そんな少年時代から二十数年……。
大学を卒業しサラリーマンになったオレは、毎朝電車に乗って会社にいき、家に帰ってくるという生活を送っている。
会社は、業界で四、五番手という旅行代理店だ。旅が好きだから選んだ仕事なのだが、勤めはじめて一年も経たないうちに理想は崩れてしまった。商品として売る旅は、ザックを背負った貧乏旅行とは正反対のものだった。
もともと人と競争するのが好きじゃないし、効率とか計算も苦手。マイペース、スローペース、のんびり屋、いろいろ呼ばれてきた。
いつだったか、同僚がこう言ったことがある。
「オレたちは、会社にとってみりゃ盲腸みたいなもんさ。あっても害はないけど、いつでも切除できるんだ」
そこまでは思わないけれど、旅行市場の調査や、パンフレットの構成くらいじゃ、たいして役に立ってない、という自覚はあった。
このままでいいのだろうか? この数ヶ月、通勤電車に乗るたび悩んでいた。
三十五歳をすぎて森に入ると、それまで見えなかったいろいろなものが見えてくるものだ、と、ある作家がエッセイに書いていた。じつは、これは人間社会という森にもあてはまる名言だったようだ。三十五歳をすぎて求人情報誌を眺めると、自分の社会的な立場が非常によく見えてくる。
なにか資格でもあれば、可能性も広がると思うのだが……。
だが、人生の転機は思わぬときに訪れる。
大倉からの電話がすべてのはじまりだった。
「翔平、別荘地の管理人やりたいって言ってたろ」
東京を離れて田舎暮らしでもしようか、と思っていたころ、大倉にそんな相談をしたことがあった。
小中学校と同級生だった大倉は、家族経営の不動産屋三代目。地元に根ざしたファミリー・ビジネスと本人は言うが、オレの印象では近所の評判はあまりいいほうではない。
「管理人の口、あったのか?」
「まあな」
別荘地の住み込み管理人なら家賃もかからない。それにシーズンオフは暇だろうから、動物や野鳥の観察もできる……そういう安易な考えだった。
「どこだ?」
「別荘地じゃないんだけどさ」
「マンションの管理人だなんて言うなよ」
「翔平、自然学校の指導員の資格持ってたよな」
「あれは、体験合宿に参加しただけで誰でもとれるんだ。ガイド経験もなにもない初級ってやつさ」
「それでいい。関係者への説得材料になる」
オレにも役立つ資格がひとつだけあったのだった。
指導員養成の合宿に参加したのは二年まえ。名簿に登録しておけば、自然観察ウォーキングやトレッキングなどのガイドの仕事がくるというので、興味本位でとった資格だ。
でも実際にガイドをやったことはないし、やる自信もない。一度だけ、イベントのボランティア・ガイドという依頼がきたけれど、休暇がとれずに参加できなかった。
つまり、ただのペーパー・ガイドってことだ。
「どうせなら渓流釣りができるところがいいけど……どこなんだ?」
その気になってオレが聞くと、大倉がそっけなく答えた。
「目黒」
しばらく言葉がでなかった。
大倉が話をつづけた。
「翔平もオレも、よく知ってる森だよ」
「まさか……」
「そう、あそこ」
オレたちが『オババの森』と呼んでいたところだ。
目黒の住宅地のなかにあって、夏でもひんやりと暗い森。広さは三千坪近いと聞いている。二十メートル級の木もあって、昆虫、野鳥、小動物の宝庫だった。
正確に言えば、森ではなく雑木林だろう。でもオレたちは森と呼んでいた。
「オババは?」
「ツネさんな、五年まえに脳溢血で倒れて入院したままだ」
大倉が神妙な声で言った。
オババの名は川上ツネ。子どももなく、あの広大な森にずっとひとりで住んでいた。
「いくつになる?」
「八十七歳のはずだけど、昔の人だから数え歳かもね」
オレたちが、森で最後に遊んだのが二十五年まえ。考えてみれば、そのころオババは六十歳そこそこだ。あのオババが、そんなに若かったことに、あらためて驚いた。
「でもオレたちは、オババの天敵だぞ」
「鎌を持って追っかけてきたもんな」
「あれは、こわかったなあ」
「オババじゃなくて、鬼ババだ」
「いや山姥だろ」
「確かに妖怪っぽい」
ふたりで、しばらく笑いあった。
オババの眼を盗んで森へ侵入することは、オレたち少年にとってわくわくドキドキの探検だったのだ。担任の教師に怒られたり、警官に注意されたり。それもいまは愉しい思い出になっている。
「あの森の管理人か」
「五年もほったらかしだから、すっかり荒れちゃってな。空き缶や自転車やテレビまで捨てられてるんだ。この間、近くで放火騒ぎがあったから近所の人が不安がって、警察やうちの会社に苦情が殺到したんだよ」
「だったら警備会社にたのめばいいじゃないか」
「警備会社は森や家の手入れはしてくれない。ほかに植木屋と掃除のおばさんまで雇ったら大変な経費だ。だから、誰か住んでくれる人を探そうってことになったわけさ」
「それで、オレか?」
「ぴったりだろ。いまの仕事をつづけたままでもいいぞ。あそこに住んで、暇なときに木や家の手入れをやってくれれば、少額だけど管理人の報酬を払える。とにかく今度の週末に現地にいってみないか。結論はそれからだ」
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