プロローグ
クランウェル博士の
メダカ
中元彩紀子 |
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夕刻の光でオレンジ色に染まった部屋。西の窓に背中を向けて腰掛けているのがクランウェル博士だ。教授の部屋は、向かうものすべてがいつでもオレンジ色の光に塗れてしまい、たとえば本棚、机、イス、客用のソファなどは皆、一様に影そのもののように見えた。私は、ドアの近くに立ち、翌日のスケジュールのページをめくる。そして午後の理事長との会食のところまでを一気に読み上げた。机の向こう側にいる黒くなった博士がてっきり目覚めているものだとばかり思っていたが、彼はこの時、新しい方法で眠っていたのだった。
イスを机にぐっと近付け、その薄い隙間に自分の体を挟み、胸の前でしっかりと組んだ腕へ上半身を預けるという姿勢だった。これなら上体が机に覆いかぶさることなく、一見手許の資料に集中しているように見えるという寸法だ。
「考えましたね、博士」
私が声をかけると、彼はさもずっと起きていたよ、といった表情でこちらを見上げた。
「何のことだい、」
「それですよ。一体ぜんたい、どこまで起きていて、どこから眠っておられたのですか。それとも…」
「正午に薬を服用するのをお忘れなく、というところまでだったかな」
私はため息をつくのを悟られないように、スケジュールをそっと机上に置いた。
「ひと回りして来ますから、それまでに読んでおいて下さいよ」
そう言って、ドアのところで振り返ると、またもや博士は眠りにおちていた。
クランウェル博士は、突然眠ってしまうという特異な体質の持ち主だ。かといって本人はそれで悩んでいるわけでない。そういう病気もあるらしいが、博士のはそれとは少し違うようだ。少なくとも本人はそう信じている。
「眠いわけでもないのに突然眠ってしまうなどというけったいなものと一緒にはしないでくれたまえ」
これは病気ではなく一種の希有な精神状態であり、と続く。難しいことはよく分からない。どこか特別な場所へ行って、いろいろと調べものをしているらしいとだけ理解している。
たとえば、博士の部屋の中に一匹の虫が入って来たとする。これは実際にあったことだけれど、私はそれを目で追いかけ、手でつかまえようとし、博士はそれを制止する。
「だめだめ」
私がきょとんとしていると、博士は窓を開け、その虫──背中に綿毛を背負った小さな虫──を追い立てて逃がしてやるのだ。
「今のはなんていう虫なのですか、」
私がそう尋ねると、博士はしばらくその名前を思い出そうと首を捻る。やがて顔を上げ、一言、「雪虫だ」とつぶやくやいなや、すとんと眠りにおちる。眠っている時間が五分のときもあれば一時間に及ぶこともあり、私は博士が起きるまで、部屋の掃除をしたり、珈琲を煎れ直したりして待っている。
「トドノネオオワタムシ。油虫の一種、ということになっているらしいね」
いつの間にか目覚めた博士は窓の傍に立っていて、パイプに葉を詰めながら語りはじめる。
「彼らは冬や雪の到来を告げに来ているということだけれど、本当の目的は他にある。彼らは幻世からやってくる」
「まぼろよ、ですか」
「如何にも。幻世から生まれ出んとする数多の魂を乗せて、母胎を吟味しにやってきているということだ。これと思った人を見つけると、その肩にとまるのが習わしだそうだ。こちらから彼らに触れるなぞ不作法極まりないことなのだから、気をつけたまえよ」
こんな具合だ。博士は、眠りのあちら側からいろんな知識を得て帰ってくる。それがどんなに滑稽で、眉に唾をつけたくなるような話であっても、私は神妙に聞く。それが私の仕事のひとつでもあるのだった。
この特異な博士の体質以外に、私が博士について知っていることといえば、博士が左利きであるということと、こうして大学の敷地内で暮らしているらしいということ。そして、何の脈絡もなく突然眠りに落ちてしまうということくらいだ。ああ、それと。ニーチェだとかデカルトだとかエマソンと書かれた難しそうな書物が並ぶ本棚の隣に、古いピアノが置いてある。博士は時折弾いているらしい。西陽に照らされた鍵盤の表面の埃が、ところどころ指の形に光っている。
博士の部屋は、大学構内の西側に位置する雑木林の中にある。昨年の夏、この雑木林の案内人兼管理人および掃除婦として雇われた私を、博士が“秘書”として扱うようになったのは、仕事をはじめてすぐのことだった。
人影もまばらな真夏の学内で、教務課の前を通りかかった私を女性職員が呼び止めた。
「悪いんですけど、これ届けていただけませんかね。今朝お寄りしたらお留守だったみたいで。雑木林の西側の奥に住む風変わりなセンセイ、ご存知でしょ」
彼女は周囲を気にするようにこちらに身を寄せ、ささやくように早口で言った。渡されたのはビニールで梱包された何匹もの小さな魚だった。
「メダカですね、懐かしい」
私は思わずそう言ったけれど、彼女の言うセンセイというのがクランウェル博士のことだとは、この時はまだ知らないでいた。
「ふぅん、これメダカなの」
「パイプをくわえたお年寄りなら一度だけお見かけしたけど、あの方かしら…」
「そうそう、その人。西側の建物といったらあそこしかないからすぐ分かりますよ。変わってるけど怖い人じゃないから大丈夫。配達の人が分からなかったみたいで、こっちにまわってきちゃったの。お願いしますね」
彼女はそれだけ言うと、そそくさと部屋の奥へ入っていってしまった。
雑木林は、街なかにあるとは思えないくらい静かで、そして昼でも薄暗い。野鳥や昆虫も多く、清水が流れる遊歩道まであるのだけれど、陰鬱な雰囲気と主要な施設とは離れているために、人の気配はあまりない。この忘れ去られたような場所に職を得られたことは、私のように俗世に居心地の悪さを感じていながらも、そこから完全に逃れる勇気もない者にとっては幸運だったのかもしれない。たとえば生まれる前にどこかにいたのだとしたら、きっとこんな場所ではなかったか、と思えるような安穏とした場所。一日の大半をそんなところで過ごせることに、私は感謝しなければならなかった。見知らぬ女性から執拗にかかる電話、揉めに揉めた挙げ句の調停離婚、実家の両親の嘆き。私はほとほと疲れていた。
仕事といっても、野鳥の観察や調査に来る市の職員、カタクリやキツネノカミソリといった草花の写真を撮りに訪れる人を時折案内する他は、定時の巡回と掃除くらいのものだ。ひょっとしたら、そこに独りで暮らす御老体を大学側が気づかってのことかとも思うが、そもそも私のしていることが緑の中を散策する年寄りのそれと大差ないものだった。
少し傾いた板戸を開け、ドアをノックする。間もなくして開けられたドアの向こうには、でっぷりと太った老人が立っていた。白髪混じりのもじゃもじゃ頭に緑色のニット帽をちょこんと乗せている。口と顎の髭は真っ白で、これで赤い服でも着ていようものなら寝坊したサンタだ。
「さきほど教務課の方からお預かりしたのですが、これ」
包みを差し出した私に、博士は私が来ることが分ってでもいたかのように細かく頷き、それを受け取った。
「これがなんだかお分かりかね」
帰りかけた私に、博士が問いかける。
「メダカ、ですよね。黒メダカ…かしら」
そう言ったとたん、博士はにわかに相好を崩し、「如何にも」と頷いた。
「きみは何者なのかね、」
そう問われてはじめて名乗っていなかったことに気づいた私は、慌てて名前とここで掃除婦などをしていることを伝えた。
「それで、きみはここをどう感じるかね」
突然の質問に困惑しながらも、私は、こんな街なかなのに自然が豊富でけっこうな場所ですねだとか、そういう世辞めいたことを言ったのだと思う。
すると博士はかぶりを振る。
「場所のことを聞いてるんじゃないよ。きみがどう感じたかを尋ねたんだ。おそらくきみは、ここを鬱蒼とした陰気な場所だけれど、むしろそれが今の自分にはぴったりだし、ようやく安全地帯を確保できた、と感じているんじゃないかね。」
そのままを言い当てられて、その場に立ち尽くしていると、博士はにっこりと笑ってこう言った。
「じゃあきみは、掃除婦ではなく“ようやく安全地帯を見つけた人”だ」
これが私とクランウェル博士との出会いだった。
その後、再び博士の部屋を訪れたのは、その週の午後だったと思う。やはり教務課の職員からの頼まれ事で赴いたのだった。
「博士、こないだのメダカはどうなさったので、」
博士は真面目な顔をして答える。
「食べちゃった」
冗談と知りつつも、私は軽く目を見開いて、「美味しかったですか、」と尋ねる。
博士は左の手のひらを、水平に胸の辺りまで持ち上げ、ひらひらさせる。まあまあ、という意味だ。
そのうち博士からの伝言や届けものも私が済ませるようになり、今では誰もが、私のことを博士の秘書だと思っているようだった。
夕刻の巡回を終え、教務課へ寄り、再び博士の部屋のドアをノックすると、博士は目覚めていた。
「博士、メダカがまた届いてましたよ」
博士は「ほっほっ」と小さい歓声をあげると、それをサイドテーブルの上に設置されたガラスケースに移した。
「真冬なのにいるんですね、メダカ」
「これは養殖だよ。まあ、もっとも日本のメダカは耐寒性も持ちあわせているから越冬することもできるが、今や黒メダカはレッドデータブックの絶滅危惧二類に記載されておる。ここ五、六十年で農業用水路が灌漑用水路化し、コンクリートの水路や、パイプライン化が進んだ。メダカの住めるような小川や、池などはどんどんなくなってきている。かろうじて難を逃れた連中だけが、どこかでひっそりと暮らしているのだ」
まるでご自分のことのようですね、とも言えず適当に相槌をうつ。
「ところで、メダカはラテン語で“オリジアス・ラティペス”というんだけど、きみ、知ってた、」
かぶりを振る。
「水田に住むひれの大きな魚という意味だ」
と、ここで博士の首はかくんと下がる。帰るタイミングを逸した私は、仕方なく小さなキッチンで洗い物をはじめる。洗い終えると陽はとうに落ち、木枯らしで落ち葉が踊る音がさわさわと聴こえる。振り向くと、仄暗い部屋の隅でそこだけ灯りに照らされたサイドテーブルのメダカたちが目に眩しい。足音を立てぬよう近づき、しゃがんでしばらくそれを眺めていたら、ふいに博士が咳払いをした。目覚めたようだ。
「どうやら、彼らは別の場所から来たらしい」
ひっそりとした部屋の片隅で、背後から話しかける博士の声は、まるで私の頭の中へ直接響いてくるようだった。
「大昔、この星は今より少々大きな形をしていた。それがあるとき、大小に分かれた。数多いた彼らの先祖たちのうち、少数がその小さな星へ取り残されたんだ。この者たちはその子孫というわけだ」
「それって月から来たってことですか、」
「如何にも」
「でも博士。戻ってくるにも、間に空気も水もありませんよ」
「おや。きみ、なめくじを知ってるだろう。川のこちら側にいたなめくじは、向こう岸へ渡りたかった。しかしながら、彼らの歩みでは到底無理な話だ。そこで彼は祈った。そうしたらどうだ。気づいたらさっきまで眺めていた向こう岸にいるじゃないか。だからなめくじには足がない。あれは、ちょっと目を離しただけなのにとんでもなく遠くに移動していることがある。月のメダカたちも同様だ」
頭の中に響くクランウェル博士の声はだんだん小さくなってゆく。
「博士、思いが強ければ、願いが叶うということなら、私、信じられませんよ」
部屋はしんと静まり返っている。
「叶ったじゃないか。きみもどこか遠くからこの安全地帯へやって来たのだろう」
目の前を泳ぐメダカが、こちらの様子を伺うようにちらりと私を見た。 |