第5話
スプレーマムと菊之進
中元彩紀子 |
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「ほら、公園の反対側におっきなうちがあるでしょう、」
「レンガの門の、」
「そう」
「ポストの下に花が咲いてるうちだ」
「そう。あれスプレーマムっていうのよ。あたしの好きな花。菊は辛気くさいからいやだけど、あの花は好き。いかにもお花って感じだし、一本でたくさん咲くからお得でしょ」
ふぅん、と雅人は興味なさげに頷きながら薬缶を火にかけている。また、例の漢方薬を煮出すのだろう。あれはとってもいやな匂いがする。何か不浄なものを含んだような土のような、またはそれとは全く別の高貴な、たとえば高僧の袈裟に焚かれた香のような匂いだ。どちらにしろ、近よりがたい匂いなのだけれど、それを飲んだ雅人の口から漂ってくると不思議と心地よくなる。あの子も最初はそうだった。その傷だらけの体とぼさぼさの毛は、近寄る者の眉をしかめさせるほどだった。
「で、それとその猫がどうしたって、」
「猫じゃなくて菊之進。だからそこで拾ったの。黄色い花を見上げてね、食べたそうな顔してたのよ。お腹すいてんのかなぁ、汚い猫だなぁって思って通り過ぎようとしたらね、くるっとあたしの方を見て、ついて来たの。前にも話したと思うんだけど」
小さな台所のシンクの前に立ち、雅人は顔も向けずに、そうだったっけ、と言った。
「ちょうどあなたがお見舞いに来てくれてた頃のことだもの」
雅人はあの花を私が好くわけにも気づかない。でも、もうそんなことに頓着することもない。
「それにしても、あの子どこ行っちゃったんだろう」
彼はもう返事をしなかった。
彼とは駅前のクリニックで出会った。そこには精神的にまいってしまった人達が集まる病院だった。彼はそこにやってくる製薬会社の人で、私はそこに通う患者だった。でもそのことは彼は知らない。
五年もつきあった男は、その日もいつものように電話で私を呼び出した。私は、じきに来る男の誕生日のために、ベストを編んでいるところだった。部屋を訪ねるなり、そろそろ結婚しようと思って、と男は言い、すぐ後に「悪いね」と付け足した。相手は会社の後輩の女性だと言った。私は気絶しそうになりながらも、すぐそばにあったハサミに目が止まった。そのハサミで何をどうしようというのだ、と自問していたら不意に力が抜けた。後のことはよく覚えていない。何を言ったのかも、どうやって帰ったのかも。ただ、帰ってすぐに、男からもらった物をすべてアパートのゴミ置き場に捨てたのは覚えている。私はそれらをきれいに並べて捨てた。明日男がこの前を通ったときどう思うだろう、そんなことを考えていた。そこは男の通勤路だった。そのなかでも一番目立つ、大きなランプシェードの上に、編みかけのベストをかけると、そこはなんだか浮浪者の簡易住居のような眺めになった。これが私の五年間なのか、と思ってしみじみ泣いた翌日、私は色が分からなり、涙が出なくなった。
クリニックでは家族や自分に関する宿題を出された。〈私の両親は〉とか〈私を傷付けたのは〉とか、〈私の信じているものは〉といった文言に続く言葉を書くように言われ、後日持ってゆくと、医師は言った。
「幼い頃から抱えている問題に起因しているわけではないようです。今回のその失恋が原因でしょう」
何を分かりきったことを、と思ったけれど、医師からもらう薬はこの頃の私にとって生きるための大事な命綱だった。これが百錠たまるまでは生きていよう。死ぬための道具が生きるよすがになっていた。街の風景は春になってもモノクロのままで、やがて公園の桜が散る頃になると、私はそれを一瞬、雪だと勘違いした。
あと四十錠か、と計算しながらクリニックのビルを出た時だった。うす暗いビルから急に明るい表へ出たせいで目がくらむ。そのまま横断歩道に向かって歩きだしたとたん、何か重たいものにぶつかり、私は思いきり転んだ。
「すいません、大丈夫ですか」
重いものが立ち上がり、そしてしゃべった。
「大丈夫ですから」
そう言ったものの、破けたミュールから飛び出た右足の小指は、変な方向に向いたまま動かなかった。生まれて初めての骨折だった。
それから雅人は週に一度、顔を見せるようになった。最初は見舞い金を、その後はケーキだの花だのを携えてやってきた。もういいから、という私に彼は「でも治るまでは」と言って翌週もやってきた。義務感からの親切に対する鬱陶しさが薄れ始めた頃、彼が持ってきた花の色に気づいた。それは薄い黄色のスプレーマムだった。久しぶりに見る色に戸惑うと同時に、お見舞いに菊を持ってくる不粋さがおかしくて、私はその日、久しぶりに声を出して笑った。薬は百に届かないままカウントを止めた。
菊之進がいなくなって一週間がたつ。しっぽが丸くて、首に黄色い小さな鈴をつけた猫です。写真にそんなキャプションをつけた貼り紙を町中に貼ったけれど、連絡は一本もなかった。
たまたま階下のポストで出くわした郵便屋にも、それとなくお願いしてみると「気をつけておきますよ」と言ってくれたが、昨日また会ったとき彼はしばらく逡巡したあと言った。
「動物ってね、死期が近づくとみずからいなくなるんですよ。とくに猫は孤高というか気高いというか、犬と違って自己愛が強いわりに他人からの愛に無頓着なんですよね」
電話でその話をすると、雅人は郵便屋という単語から連想したのか、「手紙でも書いてくれりゃあいいのになぁ」ととんちんかんなことを言っていた。私は、本棚に立て掛けられた爪研ぎ用の板の傷を眺めていた。
菊之進は襖や柱で爪を研ぐことは決してしなかったし、私が留守にしていても布団の上で粗相することもなかった。時々押し入れの天井を開けて、裏側へ脱走することもあったけれど、お腹がすくとちゃんと帰ってきた。もともと野良だったのだから、と雅人は慰めたけれど、私にとっての菊之進は、あの薬に代わる保険だった。それがいなくなってしまうということは、私にとって終結を意味していた。
「先に逝っちゃったのか、菊之進。でもじきに会えるわね」
夕暮れのベランダでそうひとりごちると、どこかで鈴の鳴ったような気がした。私はそれを返事なのだと思うことにした。
雅人が私の人生に現れてから、私は色も見えるようになったし、笑いもするようになった。だけど、あのときの喪失は虚無感となり、いつでも漫然と周囲に漂っている。何も期待しない、ということが私の安全地帯だった。うっかりすると、雅人に何かを期待してしまうのが、唯一の罠だった。
雅人が漢方薬を煮出している。わたしは急に思い立ち、ストールを羽織って、台所にあったおたまを手に表に出る。どこ行くの、と言いながら、雅人は火を消して後をついてくる。
アパートの脇の植え込みにしゃがむと、彼もそれにならう。
「お墓つくるの」
「へ。誰の、」
「菊之進の」
「死んでもいないのに、」
「郵便屋が言ってたもん。たぶんどこかで死んじゃったのよ」
穴を掘り始めると、そこは石ころだらけだった。
「おたまよりしゃもじの方が掘りやすいと思うけど」とぶつぶつ言う雅人を無視して、ただただ無心に掘る。
ところで何を埋める気なの、と聞かれ、はたと我にかえる。そうだった、肝心の菊之進はいないのだ。なんて間抜けな。すると雅人が「取ってきてあげるよ」と言って階段を駆け上がり、しばらくして菊之進の皿や玩具を持ってきてくれた。
私はおたまで、彼は両手で、二人黙ったまま掘っていると、不意に雅人がつぶやいた。
「花がないなぁ」
要らないよ、という私に雅人は、「お墓には花がなくちゃ」と言って、どこかへ行ってしまった。
土は思いのほかかたく、必要なだけの深さを掘るのに苦労した。脇や額が汗ばんでくる。もうあと少しというところで、どこからか雅人が戻ってきた。彼の手には黄色いスプレーマムが一本握られている。
「どしたの、それ」
「レンガの門の家からパクってきた」
「だめじゃない、人んちの花壇なんだから」
「折れてたんだよ」
しれっとした顔で言い訳している。
「それに菊之進が生まれた場所じゃないか」
生まれた、という言葉が意外で、私は思わず彼の顔を見つめた。
彼は、私の手からおたまを取りあげて「もう少しだね」と言いながら穴掘りを続けた。私はその間じゅう、さっきの言葉の意味を考えていた。
不意に雅人が口を開いた。
「オレさ、あいつはキミが通りかかったときに、ポンッて生まれたんだと思うな」
「どうして、」
「いなくなる前にあいつが言ってた」
「何それ。くだらない」
再び無言が続く。そして、穴はちょうどいい大きさになった。
「もういいよ、そのくらいで」
すると雅人は「まだまだ」と言って掘るのをやめない。いいってば、と言いかけたとき、彼は少し大きな声で「これも捨てようか」と言って立ち上がった。
見ると、デニムのポケットが大きく膨らんでいる。ガサゴソと音を立てて取り出されたそれは、あのときの薬の束だった。
公園からは子供たちの嬌声が聴こえる。
時折、幼児の泣き声がする。したかと思えば、また嬌声に変わる。バイクが一台通り過ぎた。その合間を縫って、雅人は私の話に静かに頷いている。
話し終えると、雅人はそれで終わりかと尋ねた。その薬がまだ私にとって有用であることは言わなかったが、私は黙って頷いた。すると彼は「キミに言うことが三つある」と言った。
困惑する私に、彼は続ける。
「まず一つ。菊之進のことだけどね」
「なんなの、」
「実はあいつとはもう話がついてるんだ」
穴を掘る手を休めずに彼は言う。
「ではこれにてお役御免ってさ」
どういうことなの、何を言っているの。そう言おうとして、口が開かない。
「あれ、オレ話す順番、まちがえたかな。…ともかく、」
子供のはしゃぐ声が一瞬大きくなって、雅人が何か言った。そして嬌声は静かに遠のく。
「今、あなたなんて言ったの、」
「だからね、一緒に暮らそうと思ってるんだ。これ二つめね」
私は耳を疑った。
「誰と、」
「キミと」
「…なんで、」
「キミと結婚したいから」
死のうとしている人間に何を言っているのだろう。これは予定と違う。
「だからあいつはお役御免ってことで、」
あ、さっき言ったか。雅人がぶつぶつ言っている。
黙りこむ私に、彼は真剣な表情で言った。
「オレもあの時、キミの前でポンッて生まれたんだと思ってくれよ」
鼻の奥がつんとした。涙が出なくなってから一年が過ぎていた。
穴の中には菊之進の品物と、大量の薬。といっても、袋から一つずつ出してみると、拍子抜けするほどの量しかなかった。
「三つめ」
「何なの、」
「薬屋として言うけどね。仮にこの薬が百錠あったとしても、こんな弱い薬じゃ死ねないよ」
盛った土に、手折ってきたスプレー菊を植えて、私たちは泥だらけの手を合わせた。
「この花、すごく丈夫なんだって。いつか花屋が言ってた」
「憶えてたんだ、」
「まぁね」
どこからか、チリン、と鈴の鳴る音がしたのは気のせいか。
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