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第19話
キヨさんと柴犬

中元彩紀子

 筋向かいにある米屋のキヨおばあちゃんは、店先の椅子にいつでもちんまり腰掛けている。古いカセットデッキを近くに置いて、ショパンを聴いている。彼女のお気に入りは「華麗なる大円舞曲」と「マズルカ」だ。軽快なリズムに合わせて見えない指揮棒を振るおばあちゃんの傍らには、老いた柴犬の「ショパン」が物憂気な目つきで伏せている。時々、近所の子供たちが頭を撫でることがあるけれど、ショパンは面倒くさそうな顔でじゃれもせず伏せたままだ。時折、おばあちゃんが誰にでもなく何かつぶやくと、ショパンはゆっくりと首を持ち上げ、彼女を見上げる。見上げて、しばしおばあちゃんの見る方向を眺め、そしてまた前足に顎をのせる。
  色の白さを際立たせる紺の夏絣(かすり)に、煙管(キセル)をくゆらすおばあちゃんは、妙に艶めいており、もうじき米寿を迎えるとはとても思えない。象牙色の帯からは一斤染めの帯揚げがのぞいている。紅花で染めた薄い桃色のような一斤染めは、高位の公家にしか許されない禁色だったのだと彼女は誇らし気に話していた。
  うちの父などは、老いてまだなお気位の高い娘子のようだと揶揄し、父の同輩である近所の小父さんたちは「山椒は小粒でぴりりと辛い」などと言っては笑った。実際、おばあちゃんは私の鳩尾(みぞおち)くらいの背丈しかない。人柄は、三日月のような穏やかな目の印象からは程遠く、頭はきれるが口が悪い。まったく言い得て妙である。父たちは皆、彼女に叱られて育った口だ。ふとん屋などはもう還暦だというのに、いまだに「他所の柿の木登るじゃないよっ」と釘をさされている。近所の柿を失敬しようとして高枝から落ち、泡を吹いているところをおばあちゃんにおぶわれて病院まで連れて行かれ、すんでのところで命拾いしたのだそうだ。五十年前の話である。
  「それにあの犬」
  いつだったか父が話していた。
  「あの柴犬な、俺が子供の頃からいるんだよ。っていっても、途中なん度か見なくなったし、何十年も生きるわけないんだから代は代わってるんだろうけど、どうみても同じ犬にしか見えないんだよなぁ」
  名前はいつでも「ショパン」なのだという。
  「俺がのどに飴詰まらせたときも、あいつは近くにいたんだ」
  それは昔母からも聞いたことがある。飴をつまらせて真っ青になっている父を囲んで、祖母や近所の人がおろおろしていた。そこへキヨおばあちゃんが飛んできて、すぐさま父の足を持って逆さにし、背中をドンドンと叩き始めた。するとじきに、口からポンと飴が飛び出したんだそうだ。
  「見てやしないのに、なんでかいつも俺らのことがばあさんに知れてるんだよ。だからあの犬がばあさんにチクってるんだってよく噂したもんだよ」
  父は笑ってそう言ったが、私はひょっとしたら、と思ってしまう。

 父や小父さんたちは皆、おばあちゃんに弱味を握られているため、彼女の前を通る時は一様にそそくさと通り過ぎたが、私はおばあちゃんの話を聞くのが大好きだ。彼女の昔話は、話している最中にいきなり軍歌を歌いだすうちの祖父のそれより数段楽しかった。
  おばあちゃんは三男を戦争で亡くしている。うちの父が言うには、爆撃や火の中を子供らと無我夢中で逃げ回っている時のこと。おばあちゃんがふと振り返ると、握っていたのは息子の小さな手だけで肩から先がなかったのだそうだ。でも、おばあちゃんがしてくれるお話は、そういう悲しいお話じゃなくて、専ら近所の小父さんたちの子供の頃のことか、亡くなったおじいちゃんのことだった。

 その日、おばあちゃんはかねてから懇意にしていた青年に求婚されることを確信しており、頬がほころぶのを抑えていそいそと出かけたんだそうだ。青年とは、亡くなった旦那さんのこと。当時は男が女と仲良く並んで歩いていれば、何を言われるか分からない時代である。青年は黙ってつかつかとおばあちゃんの数歩先を行くのだったが、その日、彼が腰からぶら下げていた手ぬぐいは鼻がもげるくらい汗臭かった。だから離れて歩かねばならないのは、地獄に仏だったという。ようやく池の畔まできて、腰掛けましょう、と青年。黙って頷いた娘の鼻先についと差し出されたのは件の手ぬぐいである。おばあちゃんは「あのときは臭くて臭くてひっくり返るかと思ったよ」と言い、今でも憶えているというその手ぬぐいの矢柄模様を書いてみせてくれた。
  それからあとは、緊張しているからか昔の男だからか、口をつぐんだままうんともすんとも言わない。臭い手ぬぐいで汗をふきながら、じっと前を見据えている青年と、「どうか男さんの方からだけは、風よ、吹いてくれるな」と願う若い娘。と、そのとき、おばあちゃんの前を一匹の犬が通りかかった。求婚どころか、何ひとつしゃべらない青年に退屈し始めた娘にとっては、渡りに舟である。足下の犬を撫でたり観察していると、ようやく「キヨさん」と青年は口を開いた。いよいよかと思い、身を堅くしたおばあちゃんに、青年が、「僕と一緒に、」と言いかけたときだった。
  「しゃあしゃあ音がしたんだよ。足元がぬるうくなって、見たらどうだい。犬公が片足上げてたんだよ」
  そう言うと、おばあちゃんは煙管をひと吸いした。
  ふいの出来事に出ばなを挫かれて、青年はまた黙ってしまったそうだ。それでもおばあちゃんは嬉しくて、下駄と着物の裾を犬のおしっこで濡らしたまま、はい、と応えたという。そのとき履いていた草履の鼻緒は、おばあちゃんの大好きな一斤染めだったそうだ。
  「それをあの人は、こともあろうにあの手ぬぐいで拭ったんだよ。あたしゃまたひっくり返るかと思ったよ」
  おばあちゃんは大袈裟に眉をひそめてから、ころころと笑うのだった。
  これがほんとのくさい仲、と言っておばあちゃんはショパンを撫でる。ショパンが面倒くさそうに首を持ち上げる。
  「考えてみりゃ、あれだね。この子のおかげであたしゃ幸せなのさ」
  新しい煙草の葉を揉みながら、おばあちゃんは目を細めている。
  「あんたね、つれあいを持つときはね、そのいっとう幸せなとき、そばにあったものを忘れちゃならないよ。そういうものは一生、役に立ってくれるからねぇ」
  「おばあちゃん」
  「はいな」
  「そのときの犬って、ショパンじゃないよね」
  おばあちゃんは煙管に葉をていねいに詰め、ちらりと私を見やると、ふっふっ、と笑った。
  「さて、どうだかね」
  余計なことを聞きなさんな、とでも言いたげな目でショパンが私を見上げた。
 
  今日も店先にはショパンのワルツが流れている。のんびり煙管をくゆらせるキヨおばあちゃんの傍らで、ショパンが眠そうに目をしばたいている。



 
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