air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第3話

千代さんの紅梅

中元彩紀子

 大叔母が亡くなったので帰ってこいと実家から連絡があった。葬儀を終えた翌日、縁側でぼんやり庭を眺めていると、鋏を手に母が庭へ出てきた。スノードロップや水仙の植えてある場所にかがみ、シャクシャクと音を立てて、それらのいくつかを切っている。仏壇にでも供えるのだろう。白い花はすでに亡くなっている祖母が好きだった花だ。水仙はとくにお気に入りだった。 
 「ばあちゃんも千代さんもいなくなって、庭もなんだか寂しそうに見えるね」
 母の背中にそう声をかけると、彼女は意外そうな顔をして振り向く。
 「そうでもないよ、ほら梅が咲きはじめてる」
 ほんとだ。庭のほぼ中央に植えられた紅梅が、ぽつぽつと紅をつけている。庭の小さな草花から讃えられ、得意げに腕を広げているようなこの紅梅の木を、まるで千代さんのようだと言ったのは姉だったか、母だったか。
 周囲をぐるりと庭に囲まれたこの家に、わたしは小学生の頃に越してきた。それから祖父が亡くなり、続いて祖母が逝った翌年までいたから、およそ十年ほどをここで過ごしたことになる。敷地内のすぐ隣りには大叔母夫婦も住んでいた。

 茂治さんと千代さんはいつだって仲が悪かった。千代さんはわたしの祖母の妹で、茂治さんはその二番目の夫である。二十九の歳でつれあいをなくし、気落ちしていた千代さんを「しょうがねえからもらってやった」のが茂治さんで、わたしにとっては立派な大叔父なのだけれど、皆が「茂治さん」と呼ぶのでわたしもそれにならっていた。
 茂治さんは畳職人だった。腕はいいし情にも厚いが、口が悪くてケンカっ早い。「器量も悪くて態度も悪きゃ体裁だって悪くなる。ああいやだいやだ」とは千代さんの弁。寄り合いの酒の席で男衆がとっくみあいを始めたとき、仲裁に入ったつもりが、一人の拳がこめかみを擦ったとかで頭に血が昇り、気づいたときには留置所にいた、なんて話は郵便ポストの数より多い、とも聞いている。齢七十にしてこの豪気である。
 隣に住むこの夫婦にとって、我が家は防空壕なんだそうだ。二人揃ってうちへやってくることは滅多になかった。先に顔を出すのはたいていが千代さんの方だった。いつだったか父が、怒りで上気した千代さんの顔が裏山の天狗にそっくりだとからかって、ゲンコを喰らったことがあった。聞けばその日は裏のお寺の畳替えで、手伝いに出る茂治さんに千代さんが天狗さんへ持っていくよう託した酒饅頭が夫婦喧嘩の原因だというから父も間が悪い。茂治さんが「景気づけとはいかないまでも、」と饅頭の箱を指してにやり笑った若衆に乗じ、境内まであと数段というところで、全部たいらげてしまったというのである。ちゃんと渡したかどうか問われ、「おうよ、三十個一つ残らず渡したさ」と答えたというから、茂治さんの嘘はまるでなっちゃいない。
 こんな埒もないことで喧嘩ばかりしている二人だった。子はない。たまに一緒に歩いていたかと思えば、それは出先で酔いつぶれたか、二辻先の駐在で灸を据えられている茂治さんを千代さんが迎えに行った帰りだ。彼女は家へ戻り、茂治さんはうちへ寄って祖父や父とまた一杯やる。「こんな賑やかな防空壕がどこにあんのさ」と言いつつ、祖母も母もまたそれにつき合っているのだから呆れたものだ。そうこうしていると、隣家からカンカンカンと音が鳴り響く。そろそろ帰ってこいと、千代さんが杓子で鍋の底を叩いているのである。

 ある日、いつまでたっても鍋の音がしないので、心配して隣家へ行った祖母が血相を変えて戻ってきた。「どうしたぃ」と尋ねる祖父に、祖母は前へつんのめりそうになりながら、「千代ちゃんが、風呂場で倒れてるっ」と叫んだ。とたんに正気に戻った茂治さんに続いてわたしたちが隣家へすっ飛んでいくと、風呂場で浴衣を着たままうつ伏せに倒れている千代さんが目に飛び込んできた。皆で名前を呼んで身体を揺さぶったが、うんともすんとも言わない。いよいよ大変だということになり、父が救急に連絡しようと立ち上がったときだった。
 「パンッパンッ、パンッパンッ」
 振り返ると、向かいの部屋にある前夫の仏壇の前で茂治さんがへたりこんでいる。背中を丸めてギュっと目を瞑り、歯を食いしばって柏手を打っているではないか。千代さんの蘇生を一心に祈っているつもりであろうその奇行を、皆が静まり返ってみていると、クツクツクツと声がする。訝しんであたりを見回せば、倒れた千代さんの肩が小刻みに揺れている。
 「仏壇に柏手打つ莫迦があるかい」
 その声に皆が惚けていると、千代さんはむっくりと起き上がり、はだけた浴衣の襟を合わせながら、「灸を据えてやったのさ」としれっとした顔で言い放った。茂治さんは正座したまま千代さんの顔を見上げて、何か言いかけたものの言葉にならなかった。皆が引き上げた後の話を、翌日千代さんがこっそり教えてくれたのだが、あのとき、茂治さんの腰は抜けており、二人になったとたんおいおいと泣いたのだと、千代さんは嬉しそうに言ったものだ。
 「俺より先に死んだら化けて出るぞってんだよ。そんときゃあたしは死んでんだろう。莫迦だね、あの人は。化けたきゃ先に死んで、今度は下戸にでもおなりっての。けど、憎まれっ子は世にはばかるからねぇ」
 そう言って千代さんは豪快に笑ったが、結局茂治さんをちゃんと見送ってから逝ったのだった。

 庭の紅梅には毎年六月と十月に茶毒蛾の虫がつく。触れると肌が真っ赤になって腫れ上がり、身悶えするほどに痒くなる毛虫だ。祖母の代わりに庭の手入れをしていた小学生のわたしに、屍骸にだって触れちゃならないと言いながら、千代さんは毛虫を割り箸でつまんでは捨てていた。広い屋敷の庭で、唯一千代さんが大事にしていたのがこの紅梅だった。
 「これはね、一緒になるときにうちの宿六が植えたんだよ。けっこうな枝振りだろう。こいつさえつかなきゃ言うことないんだけどねぇ。まあ、言う事聞かなきゃ、うちのの背中にぽいと入れてやるさ」
 言葉は悪いが、紅梅の前で千代さんが茂治さんのことを言うときは、いつも嬉しそうに微笑んでいた。
 「昔はね、春の花といえば桜じゃなくて梅だったんだよ。冬のある朝、雨戸を開けて鼻先を梅の香がかすめたら、それが春の知らせ。桜ほど見栄えはしないが、香りといったらやっぱり梅だね。年中、酒の匂いを嗅がされてんだもの、清清しいったらないよ」
 来年がまた楽しみだ、と言って、背伸びをしながら虫を取っている。
 「あんた、紅梅には血が流れてるんだよ。知ってる、」
 「うそだぁ、血なんか流れてないよ」
 「ほんとさ。だからはらいたての枝を煮るとどんどん赤く染まっていくの。それで染めるといい色になるんだ」
 「千代さん見たの、」
 「…いんや。うちの宿六が言ってたの」
 そんな千代さんを思い出すとき、瞼の裏の彼女はいつも黄味がかった紅色の着物を着ていた。

 切った水仙を仏壇に供えて、母は再び表に出てきた。そのまま門まで出てゆき、誰かと話をしている。大方、郵便配達の青年だろう。しばらくして戻ってきた母が言う。
 「あんた、結婚して隣に住んだらどう。お姉ちゃんは婿とってここで暮らすつもりらしいし。ね、そうしなさいよ」
 祖父にはじまり誰かが亡くなると、母はいつもこうだ。家族が減るのは寂しい、だったら増やせばよい、という単純な発想なのだ。きっとさっきの郵便屋が様子のいい男だったに違いない。見合いの話になる前に話題を変える。
 「母さん、今年、紅梅が匂いはじめたのっていつ、」
 「へ? ああ、三、四日前だったかしらね」
 「じゃあ、千代さんは間に合ったんだ」
 すると母は合点がいったような顔をして頷き、紅梅を見上げた。
 「千代叔母ちゃんはこれが好きだったからねぇ。あの着物も入れてやれて良かった」
 「あの着物って、」
 「棺に入れた着物。叔母ちゃんがいっとう大事にしてた紅梅染めだよ。叔母ちゃんが茂治さんからもらった贈り物。最初が梅の木で、最後が紅梅染め。梅干し婆ぁにかけてやったなんて照れくさそうに言ってたらしいけどね」
 ああそうか。あれは紅梅で染めた着物だったのか。つれあいからもらった梅の香を纏って千代さんは逝ったのか。
 「向こうで会えてるといいけどねぇ」
 母がつぶやく。
 「向こうは酒くさいからすぐ分かるけどね」
 そんな千代さんの憎まれ口が聴こえてきそうだ。
 結婚はいいものよぉ、と、母が梅と一緒にほころんでいる。
 

 
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