第8話
ヤモリの木
中元彩紀子 |
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深夜のファミレスには昼間、あまり見かけることのない顔ぶれが集う。小さな顔をしたフィリピン人ホステス、金色のネックレスをした大男、茶髪の黒服…。ホステスのものだろうか、かなりきつい香水の匂いが、煙草や珈琲や料理の匂いにまじって鼻を刺激する。
「今日はずいぶんねばるね」
顔見知りのウエイターが珈琲をつぎに来た。
「すみませんね、珈琲だけで何時間も」
テーブルに広げた本とノートパソコンを眺めて、いいよ別に、と彼は苦笑いする。
「あと一時間くらいだから」
「俺もそのくらいであがりなんだ」
彼とは大学の授業でよく顔を合わせる。経営学通論だったか心理学だったかよく思い出せないが、耳にいくつものピアスをぶらさげているのが印象的だった。
ようやくレポートの結びの段階に入ったというところで、目の前でドサッと音がした。顔を上げると、彼だった。
「もう朝だよ」
背にした大きな窓を振り返ると、空はうっすらと明るくなっていて、街路に植えられた大きな里桜が目に入った。
「すごいピンクだね、里桜」
「桜?」
「あそこの木のこと」
「あ、あれって桜なんだ」
さして興味もなさげに、自分も珈琲を飲んでいる。
里桜は不粋だ。ソメイヨシノがはらはらとはかなげに散ったあとで、里桜は一枝にいくつものまりのような花房を密集させて元気に咲きはじめる。
「なんか桜にしちゃ、のーてんきというか。…死体は埋まってなさそうだな」
制服から私服に着替えた彼は、耳のじゃらじゃらをいじりながら窓の外を眺めている。
「キミ、香奈っていうんでしょ」
「そうだけど」
すると彼は、やっぱそうか、と言って、今度は私の本をぱらぱらとめくりはじめた。
「高校の時、妹が死んだんだ。そいつと同じ名前なんだよね、香奈って」
興味もなさそうに本をめくりながら、彼は言う。
「そうなの。…病気で亡くなったの、」
開いていた本をぱたんと閉じると、彼はそれには答えず、このあとどうすんの、と聞いてきた。
「病気の叔父に頼まれてる本を届けて、それから帰って寝る」
「ふぅん」
話題が続かず、私は冷たくなった珈琲を飲み干した。
「じゃあ、途中まで一緒に帰ろう」
彼は耳のじゃらじゃらをいじりながら立ち上がった。
夜明けのもんやりとした気配は長くは続かない。歩いているうちに朝日は顔を出し、街路のハナミズキを白く照らす。
「もうちょっと先に緑地公園あるでしょ。コンビニで朝飯買って食おうよ」
そう言って近くのコンビニへすたすたと入ってゆく。私はといえば、彼の名前はなんだっけ、とそればかり考えていた。
公園には缶ビールを握ったまま寝込んでしまった人が一人と、犬を連れた老人が一人いただけだった。
「ほら、あの木。何に見える、」
指差された方を見ると、葉のない木が緑の木々に埋もれて陰気に立っていた。
「ヤモリの木っていうんだ」
「ヤモリの木、」
「そう、ヤモリに似てんだろ」
いわれてみれば、両足を壁に這わせているそれに似ていなくもない。
「妹がさ、うちの庭で見つけちゃあ、とってきておふくろおどかしてたんだ。変わってんだよ、あいつ。ふつう女の子っていやがるだろ、トカゲとかそういうの」
頷くと、彼はサンドイッチをほおばりながら続ける。
「ある時さ、妹の引き出しの中に切れたしっぽが入っててびっくりして、聞いたんだ。そしたら香奈のやつ、なんて言ったと思う」
「わかんないよ」
「だっておにいちゃん、しっぽがきれたらまた生えてくるんでしょ。だったらしっぽからも体が生えてくるんじゃないの。だって」
そう言って、けらけら笑っている。
妹は死んだって彼は言った。幾つで亡くなったんだろう、何で亡くなったんだろう、隣で口をもぐもぐさせているこの人はなんていう名前なんだろう、なんでこんな話をしてるんだろう、睡眠不足の頭の中を疑問がめぐる。
「あいつ、庭でヤモリの屍骸を見つけると、必ず近所の木の根元に埋めて、アイスの棒立てとくんだ。ヤモリは家を守る動物だから、大事にしないといけないとか言ってさ。さっきのあれ、あれも一応桜なんだろ、」
「え、」
「店の前のピンクの木だよ」
「ああ」
「妹が埋めてた木も、あの木だった。桜だったとはさっき知ったんだけどね。やっぱ桜の下には死体が眠ってるんだなぁ」
その後も彼とは大学で顔を合わせたが、言葉を交わすことはなかった。いつものように耳をじゃらじゃらいわせながら、眠そうな顔で講議を聞いている彼を、私は時折盗み見ては、ヤモリと遊ぶ小さな少女を想像した。
「で、その男の子の名前はなんていうんだい、」
「まだ聞いてない」
そう答えると、叔父は咳き込みながら笑って言った。
「なんだ、俺はてっきり恋の相談かと思ったのに」
「そうじゃないよ。ただ、変わってる子だなぁ、と思って。大学入っていろんな人と出会ったけど、初めてしゃべったのにいきなりそんな話する人って変でしょう」
すると叔父は首を少し傾げ、考えるような顔をした。
「ひょっとしたら、だけどな」
「なに、」
「そいつはおまえの匂いを嗅ぎとったのかもしれん」
「どういうこと、」
「この世とあの世が交差する場所、とでもいうかな。大事なものを喪失した者が再び再生するときにはだね、何か徴のようなものがあるんだ。おまえはさしずめ、その媒介みたいなものだな」
「怖いこと言わないでよ」
「怖くはないよ。喪失の闇から這い出るきっかけをおまえは知らずのうちに連れてくるんだよ。…おかげで俺もすっかり体調がよくなった」
一人で納得して頷いている叔父に暇を告げる。
夜の大通りを自宅に向かって歩いていると急に気が変わり、私はファミレスへ足を向けた。
いつもより早い時間だったせいか、店内は人で混んでいて、落ち着いて本など読めるような状況ではなかった。帰ろうと踵を返し階段を降りかけると、下から彼が上がってくるのが見えた。
「よお、今日は早いじゃん」
混んでるからまたにする、と階段を降りてゆく私に彼は、深夜ならなんかサービスするよ、と言った。
ハナミズキの通りを抜けて、公園に向かう。路地を曲ったところで、前を女の子が歩いているのに気づいた。その前をゆくのが母親なのだろう。女の子は両手を後ろに組んで、時折スキップしたりきょろきょろしている。赤いスカートの裾がひらひらと踊っている。彼の妹もあのくらいだったのかしら、そんなことを考えながら歩を進めているうちに公園の入り口が見えてきた。
公園に入ると、まだ時間が早いせいか、ギターを弾く青年やスケートボードに興じる少年たちで広場は賑わっている。私は、彼らの前を通り過ぎ、あの日彼と朝ごはんを食べたベンチに向かった。ヤモリの木の正面、街灯の下で文庫本を広げる。遠くの喧噪が闇に響くと同時に、突風が吹いた。
ゴミが入ったのか、目が開かない。ハンカチを取り出して、目を拭いていると、不意に声をかけられた。
「泣いてるの、」
片目を開けてみたけれど、辺りには誰もいない。どこかの話し声が風にのって聞こえてきたのだろうか。再び、ハンカチで目をこすっていると、「ねえってば」と聞こえる。
ぼやけた視界の中に、赤いものが揺れてみえた。ちょうどヤモリの木のあたりだ。
「泣いてるの、」
さっきの赤いスカートの女の子だろうか。木の陰からちょこんと顔を出して、こちらを見ている。
「目にゴミが入っただけ…」
すると、その子は「そう」と言って、隣にきてベンチに腰掛けた。
「こんな時間に外にいたらおうちの人、心配するわよ」
「だいじょぶ。もう帰るから」
くりくりした目を光らせて、彼女は答える。こちらを見つめる顔があまりに人なつこくて、私は拍子抜けしてしまう。
「何読んでるの、」
「小説」
「面白い、」
「大学の教科書よりはね」
「大学って面白い、」
「面白いかなぁ…面白いわよ、いろんな人がいて。小学校は楽しいでしょ」
「うん。転入したばかりだけど、楽しい」
「転校生なの」
女の子は頷いて、それからゆっくりと立ち上がった。
「そこの木、ヤモリに似てるでしょ」
「え、」
ギクリとして顔を上げる。
「お気に入りなの。でももう来ないよ。おねえさん、優しそうで安心した」
彼女は、ヤモリの木まで歩いてゆき、寄り掛かっている。
「お兄ちゃんが見つけたの、この木。お兄ちゃん、この頃寝る前にお酒飲んじゃうから困るんだよね。酔っぱらって寝たら、夢が見られないのに」
「あなた、誰なの」
そう言いかけた瞬間、再び突風が吹いて、膝の上から本が落ちた。顔を上げて辺りを見回したが、そこにはもう少女の姿はなかった。遠くから聴こえるギターの音だけが、闇に響いている。
明け方近く、私はファミレスに向かった。まだ空は暗く、冷たい夜気に街中がひっそりと静まり帰っている中を一人黙々と歩く。
店の扉を開け、給仕する彼と目が合うと、彼は笑った。
「来ないかと思った」
「来たわよ。サービスしてくれるんでしょ」
本を読み終え、ぼんやりと外を眺めていると、彼がパフェを持ってきた。
「もうこれであがりだからさ、珈琲つきあってよ」
しばらくすると彼は私服に着替えて、珈琲を手にやってきて前の席に座った。
「夕べ、ヤモリの木のとこ行ってきた」
「あ、そう」
「妹さんて可愛かった、」
「え、」
彼はしばらくの無言ののち、そりゃあ可愛かったよ、と答えた。
「俺、妹の腕を切り取ってくれって医者に言ったんだ。もしかしたら、あいつが言ってたように、その腕からあいつがまた再生するんじゃないかと思ったんだ。医者のやつ、すげえ困った顔して精神科なんか紹介しやがったよ。今、思えば笑っちゃう話だけど」
耳のじゃらじゃらをいじりながら、まるで教授の悪口でも言うように、笑いながら話している。
帰り道、公園でまた朝飯でも食おうという彼に、私は首を振った。
「今日は帰ってすぐ寝るべきよ」
「なんで。じゃあ、今度うちに来なよ。いいもの見せてやるよ」
「いいものって、」
「ヤモリ。しっぽから生えてきた貴重なやつ」
吹き出す私に、彼は財布の間から写真を取り出して見せた。写真には、猫のような顔した派手なヤモリが写っていた。
「分った。だけどその前に、私あなたの名前も知らないんだけど」
やっと聞いてきたね、と言って彼は笑う。
「それも今度教えるよ」
彼は手を振って走ってゆく。
「ねえ!」
振り向いた彼に向かって叫ぶ。
「お酒飲んで寝たら、夢で会えないって。香奈ちゃんが」
一瞬驚いたような顔して、彼は笑顔で「わかった!」と叫んだ。
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