第2話
水仙の人
中元彩紀子 |
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姉と電話で話したのが先週。起き抜けに妙な昔話をされたのが影響しているのだろうか、あれから時々おかしな夢をみるようになった。
夢のなかでわたしは、自分の体より大きな万華鏡をのぞいていた。幼い頃に近所の子とケンカをしてつかみかかったときに弾け飛んだ洋服のボタン、雨の日に助けてやったのに翌日には脱走した犬の毛、ついこの間恋人に投げつけて石の取れてしまったペンダントトップ。そんながらくたが円筒の中でくるくると回っている。振り向くと、短い手を太った胴の後ろで組んだカエルが立っていた。
「なんでこんなものしか入ってないの」
すると太ったカエルは腕を前に組みかえて、ちろりとこちらを見やり言った。大きな口だった。
「だってアンタはそんなものしか見てないんだものねっ」
吐き捨てるように言ったその声があんまり大きいものだから、わたしは少しのけぞった。カエルはくるりと向きをかえ、左右に体を揺らしながら歩いていってしまった。
「キョーコ、キョーコ、キョーコハカガミ、カガミノコ」
おかしな節まわしで歌いながら、カエルは小さくなっていく。だのに、歌声だけが耳もとでしている。
「クモッタカガミニウツルノハ、キョーコノカガミニウツルノハ、」
映るのはなに。キョーコ、キョーコ、キョーコはカガミ。だから映るのはなによ。
「鏡子先生、」
目の前で首を傾げてのぞきこんでいるのは、カエルではなくて、塾長だった。
「鏡子先生、夢みてたでしょう」
茫洋とした頭を振って、ソファから体を起こす。
「悪いわねぇ、せっかくの週末なのに」
いいえ、と首を振り、壁にかかった時計に目をやる。午前五時。夕べ最後の授業を終えてから、わたしたちは塾内の片付けを始め、ひと休みしているうちに眠りこけてしまったらしい。
「今からこれくらい片付けておけば後が楽だわ」
塾長は向かいに座ってお茶をすすっていた。彼女も少し前まで眠っていたのだろう。後頭部の髪が少し乱れていた。
わたしが勤める学習塾は、駅前通りの先の高級住宅地の手前にある。比較的大きな通りの突きあたりに建つ五階建てのビルは、建てられた当時はちょうどバブルの真っただ中だったと聞く。半地下にはカフェやレストラン、一階と二階にはクリニックや生花店がテナントとして入っており、それより上の階は住居スペースだ。大学を出ても就職せず、ふらふらしているわたしを見兼ねた母が、従姉妹である塾長に紹介してくれてから、すでに五年が経つ。
吹き抜けになっている中央の広場には大きな木が植えられ、市松模様のタイルが周囲に敷き詰められている。ところどころに点在する鋳鉄のベンチは、どこかのデザイナー作品のものだそうだが、今は水垢で汚れ、座面は枯れ葉に埋もれており、まるで置き去りにされてうずくまったまま固まってしまった子供のように見えた。建てられた当初こそ、ハイソな街のお洒落なビルとして建築雑誌にも掲載されたらしいが、当時この辺りを駆け回っていた子供達はすでに成人し、もっと賑やかな街へと出ていった。やがて帰ってくるだろう子供たちのために改築した二世帯住宅。気の早い親たちの目論みとはうらはらに、未使用の部屋の畳は年を経るごとに色褪せていく。
駅向こうの新興住宅地のそばに、大手の進学塾が進出してきたのを機に、わたしの勤める塾は規模を縮小せざるを得なくなった。私鉄のいくつか先の駅付近に借りたという今度のビルは、四階建てのどこにでもあるような古いビルだった。塾生たちの合格発表がすべて済み次第、移ってくることになっている。この日はその準備と片付けを塾長と夜中までしていたのだった。わたしと塾長の他、四人いる時間講師はみな近隣の大学や院に通う学生で、授業が終えるといつの間にか姿を消していた。
生徒の一人に小学四年生の女の子がいる。園芸クラブに入っているという彼女は、時々家の庭から花を持ってきては、職員室の花瓶に活けてくれている。スプレーマムや、ポピー、サクラソウ、チューリップ。季節ごとに様々な花が、雑然とした職員室を彩った。
「先生、この花何か知ってる、」
二月に入って最初に彼女が持ってきたのは水仙だった。
「日本水仙でしょう」
にっこりとして頷く彼女の頬は、毛細血管が浮いて丸く真っ赤になっている。外はそうとう寒いに違いない。
「そう、おばあちゃんちの庭にいっぱい咲いてるの」
誇らし気に頷くと、自分で花瓶に活け始めた。
「水仙は一万種類もあるんだって。ラッパ水仙、黄水仙、口紅水仙、笛吹き水仙、八重咲き水仙…」
「水仙はね、雪中花とも呼ぶんだよ」
ふくよかな肩にストールをかけながら、塾長が水仙をのぞきこんでいる。
「加賀千代女の句にあったね。水仙の 香やこぼれても 雪の上。冷たい雪の中にあっても静かに春の訪れを知らせる花。あんたみたいだねぇ」
そう言って、塾長は彼女の真っ赤になった丸いほっぺたを両手で包んでごしごし擦った。褒められたのかからかわれたのか分からず、照れたような表情を浮かべたまま、彼女は話題を変える。
「もうじきおばあちゃんちに引っ越すの。おばあちゃん、足が悪いから、庭の手入れも大変なんだって。だからみんなで暮らすんだ。あたしが庭の係りになったの。あ、そうだ、だから、」
急に表情が曇る。
「お母さんから聞いてるよ。春期講習からはもう来られないんでしょ」
「うん」
小学生の彼女が通うには、新しい移転先はどのみち少し遠かった。もう職員室に花が飾られることもない。
去られる側にいることが多い、そういう星のもとに生まれたのだろうか。なりゆきで勤めた職場は、毎年幾人もの生徒が卒業して去ってゆくようなところだ。でも、最初にわたしから去っていったのは父親だった。そのせいだろうか。仲のよかった友達の転校や恋人との別れならまだ分かるが、街から子供の姿が減ってゆくことや、生徒が一人辞めるということまでをも、わたしは必要以上にナーバスにとらえてしまう。
もう去られるのはたくさんだ、いつか自分から去ろう、と思っても、春になり新しい殺風景な教室で一人、夜更けまで仕事をする塾長の老いた背を思うと、辞めたいなどとはどうしても言えないでいた。
週明け、少し早めに出勤すると、すでにきていた塾長が唐突に尋ねた。
「水仙のギリシャ神話を、鏡子先生はご存知、」
かぶりを振ると、彼女は花瓶の水仙をぼんやりと眺め、口を開いた。
「ナルキソスっていう美少年がいてね、彼はあるとき泉の水面に映る人に恋をしてしまうの。それが自分とは知らずに。手を差し伸べれば相手も差し伸べ、微笑みかければ相手もそうする。手招きしてもやはり同じ。なのに、抱き寄せようとするとその恋しい人はかき消えてしまう。それでも彼はその場から離れることはせず、とうとうその場で命尽きたの。そして彼をかわいそうに思った妖精たちが、その体を迎えにゆくと、彼の姿はそこにはなくて、ただ水仙の花が咲いていたのですって」
わたしは、夢をぼんやりと思い出していた。キョーコは鏡の子、キョーコの鏡に映るのは…。
「ナルシストの語源だなんてちょっと人聞きが悪いけど、あたしはこの話がとても好きなの。潔いと思うのよ。自分が誇りで、自分を死ぬまで愛して。死んで美しい姿になって、恋い慕う人の傍らで咲いてるなんて、ずうずうしいオチもまたいい。…あたしはずいぶんと肥えてるし、こんなに美しくはないけど、でもこの花を見てると、ちょっと自分のような気もするのよ」
「どうしてですか、」
すると、塾長は口角をきゅっと上に持ち上げ、目を細めると、「だってね」と続けた。
「あたしは、予備校や、進学塾、家庭教師、場所こそその時々で違ったけれど、いつも子供たちのそばにいた。今回はもうたたもうかと思ったけど、あたしはやっぱりこの仕事を辞めないの。自分に子供がいないからじゃないのよ。あたしは、やがて去ってゆく人を見守って、送りだし続ける自分を誇りに思ってる。主人が死んでからもう二十年以上も子供たちを見送ってきた。見送るのがあたしの仕事なのね。そういう星のもとに生まれちゃったんだわ。でも、そんな自分が好きなんだから、やっぱりナルシストだわね。…あぁよかった、せめて水仙がきれいな花で」
冗談めかしてはいたけれど、彼女は揺らいでいるわたしの心に気づいているのだな、と思った。
「水仙の有名な花言葉は“自惚れ”なのよ。でも、あたしの好きな笛吹き水仙は“優しい追憶”っていうの。物事はとらえようで醜くもなれば優しくもなる。…去られる人生もまた、味わい深くてよ、鏡子先生。だから、あたしに気なんか使わなくてもだいじょうぶ」
「…わたし、辞めようか迷ってたんです。でも言い出せなくて」
すると塾長は、ゆっくり頷いた。
「好きにしなさい。止めないよ。ただ、つねに潔くありなさい」
降り立った駅のそばの、駐輪場の植え込みに霜柱がたっていた。周囲に誰もいないのを確かめ、足で踏みしめると、ザクザクと小気味好い感触が足裏から伝わる。移転先のビルまで徒歩五分。周囲には八百屋や、金物屋、古本屋などが立ち並ぶ。ビルを通り過ぎたところに児童館があった。閉まっている門の向こうに、小さな花壇がある。
そこから目を離さず、わたしはまだ教室にいる彼女に電話をかけた。
──どうしたの。
「考えてたんです。わたし、もう少しいてもいいですか」
──あら、そ。いいわよ。
「先生、今度のビルの近く、水仙がたくさん咲いてます」
──へぇ、幸先のいいこと。
「先生みたいに思えるようになれるかどうか、試したいんです。万華鏡はきれいじゃなくちゃいやだもの」
──なにを言ってるの。ほら、お母さんが心配するから早く帰りなさい。
電話を切ると、急に夜更けの寒さが身にしみた。今夜の万華鏡には何が見えるだろう。青々とした葉を茂らせ、真直ぐ伸びたたくさんの白い水仙。その凛とした様を眺めながらそう思った。
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