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第18話
遠雷の悪戯
中元彩紀子 |
伯父が危篤だという連絡があった。電話口では、母の一番上の姉が鼻をすすりながら、急に容態が悪くなったとか、母の名前を呼んでいるだとか言っている。「行かなきゃ」と言いながらも動揺し、支度もままならない母を手伝って、私は荷物をまとめた。
十年前、数カ月の別居生活の末に母と離婚した父にはすでに新しい家族があったので、母と私は二人だけで伯父の住む地方の小さな町へ向かった。出がけに低く垂れ込めていた雲は色を次第に濃く翳らせて、今にも泣き出さんばかりに遠くで低く唸っている。
「降られなきゃいいけど」
母は背を丸めて座席に腰掛けた。そして小さくため息をついて、兄さんの悪あがきに聴こえるよ、と言った。
伯父という人は無類の博打好きで、その博才は自他ともに認めるほどだったが、何せやることが派手だった。チンピラ相手に大勝ちした翌晩に闇討ちにあったり、外国の賭博場へ出かけ、儲けた金を元手にそのまま現地で商売を始めるような豪放磊落ぶりを、周囲は羨望と嫉妬、時に軽視するような表情で噂した。そうかと思えば、玩具のピストルを交番の机の上に置き、巡回から戻ったおまわりさんが仰天するのを見て喜ぶ、そんな子供じみたところもあって、近所の男の子たちからは人気があったらしい。
母と父の仲がうまくいかなくなり、別居だ離婚だという話を聞きつけるやいなや、父に「果たし状」なる手紙を送りつけてきたこともある。文語まじりの文章だったため何が書いてあるのかいまひとつ分からず、父も母も困っていたのを憶えている。
そんな豪傑ぶりも最近では影を潜め、今は胸を患い床に臥していると聞く。東京から新幹線で二時間近くも西進し、そこから私鉄でさらに一時間。そんな田舎町は伯父には似合わない、と言うと、兄さんも歳だからね、と母は力なく笑った。今月末には母ももう還暦を迎える。元気なうちに一度くらい母を旅行に連れて行こうと、その口元のしわを見て思った。
両親と祖父母、そして兄妹は女五人男二人の大所帯で育った伯父と母は、兄妹の一番上と一番下という関係で、歳はひと回り以上離れている。早くに両親を亡くしてからは、長子である伯父が一家の面倒をみていたそうだ。幼い頃にともに遊んだ記憶のない長兄を、母は遠慮がちに慕っていたという。
兄妹たちも皆独立し、家に残ったのは伯父と母だけになったある日、成人のお祝いだと言って、伯父が三万円入りの茶封筒を持ってきた。三万円といえば、当時の勤め人の月給かそれ以上の大金である。何日か経ち、もらったお金で帯留めでも新調しようかと箪笥を開けてみると、入っているはずの着物がない。亡くなった母親や姉たちの持ち物の中でいっとう美しい、大和撫子の花の織りの入ったものだったそうだ。姉たちが「これはやっちゃんに似合うよ」と言って、母に残しておいてくれたものである。急いで姉たちに電話をしてみたが、彼らは皆目見当がつかないと口を揃える。押し入れから納戸から、思いつくところはすべて探したのだったが、それはどこからも見つからない。そればかりか、翡翠の帯留めも両親の形見も金目の物すべてがなくなっているが分かり、泥棒ではないかと一同慌てた。次兄に連絡をしてみると、そりゃ兄貴だな、と頓狂なことを言う。お祝いに三万円もの大金をくれる人が金に困ってなどいるものか、と母が反論すると、なおのこと怪しいと返された。
「大方、先物にでもやられたのさ。お前にはさすがに悪いと思ったんだろう。ひょっとしたら家だってあぶないぞ」
それから間もなくして、次兄の言う通り、家は本当に人手に渡ったのだったが、運良く縁談がまとまっていたので母は難を逃れたのだった。
「兄さんだって、最初はちょっと儲けて驚かそうってくらいのもんだったんだよ。おいたの好きな人だから」
「でも悪戯で家取られちゃうなんてかなわないね」
まったくだね、と目を細めて答えたが、車窓を眺める母の目は明らかに赤く、私はもう伯父の話はしないようにつとめた。
駅に降りるとやはり銀鼠色の雨雲が低く垂れ込め、遠雷が聴こえていた。私が何気なく、こんなに遠くまで来たのに、とつぶやくと、母は、伯父に追い立てられて来たみたいだと言った。
「天気は西から変わるんじゃないの」
「あの人に限ってはそんなのおかまいなしよ」
そして母は空を見上げながら、「ってことはまだ死んじゃいないってことだ」、そうひとりごちて歩き出した。
降られぬうちにと急いで向かった伯父の家には、すでに伯母たちが来ていた。それを見ていよいよ伯父の最期を実感してか、母は顔を強ばらせている。三和土を上がり、兄さんやっちゃんと里美ちゃんが来てくれたよ、と大声で口々に言う伯母たちに促されて部屋に入ると、そこには思ってもいなかった光景が広がっていた。
部屋の中には、危篤であるはずの伯父があぐらをかき、大口を開けてカラカラと笑っていたのだ。
「俺はやっちゃんがまた嫁に行くまでは死なねえよ」
その奥歯に光る金歯を、母も私も口をあんぐり開けたまま呆然と見ていた。
「兄さんがね、久しく会ってないからって」
「で、あたしたちも片棒担がされたのよ」
「良雄兄さんはつきあっちゃいられないって、後から来るみたいよ」
母はバッグを持ったままへなへなと座りこんで号泣するばかりだった。欄間の下には「やっちゃんの還暦を祝う会」と書いた垂れ幕が下がっていた。
肝を冷やしたとふくれる母を囲んで始まった乾杯の席。兄妹たちの間で満足気に笑う伯父の横で、ようやく落ち着いた母は娘のように見えた。まだまだ若いぞ嫁にも行けるぞ、とからかわれている。
縁側に出ると、不安げだった空は、雲間からうっすら光が射していた。母を急かした遠雷ももう聴こえない。
「兄さんの悪戯だってのは分かってたんだけどねぇ」
いつの間にか母は私の傍らに立ち、空を見上げている。薄暮の光りに照らされた母の背中には、伯父の仕業だろう『値下げお買得』と書かれたシールが貼ってあるのだった。
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