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第21話
雨の日時計(最終話)
中元彩紀子 |
その珈琲店は、繁華街の裏手にある路地を入ったところにあった。大型アミューズメント施設の裏手にあたるその路地には他に店は見当たらない。四角い小さな小さな看板がかろうじてそこに店があるのを示しているだけの、ふだんは誰にも見向きされないような通りだった。陽が当たらないからか、通りは全体が薄暗く、一歩足を踏み入れるとそれまでとは明らかに違う空気が私を包む。
私はあまりに妖しい佇まいのその店を眺め、しばし考えた。ここが乙彦の言っていた店なのだろうか。外階段を上がり奥へ進むと、木製の無骨なドアが右手に見える。まるで、来客を拒むかのような重厚な扉には、貼り紙がしてある。十二歳未満のお子さまお断り。携帯電話お断り。大きな声で話すべからず。守れる方のみどうぞ。
乙彦の言う通りだとすれば、この店を見つけることが出来た私は幸運なのだろう、何せ、ここは乙彦曰く、「来るべき人が呼ばれる場所」なのだそうだから。私はハンドバッグの上にそっと手を置いてひと呼吸したあと、その重いドアを開けた。
乙彦と知り合ったのは、インターネットで様々なサイトを彷徨っていたときだった。私はその頃本当に途方に暮れていた。
籍も入れずに八年間も一緒に暮らしていた男は、いつか一緒になる日のためにと、私がコツコツためていた預金のほとんどを、知らぬ間に引き出していた。男の本音と同時に、やはり知らぬ間に男が無職になっていたことも知った。私は涙も出ず、ただただ唖然とするばかりだった。一体、自分に何が起きたのだろうと、そればかり考えた。惚けたような状態は一週間後、女から電話が来るまで続いた。半年前に貸した金を返してくれと伝えて欲しい。女はそれだけ言うと電話を切った。どこからか帰ってきた男にそれを伝えるとき、笑ってしまうほど吃っていたのを憶えている。それから私は狂ったように泣き、時々笑い出し、黙り込む男にあらゆる物を投げつけた。そして同棲していたアパートをどちらが出て行くかでもめ、結局、男は郷里へ帰って行った。
大学を出てからすぐ一緒に生活し始めた部屋は、至る所にその長い年月の徴を遺し、私を日々苦しめた。
一昨年の夏に思いがけず妊娠し、じきに流産すると、用意しておいた婚姻届けは男の手によってそのまま箪笥にしまいこまれた。ミュージシャンとして自活することを目標にしていた男は、バーテンや配送の仕事を掛け持ちでこなしていた。いっこうに芽が出ないことを嘆くでもなく、私達はお気楽に過ごしていたが、やはりあの流産のときから、私達は少しずつおかしくなり始めていた。それまで以上に刹那的に生き、先のことには蓋をしていた。男はどこからか胡散臭い葉っぱを調達してきているようだったし、私は私で勤め先である進学塾の数学科の専任になったばかりで忙しく、帰りはいつも深夜をまわっていた。
今思えば、私達は玉乗りのピエロだった。降りれば済むことなのに、現実という地に直面することを避けていた。互いに手を伸ばせば落下してしまう。だから私達は笑い顔を貼付けて互いに触れることなくせっせと足元の玉を転がしていた。
玉から地面へ叩きつけられ、私は私達がどんなに一緒にいてもどうにもならないことを、本当はとうに知っていたことに気づいた。後悔と虚無感とアルコールに支配される日々の中で、私の頭が唯一醒めていたのが、インターネットの中を彷徨っているときだった。「自殺の方法」で検索をすると一万件以上のヒットがあった。陰鬱極まりないサイトの群れの中に、乙彦を発見したのは、そんなときだった。
乙彦は日々の雑事や思索を、感情を交えず恬淡とした文章で綴っていた。時折、彼は自殺が不毛な行為であることを、それに魅了される心理洞察を論理的に語ることで結論づける文章を書いた。自殺抑止を目的としているわけでもなく、良識人の偽善的な批判でもなかったから、私は腹を立てることもなく流し読みしていたが、自殺志願者によるケンカをふっかけるような書き込みもあった。乙彦はそれを削除することもなく放っておいた。日記にはデカルトだのニーチェだの存在の美だのと、およそ私には縁のない人の言葉や哲学が出てきたが、私は彼のサイトから流れる、彼が自分で録音したという様々な雨の音を聴いているのが好きだった。それを私は自分が流している涙であるかのように錯覚することもあったが、決して憂鬱な気分にはならなかった。
私が彼にメールを出したのは、先週の日記に書かれていた「四葉のクローバーの種」に興味を持ったからだった。それは、葉の形がよく似ているオキザリスではなく、本物の白詰め草の種らしいとあった。今思えば、私は本当に何かのきっかけが欲しかったのかもしれない。四葉のクローバーにしかならないという白詰め草の種を、私は欲しいと思った。
どこで入手できるのか尋ねると、返事はすぐにきた。
『僕がその種を見たのは、老婆が経営する「雨の日時計」という喫茶店です。そこには、いろんな物が置いてあります。誰がどういう経緯で運んだのかは分からない“いわくつき”の物です。詳しく書いてしまうと楽しみが減ってしまいますから、ここではあまりしゃべりませんよ。でも、そこは来るべき人が呼ばれる場所なのだ、と老婆は言っていました。少々怪しい感じですが、雰囲気のいい静かなお店で、珈琲は別格ですよ。ちょっと分かりにくい場所ですが、あなたが行くべき人ならきっと見つかるでしょう。』
ひんやりと冷たい真鍮のノブを回すと、そこはやはり普通の喫茶店とは随分と赴きが異なっていた。入った時には気づかなかったが、その店には窓がないうえに灯りが乏しく、音楽も流れていなかった。ぐるりを見回すと、カウンターの奥にちんまりと腰掛けた老婆がこちらを見ている。手だけで、お好きなところへどうぞ、と示され、私は軽く会釈をして向かい側のテーブルに腰をおろした。これで蝋燭でも灯っていたら魔女の館だな、と思いながらメニューを眺めていると、不意に声をかけられ肝を冷した。
「裏もごらんなさいよ」
他に客の姿は見当たらないので、私に言っていることは明らかだった。客に向かって「ごらんなさい」とは変わっている。居心地の悪い感じもしたが、とりあえずマンデリンを注文した。それは一分もしないうちに運ばれてきた。あまりに早いので私が訝しんでいると、そうじゃないかと思ってたのよね、と彼女は言った。
「そうじゃないかって、」
「マンデリンじゃないかと思って、挽いておいたのさ」
無数の皺を寄せてくしゃっと笑うその顔は、本当に魔女に見えた。
「音は何がいい、」
「音って、」
「静かだと居心地が悪いって顔してるよ。何でもあるよ」
「何でもいいですけど、」
「何でも、か。何でもいいんじゃ、どうでもいいものしか与えられないよ。さ、何がいいか言ってごらんよ」
そう言われてもすぐには思い浮かばない。私はもう随分音楽など聴いていなかった。日本語の歌は歌詞に敏感に反応して精神のバランスが均衡を失ってしまい兼ねないので避けていたし、洋楽のCDは男が出て行く時にほとんど持っていってしまっていた。それに何より、音楽はそのまま彼につながるものだった。
「なにも音楽じゃなくてもいいんだよ。音って言ったろ、」
しばらく考えて、雨の音、と言うと、彼女は頷いて、再びカウンターの中へ入っていった。あるのか、と思って驚いていると、じきに店内には静かな雨音が流れだした。
老婆が一分で煎れてきたマンデリンは、乙彦の言う通り格別だった。酸味がなく深みのある苦さが喉に残らずにすっと入ってゆく。
「それより裏は見たのかい、」
再び声をかけられて、慌ててメニューの裏を見ると、そこにはおよそ喫茶店らしからぬ言葉が手書きで書いてあった。
眠る螢石、ハネダケタマムシ、酔芙蓉の手鏡、亀のアマティウロ、雪のレプリカ、ヤドカリ夫婦、恋する口紅、幸運の黄揚羽、天井裏の薄青瑪瑙、雨の日時計…。最後にあったのが、四葉の種だった。
「これって、売ってるんですか、」
私は思わず立ち上がり、カウンターへ移動した。手許の本に目を落としていた老婆は、老眼鏡を外して顔を上げた。
「売る時もあるし、売らない時もあるね」
悪戯そうな顔をして、老婆は上目遣いでこちらを見て言う。
四葉のクローバーを欲しがるのが、なんだか感傷的で恥ずかしくなり、私はメニューをただ黙って見ていた。すると、彼女は、うん、とせき払いをし、どれどれ、と言って私からメニューを取り上げた。
「たとえばこのアマティウロっていうのはね…」
そこまで言って、彼女は不意に黙りこんだ。しばらくして、ああそうだ思い出した、と言って語りだした話は、まるで童話のあらすじだった。それから彼女は、眠りから醒めた螢石の話や黄揚羽の妖精のこと、天井裏に住む瑪瑙、ヤドカリの使命、天から降る手紙の話などをしてくれた。どれも妖しくて不思議な話だったが、その物たちがみな御利益つきであるところをみると、大方、フリマに出しそびれたがらくたを売るための作り話なのだろう。十分に胡散臭いのだったが、ゆっくりとした老婆のしゃがれ声を聞いていると、まるでそれらが本当のことのように思えてくるから奇妙だった。
「その亀を売って欲しいって言ったら、」
「アマティウロかい。彼じゃちょっと案配が悪いね。こないだからまた旅に出ちゃったんだよ。それにあんたの住んでるとこは、動物飼っちゃいけないんじゃないの、」
したり顔でそう言う彼女に、私は思わず笑ってしまったが、彼女は少しむっとして、本当さ、と言った。
「たとえば、この雨の日時計」
老婆はカウンターの一番端に置かれた円柱の石を指した。
「これがないとあたしはちょっと困ったことになる。だから、これも今はまだ売れないね」
「困ったことって、」
「あんた、あたしを婆さんだと思ってるだろ。でも本当は“すごい”婆さんなんだよ」
意味が分からず首を傾げていると、老婆はふっふっと笑って、もう百年近くも婆さんをやってるってこと、と言った。からかわれていると思い、今度は私がむっとする番だった。
「雨の日時計っておかしな言葉ですよね。陽が出てなきゃ意味がないのに」
「逆だよ。時間を止めるためにあるのさ。だからこの店には時間が流れていない。そして止めたい人や止まってしまった人しかやって来ないの。あたしがこの世に暇をつげたくなったら、きっと持つべき人がやって来る」
あまりに真面目にそう言うので、私は神妙な顔でそれを聞いていた。店の中は雨の音で満ちている。そして少しの沈黙のあと、老婆はカウンターの中の抽き出しを開けた。
「これはね、四葉しか出ない白詰め草の種だよ」
私は心を見透かされたようで、どきりとした。
「失恋して崖に立った女の人がいたんだよ。その女がていねいに靴を揃えて、今まさに飛び込もうとしたときにね、足下の草が伸びて、女の足をからめとった。何せ、茎は地の中を這って長く伸びる植物だからね。人の足をからめとるなんざ、造作もないことよ。その日はちょうど夏至の前夜だったのさ。海の向こうじゃ夏至前夜につんだ四葉は魔力を生じるって言い伝えがある。四葉に助けられた女の話だよ。ところで、四葉の花言葉を知ってるかい、」
「確か、幸運、じゃなかったかしら。ちがいますか、」
「そう。『幸運』。三枚の葉はそれぞれ、希望、信仰、愛情を表している。そして幸運を表すのは四枚目の葉なんだよ。でもね、四葉の花言葉には他にもあるんだよ」
「なんですか」
「ひとつは『約束』。だから、あんたがこれを持ってゆくなら、この店のことは他言しないと約束すること。それともうひとつは『復讐』」
「復讐、」
あまりにそぐわないその言葉に、私は戸惑った。
「そう。でも勘違いしちゃだめだよ。あんたが生き直すことが復讐になるのさ。ちゃんと選んで来なかったかつての自分への復讐。あんたを傷けた男なんぞさっさと忘れちまうことだね。この世は舞台なのさ。出番が終わったから去っていった。ただそれだけのこと。ちょうどいいタイミングで、ちょうどいいことが起きて、あんたは今ここにいるんだよ。人生はそのくり返し。偶然なんかないの」
そうだった。私は、ちゃんと選んでこなかったかつての自分を許せずにいたのだ。
「どうして私のことが分かるんですか、」
「百年も婆さんやってれば何でも分かっちゃうの。泣くのはかんべんしとくれよ。これが欲しくて来たんだろ、あんたは」
私が、お幾らですか、と尋ねると、彼女は自分でお決め、と言った。私が一万円を差し出すと笑い出し、「珈琲のお代は別だよ」と言って、九千円のおつりをくれた。
ベランダのプランターに落とした四葉の種。雨の日時計の老婆の話が本当なら、じきに四葉でいっぱいになるはずだ。乙彦は、妖しいと言いながらも、もし本当だったら少し分けてくれませんか、と言ってきた。その時は雨の日時計で珈琲をごちそうします、と付け加えてあるのを読んで、私はベランダに出た。予報では午后から雨が降るといっていたが、空は高く澄みきっていた。
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