々を送っていて、またある日を境に入れ代わってしまったアキラは今もどこかで、大好きな私と理想の日々の中でひなたぼっこをしていたりする。世界は無数にあって、それは日々増えている。記憶に残らなかった断片も残っている断片も、どこかでそれぞれにパズルを完成させていて、それは至極幸せなことなのだと思う。だから私は抜け落ちたピースを探すことをやめ、今日を健やかに生きているし、里美と金魚とひなたぼっこを安心して愛していられるのだ。
 「人生は舞台なんだって。出番が終わった人間は、その舞台から去るの。実際はいろんな理由をつけるんだけど。その人の舞台ではもう用がなくなったから出番は終了。それだけのことなんだって。そしてまた新しい舞台に登場するっていうのよ」
 里美は、誰が言ったの、と聞く。
 「夕焼けと黒助。夢の中だとこの子たちよくしゃべるの」
 里美はくすりと笑って、あんたのそういうとこ好きだよ、と言った。そして、黒助ってケーシー高峰に似てるよね、と言った。里美にそう言われて、黒助は不満そうにぱしゃんとはね、夕焼けがこちらを見上げて抗議している。少しだけ埃っぽい春の空が、現し世と幻ろ世の境を覆っていた。

 


 
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