第4話
春の雪
中元彩紀子 |
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僕が郵便配達夫になってから、もうすぐ十回目の春が来る。
配達区のいちばん端の水谷さんちでは、去年家長の長三郎さんが齢九十にして天寿を全うし、公園脇のアパートに住む女性は大家に内緒で猫を飼い始めた。大通りの酒屋はコンビニになったけれど、交番のいかつい顔をしたおまわりさんは、まだ巡査のままだ。そのパーマは失敗なのか、と聞きたくなる髪型をしたおばさんは、僕が自転車を止める音を聞きつけると、いつも縁側からつっかけを履いて出てくる。愛想はいいけれど、自分の娘と見合いをしないかとしつこいのが欠点だ。しつこいのはおばさんの特徴なのだけれど。そろそろブレーキに油をささなければ、と思う。
春になると僕は忙しくなる。ふつうの配達の他にも、僕には届けなければならない特別な手紙があるからだ。時々、お年寄りからこっそりと頼まれる特別な手紙は、クッキーの空き箱の中にまだたんまりとある。
僕が郵便配達夫になったのには理由がある。他人に話せば一笑に附されてしまうような話だけれど、他に理由なんてないのだし、それが本当のことなのだから仕方ない。
幼い頃、僕は今より少し南の街に住んでいた。当時、そこは二軒長屋だった。隣に住んでいたのはおじいさんで、家族は誰もいないのか、一人暮らしのようだった。歳は分からない。子供の目からすれば、八十だったようにも思えるし、今思えば、まだ還暦くらいだったかもしれない。母が言うには、子供がめっぽう嫌いだったらしい。僕が幼稚園の頃はぐずって泣くたびに、両親はおじいさんに謝りに行ったそうだ。小学生になってからは、雨の日は音がこもるからという理由で、友達と家のなかで遊ぶのを禁じられた。実際、壁の向こうからは、時折おじいさんの咳払いが聞こえていたから、両親が神経質になるのも分かる。
父はおじいさんのことを気難しい仙人のようだと言ったが、頭頂部が薄い白髪まじりの髪と、にこ毛のように風に遊ぶあご髭は、仙人というよりただの世捨て人のそれだった。
おじいさんは、ときどき学校の帰り道で見かけた。夏ならよれよれのランニング、冬なら紺色の半纏に、うす茶いろのズボンからのぞく下駄をカコカコいわせていた。散歩でもするようによたよた歩いているのだが、目的はちゃんとある。近くのポストへ手紙を投函しているのを、僕は何度も目撃していた。僕は、正面から来るおじいさんの姿を見つけるたび、慌ててたて笛を取り出した。練習をしているふりをして、そのままやりすごすためだ。ヒョロヒョロと情けない音を出しながら黙って通り過ぎる。だけどとっくにバレていたのか、そのうち、すれ違う瞬間、おじいさんは僕の頭に手をおくようになった。顔はいつもの仏頂面だった。
両親の留守中、ぬれ縁で本を読んでいたときだった。ふと庭に目をやると、植え込みのそばにおじいさんの下駄が転がっている。近所の野良の仕業だろう。二足とも裏返っていた。すると突然、隣の窓が開き、おじいさんがぬっと顔を出した。僕は慌てて本に目を戻したが、おじいさんが下駄を探しているのは気配で分った。植え込みだよ、ほらそこの。そう言いたかったけれど、怖くて声が出なかった。僕は、黙って立ち上がり、素早く下駄を拾って、やっぱり黙ったままおじいさんのぬれ縁の下に置いた。
「雪だな」
思いがけない言葉に、僕が思わず「え、」と反応すると、おじいさんは再び「これは雪だ。しかも大雪」と言った。
この街に雪が降ることはない。何を言っているのだろうと訝しむ僕に、おじいさんは続けた。
「下駄が両方ともひっくり返ってたろうが。しかもてんでばらばらに」
靴で天気を占うのは知っているけれど、僕が知っているのには晴れか雨か曇りで、雪というのはなかった。
「ここには雪なんて降らないと思うな、それにもう春だし」
僕がもごもごと独り言のように言うと、おじいさんは「まあな」とだけ答えた。これがおじいさんと交わした最初の会話だ。おじいさんの下駄は鼻緒のところを野良にかじられたのか、少し中の綿が見えていた。そのみすぼらしい下駄を履くと、おじいさんは鍵もかけずに、どこかへ出かけてしまった。
しばらくして戻ってきたおじいさんは、木戸を開けて入ってくるなり、僕に言った。
「けどな、春でも雪は降る。降るところには降る」
さっきの話の続きだった。
「春の雪はやっこい。さわっても触れた感触のないままにふっと溶ける」
だから何なのだろう、と僕は思ったけれど、やっぱり口には出せないでいた。
「坊は、雪、見たことあんのか、」
かぶりを振ると、おじいさんはにやりと笑った。
「春の雪は砂糖みたいに甘いんだで」
「うそだ」
「うそじゃない」
「うそだ。さっき、さわったらすぐに溶けるてゆったじゃないか。口まで持ってくまでになくなっちゃうよ」
するとおじいさんはひょっと肩をすくめて、「坊は案外賢いな」と仏頂面のままで言った。
「坊」というのが、おじいさんが僕を呼ぶときの言い方だった。
おじいさんは愛想の悪い人だったけれど、おかしな話をよくしてくれた。
機嫌の悪いときに塩水で手をもむと指先から白い糸が出て、それを世間ではかんの虫というのだ、とか、前の晩にうちの屋根の上で行われた野良どもの会議によると、三丁目の魚屋の鮮度には気をつけた方がいいとか、そういううさんくさい話だったけれど、僕はおじいさんの話が嫌いじゃなかった。
それから、何度かポストまでの散歩につきあうようになった。
春になると忙しくなる、とおじいさんはポストの前で言った。
「どうして、」
宛先を一枚一枚確認しながら、おじいさんは答えた。
「進学やら就職やらは決まって春だろうが」
答えになっていない。
「おじいさんなのに就職すんの、」
おじいさんは一言、あほか、と言って歩き出す。黙ったまま僕らは長屋に帰ってきた。おじいさんはその後、ぬれ縁から足だけだして、爪を切り始めた。僕はというと、やっぱりぬれ縁に腰掛けて本かマンガを読んでいたのだと思う。時々、おじいさんの爪を切る様子を眺めた。爪は黒く変色していて、分厚くて硬そうで、だからか爪切りもうちにあるやつよりずっと大きかった。耳鼻科で見た銀色の器具みたいだな、と思った。
「坊、」
不意に声をかけられた。前屈みになって隣を覗くと、やっぱり見えるのは足だけだった。つっかけを履いて、おじいさんちのぬれ縁までいくと、足下には三日月型の爪がいくつも落ちていた。おじいさんは窓の近くで目を細めながら、次の足の爪にとりかかっていた。
「坊は、雪見たことないって言ってたな」
「うん。でもテレビでは見たことあるよ」
バチンと大きな音が響く。
「明日の明け方、降るぞ」
うっすらと雲がかった空だが、西陽がまぶしく射している。
「降らないよ」
「いいや、降る」
「なんで分かるの」
「夕べ、そこのゆすら梅に止まってた烏が噂しとった。…くっ、硬いな」
震える手に力を込めて爪と格闘している。
「降らないよ、たぶん」
するとおじいさんはじろりとこちらを見て言った。
「じゃあ、もし降ったらひとつ俺の言う事聞くか」
「いいよ」
そして明け方。僕が毛布にくるまってぬれ縁に出ると、おじいさんはすでに出ていた。東の空がうっすらと明るいだけで、頭上は分厚い雲に重たくおおわれていた。こんな時間の外の空気をかぐのは、もしかしたらこのときが生まれてはじめてだったのかもしれない。鼻から入ってくる朝の空気は、肺に届いてからもまだひんやりとしていた。
おじいさんのいれてくれたホットミルクを飲みながら、僕はいつものおかしな話に耳を傾けていた。時折見上げる空は、あいかわらず鈍い色をしたままだ。そして、どのくらいたった頃だろう。おじいさんが不意に自分の頭頂部に手をあてた。
「雪だ」
僕は信じられない気持ちで空を見上げた。気のせいじゃないの、と言いかけたときだった。灰白の空のむこうから、ちらちらとしたものがゆっくりと降りてきたのだ。やがて、それは頬に、毛布から出た膝小僧に、ふっふっ、とあたって溶けた。
「これが雪なの、」
「ほらみろ。ほんとだったろうが」
僕は言葉を失って、ゆっくりと落ちてくる細かな雪を顔で受けた。毛布に落ちた雪のひとひらは一瞬、結晶の形を見せた。理科の教科書に載っていたあの六角形だった。ほらほらっとおじいさんの腕を引っ張って見せようとしたけれど、指さしたとたんに消えてしまう控えめな雪だった。雪はほんの数分でやんでしまったし、後で見た天気予報番組でも取り上げられなかったから、母も信じてくれなかったけれど、あれは僕が生まれてはじめて見た雪だった。
ある日、おじいさんがぬれ縁に出してきたカステラの箱の中には、手紙の束が入っていた。隅の方に鉛筆で日付けが書いてある。それらは全部、まだずっと先の日付けだった。それらの手紙を日付け通りに投函して欲しいというのが、あの春の雪の約束だった。
「これは冥府からの手紙だ。しっかりやってくれよ。他言無用だ」
「いいけど、メイフって何なの、」
「あの世だ」
あの世と聞いてぎょっとする僕に、おじいさんはなおも続ける。
「あの世からの大事な預かりもんだ。粗末に扱ったらバチが当たるからな」
「ゆうれいが書いた手紙なの、」
幼かったこのときの僕はそう解釈した。
家族のいないおじいさんが、いつもポストに手紙を出していた謎がやっととけた。とけたはいいけれど、今度はその役目を僕が負わねばならないとは。
「死んだ人ってのはな、消えたとたん忘れられてしまう春の雪みたいなもんだ。だけど、それが面白くねぇってんじゃないぞ。これと思う人間にはいつまでも言葉をかけてやりたいだけなんだ。そいつを届けてやるのよ」
「ふぅん。…でも」
どうして僕に頼むの、そう聞いたのだと思う。おじいさんは、「坊だからさ。それに老いぼれはもうそろそろ引退だ」と、答えてひとつ咳き込んだ。
それから間もなくして僕は今住む街に引っ越した。おじいさんから託された手紙の束はちゃんと持っていった。僕はしっかり役目を果たしている。今度の街ではどか雪が降ります。いつかそんな年賀状を出したら、「どか雪はからいぞ。なめてみろ」と返事が返ってきた。いつしか年賀状は宛先不明で戻ってきてしまうようになったけれど、僕にはおじいさんがまだどこかでカコカコと下駄をならしているような気がしてならない。
冥府からの手紙。そこに何が書いてあるのか僕は知らない。進学のお祝いか、激励の言葉か、愛のささやきなのか、それとも慰めの言葉か。ただ、ぼくの机の引き出しのなかに入っているクッキーの空き箱。その一番底には、僕宛ての手紙が一通入っている。差出人の欄には、「初代冥府の郵便配達人」とある。投函期日はまだもう少し先だ。
この街の冬は長く、まるで退屈な絵画のようだ。だけど、ちょっとずつ静かに変化している。天国の長三郎さんから届いた手紙に家族はびっくりするだろう。今年こそ巡査は昇進するかもしれない。アパートの女性の猫は子供を産むかもしれないし、失敗パーマのおばさんの娘も縁談がまとまるかもしれない。
僕はそんな絵のなかの通行人だ。大事な言葉を届けるために、毎日自転車をこいでいる。そういう日々を、僕はけっこう気に入っている。
この街にも、もうすぐ春の雪が降る。
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