air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第1話

二千年も待っていた
木のお話

中元彩紀子

 仕事を終えて戻った部屋は、借りてもう三月にもなるというのに、まだどこかよそよそしい。その他人行儀な空気はドアノブからすでに漂っている。ひんやりと冷たく、静電気が指先にぴりりと走る。玄関に上がると、つけっぱなしのラジオの音がかすかに聴こえてきた。しゃべっているのは英語なまりの日本語をさらにデフォルメしたように話す男で、私は彼が何者なのかも何を言っているのかも分からない。いつも出がけに聴いている情報番組にチューナーを合わせたままでいるから、帰宅時にはいつもこの男の声に出迎えられるのが習慣になってしまった。バスタブに湯を入れ、扉を少し開けておくと、乾いた空気が徐々に湿り気を帯び、呼吸が楽になる。
 バッグをスツールに置き、ストーブに火を入れる。コートもマフラーも脱がないまま、しゃがんでじっと青い炎を見つめていると、やがてバスタブに湯が入ったことを知らせる電子音が鳴り響く。私はゆっくりと立ち上がり、着ていたものを一気に脱ぐのだ。脱いだものは床に落としたままでいい。夫と暮らしていた頃も、行くあてもなく結局実家へ戻ったときにも、自覚すらしていなかった自由の不在を思い出すのは、こういう瞬間だ。裸のままバスルームへ向かう自由。大きな傷とひきかえに得たささやかな開放感。

 風呂から出、素早く着替えてベッドにもぐり込むが、熱い湯につかったせいか、かえって目が冴えてしまう。こんなとき、クランウェル博士の体質をうらやましく思う。もっとも私には目下のところ、知るべき何かなどは思いつかないから、博士の行き先にはたどり着けないだろう。私はただ眠りたいだけなのだ。音量をしぼったラジオから、コルトレーンのバラッドが流れている。
 「──ああ、今夜は三日月なんですねー。残業中の方も、ちょっと手を休めて窓の外をのぞいてみては──…」
 ようやくうとうとしかけたところで、ラジオの声が邪魔をする。
 三日月。なつかしい名前。
 私たち姉妹にとっての遊び場は、もっぱら三日月さんのポケットのなかだった。

 通学路の近くにある竹林を抜けるのが神社への近道だった。すぐそばに防空壕や道祖神があり、負傷兵だか落ち武者だかの幽霊が出るという噂もあったから、神社を訪れるのは私と妹の鏡子と、そして三日月さんくらいだった。
 三日月というのは名前だったのか、それとも私たちがそう呼んでいただけなのかは思い出せないけれど、その男の人はいつも三日月のように目を細めてにこにこ笑っていた。三日月さんは、両脇に大きなポケットのついたカーキ色のジャケットを着ていた。その姿しか思い浮かばないところをみると、私たちがその人に会っていたのはたったひと冬だったのかもしれない。ズボンの裾からは、父と同じような肌色のズボン下が覗いていた。節くれだった長い指はあやとりには向かないらしく、私たちが鉄橋だの箒を作るのを、にこにこしながら眺めていた。
 三日月さんのポケットのなかには、いつもいろんな物が入っていた。手紙、石、ボタン、分度器、虫眼鏡、柱時計の針、外国の切手、ドロップ…。私たちは彼を挟んで左右に座り、わくわくしながらそっと手を入れる。ひとつだけ掴んで取り出した物が何であれ、私たちは目を輝かせたものだ。
 外国の切手なら、そこに描かれた人物の伝記を語って聞かせ、柱時計の長針と短針なら、話は相対性理論にまでおよんだ。もっとも私たちには理解が出来なかったけれど。電車の中と外とでは時間の流れ方が違うっていうような話だった気がする。落花生なら、種をまいてさやになるまでの過程や、花の色が黄色であることなんかを教えてくれた。二つに割れた豆の内側にちょこんとついている芽を指して、鏡子が「となりのタカシちゃんのちんちんみたい」と言ったときは、三日月さんはさんざん笑ったあと、「女の子がそんな言葉を言ったら駄目。お父ちゃんが泣くよ」と嗜めた。この頃、私たちにはすでに父はいなかったけれど、別段気にはとめなかった。そのあと、三日月さんは大人の握りこぶしくらいの大きさの鍋を焚き火にくべて、落花生のお菓子をこしらえてくれた。とても香ばしい香りのする甘くて美味しいおやつだった。
 ある日、三日月さんのポケットは、異様に膨らんでいた。いつものように一つずつくれたドロップを口にほうりこんで、私たちはその膨らんだポケットをじっと眺めていた。
 「気になるかい、」
 黙ったまま頷く私たちの顔を見ながら、三日月さんはゆっくりとした動作でそれを取り出した。
 「なにそれ。木、」
 「おしいね。持ってごらん」
 手渡されると手首がしなる。
 「びっくりしたろう。はっは」
 どう見ても流木のようにしか見えないのに、それはずしりと重かった。
 「木の化石だよ。珪化木」
 「ケイカボク? 木なの、石なの、」
 「よく見ると年輪もちゃんとあるだろう。だから木。だけど今は石」
 平らな面を上にしてみると、そこにはうっすらと年輪が見えた。
 「二千年前頃の木だよ」
 「二千年前!」
 私たちは声を揃えて叫ぶ。
 「珪化木っていうのはね、地下を流れる水に溶けた珪酸塩がしみ込んで長ぁい時間をかけてできるんだって。これはお魚の化石の見つかった場所の近くでとれたらしいよ。洪水で流されたのかもしれないし、もともとは森だったのかもしれないね」
 気の遠くなるような悠久の年月を経てきたそれに、この時の私たちが感じていたのは畏怖心だったかもしれない。
 「二千年も黙ったままでいたわけだねぇ」
 三日月さんは節くれだった手で化石を撫でている。
 「木はしゃべらないよ」
 鏡子が得意げに鼻を持ち上げて言う。
 「しゃべるさ。水を吸い上げる音、木の葉を揺らす音、新芽が芽吹く音、つぼみがひらく音。みんな木のおしゃべりだもの。ただ誰も聴こうとしないだけ」
 ふぅん…。
 「こいつはきっと、今日きみたちに会うために二千年も土のなかで待っていたんだねぇ」
 「二千年も待ってたの」
 「そう。会いたくて会いたくて待ってたんだね。…よくおぼえておいで。目の前に現れるものや出来事にはちゃんと理由があるんだよ。だから、それがいやなものでも癇癪なんかおこしちゃもったいない。どうして現れたのか考えれば、きっとなにか発見があるよ」
 「じゃあ、この化石がここにあるのにも理由があるの、」
 三日月さんは頷く。
 目の前にある物言わぬ化石に目を閉じて耳をつけてみたけれど、化石は何も言わなかった。聴こえたのは三日月さんの低くて優しい声だけだった。
 「今はわからないかもしれない。ずっと先のいつかの日のためなのかもしれないよ」
 三日月さんは目を閉じて、化石を撫でている。
「会いたくて会いたくて待ってたんだよなぁ……」

 幼い日の光景を思い出しているうちに、眠ってしまったようだ。カーテンの隙間からうっすらとした朝の光が射している。さっきまで神社の境内にいたような錯覚がした。あの日の景色を夢で反すうしていたのだろうか。
 辺りが明るくなるのを待って、コンビニへピーナッツを買いにゆく。戻ってきて電話をかけると、鏡子はまだ眠そうな声だった。
 「ねえ、落花生のお菓子の作り方知りたいんだけどさ。ほら鏡子、三日月さんて人のことおぼえてる、」
 「お姉ちゃん、寝ぼけてんの、」
 夕べ思い出した光景をかいつまんで説明すると、しばらくしてから、「あぁ、」と間の抜けた返事がかえってきた。
 「あのおばけ神社ね。…なんとなくおぼえてるけど、そんな人いたっけ。幽霊でも見たんじゃないの、」
 「違うわよ。ポケットにいろんなもの入れてたじゃない」
 「そうだっけ」
 「でね、きゅうにあの落花生のお菓子作りたくなったの」
 鏡子は少し間をおいてから、「たしか、」と説明をはじめた。
 「水でといた黒砂糖を弱火にかけて、あぶくが出始めたら豆入れるだけ。水気がとぶまでちゃんとからめたら出来上がり」
 「なによ、ちゃんとおぼえてるじゃないの、」
 「だってそれ父さんの好物じゃない」
 父さんの好物? 違う、あれは三日月さんのポケットから出てきて、三日月さんが作ってくれた…。
 「だからおぼえてないってば。お姉ちゃんよく父さんに作ってもらってたんでしょ。あたし赤ん坊だったから後でそれをやっかんで、母さんによくねだったもの」
 そうだったの…あれは父さんの好物だったの。
 「それよりお姉ちゃん元気なの。うち出てから一度も顔見せないから、母さん心配してるよ。いまどき出戻りなんてちっとも恥なんかじゃないんだからさ。今度の職場って大学なんでしょ。あそこならうちからだって通えるじゃない、帰って来なよ」
 考えとくよ。そう言って電話を切る。
 鍋に水を入れ、ピーナッツの袋を開ける。黒砂糖なら母が送ってくれたやつが押し入れダンボールのなかにあったはずだ。ひっぱりだしてみると、それはダンボールの底で見つかった。
 鍋を火にかけて煮詰まるのを待っているとふいに電話が鳴る。母からだった。
 「鏡ちゃんからさっき聞いたんだけどね、帰ってくる気があるなら、帰って来なさいよ。それと、来週あたり三人でお父さんのお墓参り行こうか」

香ばしい匂いが漂うちいさな部屋のベッドの上で、私はそれを一つずつ口に入れる。大人には少し甘すぎるそれを舌でころがしながら、私は二千年前の木の化石を思い、三日月さんの声を聴く。
 「会いたくて会いたくて待ってたんだ」

 
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