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第16話
黄揚羽
中元彩紀子 |
だいぶ暖かくなり、僕が歩けるようになった記念にと選んだ行き先は図書館だった。一昨年の暮れにスキーで傷めた足は、思いのほか完治が遅かった。仕事は辞めざるをえなく、といっても解雇されたわけではなく、理由は主に自分の精神状態にあった。慣れない営業の仕事が軌道に乗ってきたと思った矢先の事故だった。見舞いに来る人々の他愛ない一言が、眠れぬ夜を連れてくることもしばしばだった。自暴自棄になり、疑心暗鬼にかられ、勢いあまって会社を退職し、ところが自分がどこにも属していないという心もとなさに、心はさらにすさんでいった。すさむ心にふとしたことから光りが射したのは、病院の前の広場に、季節外れの蝶を見た時だ。それまでずっと忘れていた光景が、僕のまぶたに広がる。今思えば、あの時の僕の前に蝶が現れたのは必然だったのではないかと思う。神様がいるのなら、冬に蝶を用意せねばならなかったその足労に感謝しなければならない。リハビリを重ね、プロテクターなしで歩けるようになったのはつい先月のことだった。遠出はまだ早いと止める母をなだめるのには骨が折れた。
十年前、僕は海にほど近い街の図書館で働いていた。外観はひどく古ぼけていたが、暖かくなり色みを帯びた蔦が壁面のひびを覆えば、むしろそこは趣のある風景だった。冬はいけない。冷たい海風のせいで手すりや鉄柱は錆び、そして時折、精彩を欠いた近くの畑の乾いた土が舞う。明かりがついていなければ、そこは幽霊屋敷のような佇まいだった。実際、利用者の間では、夜になると子供の幽霊が出るという噂が始終囁かれていた。時々訪れる小学生たちの中に、一人だけ他の誰とも行動を共にせず、一人でいる少年がいた。
ランドセルの大きさがやけに目立つその少年は、いつも右足をひきずるようにして、閲覧カードをもらいに僕のところへやってきた。
「おねがいします」
「はい、三時間ね」
少年は閲覧が許されている三時間の間、赤茶色の丸椅子に腰掛け、いつも昆虫図鑑を眺めていた。言葉をかわすことはほとんどなかった。
好天の日に館を訪れる人は少なく、その日、しんと静まりかえった閲覧室は彼一人だけだった。僕はそれとなく少年に近寄り、声をかけることにした。
「いつも来てるね。足、挫いてるのかい」
不意に声をかけられて、こちらを見上げた彼の目は迷惑そうにも怯えているようにも見えた。僕は無言の彼に、さらに言葉をかけた。
「いつもそればかり読んでるんだね」
すると彼の目は、値踏みするようなそれに変わった。借りていけばいいのに、とすすめると、
「これ知ってる」
彼は僕の言葉などまるで聞こえなかったかのように、唐突に尋ねた。開いた昆虫図鑑をこちらに掲げている。腰をかがめて覗き込むと、そのページに載っていたのは蝶だった。
「アゲハ蝶かい、きれいだね」
すると少年は顎を少し持ち上げ、ちがうよ、と言った。得意げな表情が可笑しいのと、やっと口をきいてくれた嬉しさで、僕はいそいそと隣の席に座り、じゃあ何だい、と聞いた。
「黄揚羽だよ」
「アゲハ蝶そっくりだね、よく似てる」
「成虫の姿はよく似ているよ。羽の付け根が黒っぽいのが黄揚羽。羽の色はアゲハより濃い黄色なんだ。でも幼虫は全然違うよ。黄揚羽は、ほら」
彼がページをめくると、そこには黒と緑の縞模様のグロテスクな幼虫の写真があった。成虫とは対照的な奇怪な姿だった。
「パセリや人参を食べちゃうから害虫扱いされるんだ。見た目もこんなだし、気味悪がられる。でも、黄色と黒の羽を広げた姿を見ると、今度はみんなみとれるのさ。だから、気味悪がられたって黄揚羽はちっとも気にしないんだ」
「この辺りでも見られるのかい」
「難しいよ。都会じゃ少数派なんだ。黄揚羽は明るい草原みたいな場所が好きだから街には馴染まないんだよ」
蝶の話に僕が興味を示したのが嬉しかったのかどうかは分からないが、彼はそれからも黄揚羽について話し続けた。
「彼らは飛ぶ力が強いんだ。平地から標高三千メートル近くにだって飛んでく。どこにだって飛んでいけるんだよ」
彼のその口ぶりは、僕に向かって話すというより、まるで黄揚羽が力強く飛んでいる光景を見ているかのようにうっとりとしていた。最初に見せた警戒の色はもうどこにもなかった。
「たくましいんだね、黄揚羽は」
「これ、生まれつきなんだよ」
「え、」
僕は一瞬、少年が何のことを言っているのか分からなかったが、すぐにそれが自分の足のことを言っているのだと分かった。彼は自分の右足をじっと見つめながら言った。
「彼らはね、自分で風を起こすんだよ」
不意に顔を上げて、彼はもう一度言った。
「自分で風を起こして羽ばたいて飛び立っていくんだよ。すごいよね、」
僕が、うんすごいね、と頷くと、少年は満足げに微笑んだ。それからも彼は黄揚羽を初めて見た時の様子やその生態について語り、気づけばとうに閲覧時間は過ぎていた。時計を見て、名残惜し気に図鑑を閉じる。
「まだ、いいよ。今日は誰も来ないみたいだ」
すると彼は、ほんとに、と顔を上げて喜んだ。
「いろいろ教えてくれたからね、特別だよ」
「うん、ありがとう」
大げさな笑顔に少し照れくさくなりながら、僕は受付へ戻った。どのくらいたっただろうか。外はもう暗くなり始めていた。そろそろ帰った方がいいのではないかと閲覧席を覗くと、いつの間に帰ったのか、すでに少年の姿はなかった。昆虫図鑑はきちんと棚に戻してあったが、閲覧カードはテーブルに置かれたままだった。見ると、カードの裏に小さく黄揚羽の絵が描かれてある。色鉛筆で丁寧に描かれたそれは、今にも飛び立ちそうなほど精密な絵だった。
その日を境に、少年が館へ来ることはついぞなかった。最初のうちはどうしたのだろうと訝しんだが、やがて別の街へ移り、仕事も変えた僕はすっかり少年のことなど忘れてしまっていた。
十年ぶりに訪れた図書館は、あの頃のままの姿でそこに建っていた。中に入ると、相変わらず人気は少なく、僕は苦笑する。二階の閲覧室へ行き、受付に座る女性に声をかける。
「おねがいします」
「利用者カードは」
ないと告げると、彼女は少し困った顔をして、利用者カードがないと閲覧席は貸せないのだ、と言う。仕方ないと思いながらも、自分は以前ここで働いていて、今日は近くまで寄ったので顔を出したのだと言ってみる。
「十年前、僕もそこに座ってたんだよ」
すると彼女は、悪戯な顔をして、じゃあ特別ですよ、と笑い、閲覧カードを出してくれた。
礼を言って、昆虫図鑑を探す。奥から二番目の最下段に、それはあった。手にとってみると、ずっしりと重い。赤茶色の丸椅子に腰掛けて黄揚羽のページを開くと、中に挟まれていたらしい紙がはらりと床に落ちた。拾い上げてみるとそれは、古い閲覧カードだった。受付の女性にそれを持っていくと、彼女ははっとした顔で、驚く。
「これ、どこに」
「ここに挟まってたよ」
「すごい」
彼女は感心したように驚いて、裏返したカードをこちらに見せる。
「ほら、これ幸運のアゲハ蝶」
今度は僕が驚く番だ。それは、あの日少年が残していったカードそのものだった。色鉛筆で描かれた精密な蝶の絵は、あの日見た鮮やかな色のままだ。
「これ、幸運のカードなんです。このカードが渡されると、願いが叶うんですって。でもあたし見るの初めて」
昆虫図鑑なんて借り手が少ないから、ずっと挟まれたままだったのだろう。
「どうせ館長あたりの作り話だろうって思ってたんです。ほら、ここ幽霊が出るって噂のせいで流行らなかったから」
「それ、子供の幽霊だっていうんだろう、」
頷く彼女に、僕は言う。
「それは幽霊じゃなくて、妖精だよ。黄揚羽の」
首をかしげる彼女に、僕は尋ねてみた。
「右足を引きずった少年が来たことはないかい」
彼女は首を横にふる。
「そうか、もう羽化したんだな」
不思議そうな顔をしてこちらを見る彼女に、その絵はアゲハじゃなくて黄揚羽だよ、とだけ告げ、僕は館を後にした。
表に出ると、館の庭に咲いた菜の花から、何かが飛び立った。
「黄揚羽だ」
相変わらずアゲハ蝶との区別はつかないけれど、それは力強く、自分で風を起こして飛び立っていった。
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