第6話
土曜日の沈丁花
中元彩紀子 |
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昨日まで花曇りでどんよりとしていた空は、今日は真っ青だった。煙突から煙が見えはじめると、朝から吹いていた風も申し合わせたかのように止んだ。
やがて螺旋を描いて昇りはじめた煙は、巻貝を思わせた。喪服こそ着ているけれど、どうみても異質な集団は、それぞれがハンカチを手に派手に抱き合って泣いている。
「かおるちゃん、」
声をかけられて振り向くと、店の一人が目のまわりを真っ黒にして手招きをしている。
「これね、ママの形見。アンタにって預かってたの」
握らされたのは透明の小さなガラス瓶だった。
「何ですか、これ」
「ママの手作りの香水。世界に一つしかないんだから大事にしてね」
瓶の底には『ダフネオドラ』と書いてあった。栓をとって顔を近づけると、それはあの日、クララさんと一緒に嗅いだ沈丁花の香りだった。
この後店でお別れ会をするという面々からの誘いを断り、私は一人で歩き出した。
火葬場脇の坂道を下ってゆく途中で、目の前を猫が横切った。私は一瞬歩みを止めた。
「サバド、」
なんの特徴もない猫だったけれど、今のは確かにサバドだったような気がして、私はその猫が入っていった路地に足を踏み入れた。
その日、外来ロビーは閑散としていた。リノリウムの床はきれいに磨かれている。キュッキュッという足音を立てて、クララさんは現れた。
きれいに施された化粧とつば広の白い帽子は、まるでこれからハネムーンにでも出かける女性のようだったけれど、ガラガラと引きずる点滴が、彼女が入院患者であることを主張している。
くしゃみをしながらでも散歩には行くと言う彼女につき合って、私はその日、病院からほど近い公園に向かって歩いていた。春の風は西からたくさんの花粉を運ぶ。私は、といえば、未だ花粉症の気配はなく、目薬をさすために立ち止まるクララさんを隣で見ていると、少しだけ申し訳ない気持ちになった。
「目薬さしてしばらくするとさ、つーっとノドに垂れてくんのよね。これが不味いんだ、ほんとに」
クララさんはそう言いながら、口をつぐんで眉を寄せる。その直後、ほらきた、と言って顔を歪めた。その顔が人形焼きみたいなので、私はちょっと笑った。
彼女の外出用のスカートは、裏地のないガーゼのような生地で、風が吹くとふんわりとふくらんでゆっくりと落ちる。なんだかその時だけ時間がゆっくり流れてるみたいでいいのよ、と言いながら、クララさんはその若草色のスカートを揺らして空気を入れる。
「その分、長く生きられるってわけ」
野太い声でそう言われると、つい納得してしまう。根拠がなくとも不思議と説得力があり、相手を頷かせてしまう人。クララさんはそういう人だった。そして、女のくせにヒゲが濃い。
クララさんと初めて会ったのは、『サバド』という名のバーだった。スペイン語で土曜日という名前のその店は、繁華街の路地裏の隅っこで開店していた。がっちりした体型の人が一人、カウンターで煙草をくわえ、タロットカードをきっていた。髪を頭のてっぺんで巻貝のように結い上げ、蝉の翅のような薄地のブラウスに、ラメの入ったショールを羽織った厚化粧のその人は、まるでインドの神様のように見えた。
表の厨房スタッフ募集の貼り紙見たんですけれど。そう告げると、アンタ女じゃないの、とキョトンとされた。女でも皿は洗えますし調理師の免許もあります。じゃあいいわよ。
インドの神様は言った。
「アタシはここのママ。みんなクララって呼ぶわ。アンタ、名前は、」
「鈴木かおるです。住まいはこの近くで、年は、」
そう言いかけると、そんなことはどうでもいい、とでもいうように手をひらひらさせ、給料や仕事の内容や注意事項を早口で言った。私がメモをとっている間、彼女はずっとカードをきっていた。ひと通り書き終えると、何か質問は、と聞かれた。私は少し考えてから口を開いた。
「どうして土曜日なんですか、」
すると彼女はカードをきる手を止め、ちょっとだけ驚いた顔でこちらを見た。
「よく土曜日だって分ったわね」
「学生時代、スペイン語をとってたんです」
そう答えると、彼女は「あっそ」と言って、足下から何かを抱き上げた。猫だった。
「土曜日生まれなの、アタシ。ただそれだけの理由。ね、サバド」
サバドと呼ばれた猫は、首に巻かれた黄色い鈴をチリンと鳴らして、彼女の腕をすり抜けた。
私はその日から働き始めた。こういう店で働くのは初めてだったし、調理師の免許を持っているなんていう嘘をついた後ろ暗さも手伝って、しばらくは溶け込むことが出来なかった。それでも、私の作るものを誰かが美味しいと大袈裟に驚いてみせてからは、少しずつ慣れていき、冗談のひとつも飛ばせるようになっていった。
ある日、店で伝票の整理をしていると、突然後ろから胸を掴まれた。びっくりして振り向くとクララさんがにやにやしている。
「女にしてはちょっと貧相なんじゃないのぉ。いい病院紹介してあげよっか」
彼女は大きな胸を揺すりながら豪快に笑った。
店の片付けを終えた頃、タロットカードを取り出しながら、彼女はぼそりとつぶやいた。
「サバドがここのところ姿みせないんだけど、アンタ知らない、」
かぶりを振ってみせる。
「そう。おうちに帰ったのかしら」
「へ、あの猫、ここの子じゃなかったんですか、」
「違うのよ。何ヶ月か前の雨の日にふらっと入ってきたの。ちょうど土曜日だったんで店と同じ名前で呼んでたんだけど。オスだったから結構可愛がってたのにさぁ、食い逃げとはね、やられたわ」
そう言って笑ったかと思えば、急に黙り込む。
「でも、ひょっとして寿命だったのかしら」
クララさんが入院したのはそれから半年も経たない頃だった。
「男部屋っていうのがまた気が利いてていいわよねぇ」
入院生活が始まると、毎日誰かしらが病室を訪れた。店が休みの月曜日ともなると、六人部屋はまるでどこかの大学のコンパ会場のような有り様で、看護士長に叱られるのはなぜかいつも私だった。野太い声のオンナノコの集団を、最初こそ奇異な目で見ていた同室の患者達も、いつしか取り込まれてしまい、毎週月曜日が待ち遠しいとまで言うようになっていた。ある時などは、店から機材を運び入れて、屋上でカラオケ大会を始めてしまい、大目玉をくらったこともある。それでいて、クララさんの部屋にやってくる病院職員たちは、皆いつもにこにこ笑っていた。
若草色のスカートをふくらませながら、クララさんは言う。
「土曜日生まれはね、特別なのよ。これまでの何回もの人生で得たことを、今生で人に与えるように生まれついてるの。でも損ばっかりじゃないのよ。むしろお得なの。だって土曜は週の最後でしょう。残り物には福があるっていうじゃない。アタシはこれまでずいぶん単位とってるはずだから、もう生まれ変わるのはやめて天女にでもなってやろうってわけよ。そういうつもりで生きてると、大概のことじゃ驚かないし嘆かないわ」
インドの神様っていうのも言い得て妙だったわけだ、と納得していると、不意に彼女は言った。
「アンタ、何から逃げてきたの、」
ギクリとしてその目を見つめていると、「あぁ、いいわいいわ。大方、暴力亭主とか借金とかでしょ」と、手をひらひらさせた。
公園までの道のり、私たちはジャンケンでグリコをしながら進んだ。クララさんは病人とは思えないくらい大声で叫ぶ。
「パイナツプルノカンヅメ!」
「チヨコレイトクツキイ!」
ずるいずるいと騒ぐ私たちを、道行く人は皆怪訝そうな表情で振り返ったが、ちっとも気にはならなかった。クララさんが歩くたび、風が柔らかく吹くたび、私たちの時間はゆっくりと流れた。公園の東端にある芝生のベンチまで辿りつくと、額にうっすら汗が滲んだ。体調を心配する私に、クララさんは「今日はすごく気分がいいから大丈夫」と力こぶを見せた。この時の彼女は、確かに以前よりはずっと痩せてはいたけれど、明るく元気で、とても重病を抱えた人には見えなかった。
実はね、と言ってクララさんがバッグから取り出したのは、ロゼワインのハーフボトルだった。それと小さなグラス二つ。
「どうしたんですか、それ。駄目ですよ、怒られちゃいますよ、私」
「いいの、二人で一杯ずつ。これっきりだから、ね」
クララさんに押し切られるまま、私はグラスを持たされた。ほんとに一杯だけですよ、と念を押すと、彼女はやれやれといった顔で、残りのワインをそばの植え込みに流してみせた。
乾杯、とグラスを合わせた時の音は、いなくなったサバドの鈴の音に似ていた。クララさんもそう思ったのかもしれない。
「あの子さぁ、どこかで生きてるわよね。ちゃっかりしたやつだもの」
彼女はそれから、子供の頃好きだった男の子のことや、おっぱいを大きくした時に泣いた話、隠し事が母親には全部お見通しであったことなど、ふだんは口にしない昔話を、ときに笑いながら聞かせてくれた。そうかと思えば、網戸の上手な洗い方やジャガイモが煮崩れないようにするコツなども教えてくれた。
母と娘が内緒話でもするならこんな感じなのかなぁ、と私は思った。
「さっきの話ですけど」
「何のことよ」
「何から逃げてきたのかって話。…私、母親の顔知らないんです」
二歳になる前に母親が蒸発したこと、やがて再婚した父親が母に似ているという私の顔をいつしか見なくなったこと、男の人との距離がうまくとれないこと、家を出て役所の戸籍課へ届けを出した帰りに偶然『サバド』の貼り紙を見つけたこと。そういうことを私は、憑かれたように話した。
クララさんは黙って聞いていたけれど、途中で不意に顔をあげると、メモしときなさい、と言った。
「ダフネオドラ」
「は、」
「もういやんなっちゃったって時は、金曜日まで部屋にこもって、カラッカラになるまで泣きなさい。そして、土曜日になったら、それを三回唱えて眠りなさい。そうすれば日曜日に人は生まれ変われるのよ。忘れないでね」
「それって何語なんですか。意味は、」
「そんなの知らないわよ。どうでもいいじゃない、そんなこと。呪文に意味なんかないでしょ。…それと、ほれ」
そう言うなり、クララさんは私の前にぬっと顔を突き出した。
「今日からこの顔がアンタのおっかさんの顔だよ」
少し痩せたひょっとこのような表情に不意をつかれて、私は吹き出してしまった。
すると彼女は目を瞑って鼻をひくひくさせた。
「それより、ほら、沈丁花のいい香り。アタシ大好きなのよ。新しい季節だよって教えてくれるから。支度を整えて、そらお行きなさいっていう香りなのよ。ちゃんと覚えときなさい」
その翌週の土曜日。
クララさんは起き上がることこそなかったが、見舞いに来た店の客にむかって、ツケがたまってるわよ、といつもの意地悪を言った。
皆がひけると、やはりいつも通り、私に身の回りの整頓をさせた。
そしてきれいになったのを見るとにっこり笑った。
「ん、上出来、上出来」
これがクララさんの最期の言葉だった。黄泉路へのドアは軽かったらしく、眠ったままの静かなさようならだった。
砂利の敷かれた細い路地の前方に、猫の丸いしっぽが見える。時折こちらを振り向いては先をゆく。
ふと気づくと、あの匂いがしていた。見まわすと、その辺りの生け垣はどれも沈丁花だった。
「サバドなの、ねぇ」
小道が緩やかな傾斜に入ったところで、彼は急に立ち止まった。そして、近くの塀の上へ飛び乗ると、つい、と首を伸ばして空を見上げた。不思議に思って同じ方向の空を見上げると、そこに見えたのは丘の上の煙突だった。
「ここでお弔いしてたのね、あなた」
彼は、ミャァと小さく啼いた。
──ほら、沈丁花のいい香り。アタシ大好きなのよ。新しい季節だよって教えてくれるから。支度を整えて、そらお行きなさいっていう香りなのよ。ちゃんと覚えときなさい──
あのひょっとこのような顔を思い浮かべて、私はくすりと笑った。
上出来だよね。ねぇ、サバド。振り向くと、彼はもう姿を消していた。
私は来た道を引き返し、皆のいる『サバド』へ向かって歩き出した。
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