二月某日、オレと大倉は『オババの森』のまえで会った。
「昔のままだ」
東京の大規模な私有地は、相続税問題などで年々減っている。
屋敷があった土地にミニ住宅が建ち並び、街の景色はどんどん変わっていく。そんな時代に、この大きな森がよく残ったものだ。
オレの家も(借家だったけど)いろいろあって、高校生のころに引越した。いま両親は藤沢に移り、オレは菊名に部屋を借りている。
「奇蹟だな」
高級マンションの建ち並ぶエリアで『オババの森』はいまも健在だった。
表はビルの建設現場にあるような高いフェンス、裏手は金網で仕切られているが、そこから空へと木々がそびえ、梢が風に揺れていた。
「ずいぶん厳重に囲ってあるな」
オレたちが子どものころは、木や竹の粗末な柵だった。
「いまは悪ガキはいないけど、ホームレスや不良グループや変質者が入り込むんだよ。ゴミの不法投棄も多い。だからこんなふうになっちゃったのさ」
フェンスに貼られたパネルには『大倉不動産』の名が記され、管理責任者として大倉智道とあった。
「おまえのおやじか」
「ツネさんの親戚筋にあたる川上一族の不動産を担当してるからさ」
「オレたちのいたずらが、学校のほうからおまえの親父に伝わって、ひどく怒られたことがあったよな」
「ああ、あったあった。川上家の不動産は、うちにとって大きな仕事になってるから、心象を悪くしたくなかったんだろ。だから今回もいろいろ協力してるってわけさ」
大倉が出入口の扉に掛かった錠前を外した。
「まるで砦だ」
大きな扉が鈍い音をたてて開く。
枝にとまっていたシジュウカラが、あわてて森の奥へ飛んでいった。
冬、葉を落とした木々も多いというのに、森のなかはうす暗かった。高々とモミがそびえ、シイ、カシといった常緑樹がうっそうと葉を繁らせている。
森に関しては、当時からいろいろな噂があった。
白蛇が棲んでる、幽霊がでる、座敷わらしを見た……あげたらきりがないほどだ。いまも異空間であることはまちがいない。
S字に曲がる小道を歩いていくと、だんだん記憶がよみがえってきた。木々の陰影や匂いまで身体が憶えているようだ。
「ウメだ」
赤いウメの花に木洩れ陽がそそいでいる。オババが大事にしていたウメだ。花の咲いた小枝を折って、えらく怒られたっけ。
その先に物置小屋と井戸、さらに奥に家がある。
家のまえでオレは立ちつくした。
「ひどい」
家は荒れ果てていた。
屋根は半分落ち、壁もはがれている。廃屋だ。
「ちょっと手入れしないとな」
オレの顔色をうかがいながら大倉がニヤリと笑った。
それは、ゲームや遊びでズルをするときの大倉の癖だった。
小学校のころにすでにボロ家だったのだから、当然建て直したものと思っていた。
「ここに住めっていうのか?」
「懐かしいだろ」
「傾いてるぞ」
「そうかな」
オレは大倉の腕をつかんで、ひしゃげた玄関から家のなかへ入った。
入ったところが土間、奥が座敷だが、いたるところ腐った枯葉が積もり、落ちた天井の残骸が散り、残された家具は埃まみれになっていた。
住むためには、大がかりな改修工事が必要だ。とても素人では無理だろう。
「おまえがここに住んで管理したらどうだ」
オレは外へでた。
「そう言うなよ、翔平」
大倉が、小学生のときと同じように声をかけてくる。
大倉を無視して、オレは森の奥へ向かった。
裏手の一角は、オレたちがよく侵入していた場所だ。
昔は生垣があって、その間からくぐり抜けたのだが、いまはブロック塀と金網のフェンスに変わっている。
それでもフェンスの手前のケヤキの幹には、思い出が印されていた。小学三年生から六年生まで、仲間三人の身長を彫刻刀で刻んだ成長記録。ケヤキが成長したために、当時の刻み目は浅くなり、ずいぶん高くなっていたが、それはまちがいなく、オレと大倉と村石貫二のものだった。
貫二とはもう二十年以上、会ってない。
オレは、ケヤキにもたれて少年時代の思い出にふけった。
そのとき、
(おや?)
金網に細工がしてあることに気づいた。
巧妙にとりつくろっているが、一部が開閉できるようだ。しかも、その下のブロックには土がこびりついている。
(誰かが出入りしてる)
そう思ったら、好奇心がわいてくると同時に嫉妬心が芽生えてきた。
(いったい誰だ)
周囲をまわってみると、あちこちに侵入者らしき痕跡がある。
オレは、のたのたと歩いてくる大倉に問い質した。
「誰かがもう管理してるみたいじゃないか」
「え?」
「あれは?」
頭上の木々に鳥の巣箱がかかっている。
「知らないよ」
「さっきのウメの木は?」
「あの木がなにか?」
「枝の手入れがされてたようだし、まわりの高い木の枝が伐られていて、ちゃんと陽が射し込むようになってたぞ。おまえの親父がやったのか?」
「まさか。暇があればゴルフばかりで、そんな風流な趣味なんかない」
侵入者の足跡は、通路以外の木々の間にもついている。
踏み跡をたどっていくと、歩きやすいようにするためだろう、ところどころに枝を伐った跡がある。
と、前方に真っ赤なアオキの実が落ちていた。
「踏まれたばかりだよ」
オレは汁の滴る実を大倉に見せた。
「誰が?」
大倉も本当に知らないようだ。
侵入者の存在がはっきりしたのは、家の裏にまわったときだった。
「霜柱が踏まれてる」
「オレたちも、よく踏み潰して遊んだっけな」
「ああ、愉しかった」
「足跡が小さいぞ、ガキか?」
「かもな」
オレは勝手口から家に入った。
昔、ここからきんぴらごぼうや切干大根を煮るいい匂いが漂ってきて、空きっ腹が鳴ったことをはっきり憶えている。
「管理するんじゃなくて、子どもたちの遊び場に開放したらどうだ?」
オレが言うと、大倉が首をふった。
「もし事故でも起こったら、大変なことになる。それにこの家を解体するんだって金がかかる」
「おまえ、金のことばっかりだな。こういう地域の遺産をなんとか残していこうって志はないのか?」
「翔平が志を持って管理人をやればいいだろ」
ここにいれば、ちょっと幸せな気分に浸れることは確かだ。とりあえずテントを張って生活するのも悪くないかもしれない。せめてこの家がもう少しいい状態だったら、と、埃の積もった部屋を眺めた。
埃まみれの茶笥には、いまも急須や湯のみがあり、家のなかは、時間が止まったようにしんとしている。
オレの眼は茶箪笥の下部に釘づけになった。半開きになった引き戸の間からいくつかのボール箱が見える。そのなかから紺色のボール箱をとりだして埃をはらった。インスタント・コーヒーの詰め合わせ箱だ。
恐る恐る蓋を開けると、箱のなかには二十本ほどのピンが刺さっている。虫の残骸をそっとどけると、それぞれのピンについているデータ・ラベルの文字がはっきり見えた。
アオスジアゲハ、クロアゲハ、ミンミンゼミ、カミキリ類、昆虫標本のおよそ八割の採集地が『川上の森』と記されていた。学校へ提出した夏休みの宿題なので『オババの森』と書くわけにいかず、こう表記したのだった。
「それ、翔平の標本か」
大倉が覗き込んだ。
「卒業のときに、オレがオババに渡したんだよ」
「それをオババがずっと持ってたのか?」
「そうみたいだな」
標本を渡しにきたとき、オババは「ふん」と言って受けとって、羊羹をひと切れくれた。それだけだった。まさかこんなふうにとってあるなんて思いもしなかった。
ふいに涙があふれてきた。
胸が痛い。
オレは長い時間、標本箱を見つめたまま、立ちつくしていた。
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