air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第9話

クローバーの約束

中元彩紀子

 大学の図書館で見つけた一冊の本。長らく貸し出されていなかったのだろう。開くとパリパリと小さな音がする。『魂の巡礼』なんて、およそ商学科には縁のないこの本を俺が手にとったのは、妹の香奈が夢に現れたのが遠因かもしれない。

 連休明けの図書館はふだんより人が少なく、司書の女性が二人と、学生が数人いるだけだ。カーペットの床は足音を吸収する。ひどく静謐なこの場所で、さっきから分厚い本と首っ引きになっているのは、同じ法人税法のゼミをとっている安田だ。
 彼に背を向ける形で離れた閲覧席に腰掛ける。
 バイトまでまだだいぶ時間がある。軽音の溜まり場に顔を出しても、今日は二、三人しかいなかった。おおかた、まだ田舎から戻ったばかりで休み気分が抜けていないのだろう。俺は両親とともに、香奈の墓参りを済ませ、二泊だけで戻ってきた。
 「そういえば香奈の夢を見たよ」
 両親にそう告げると、母は「あらっ」と嬉しそうな顔をした。
 「楽しいところにいるらしい」
 父は「そうか」と言って苦笑した。
 交通事故での突然の死。当初は悲嘆にくれていた両親も、数年の間にそれぞれに納得材料を見つけたのだろう。この頃は、妹の名を出すのもタブーではなくなっていた。そういう空気を会うたびに確認してほっと胸を撫で下ろす。
 「あの子もあっちで元気なんだわね」
 母は納得するように頷いた。

 「おまえが図書館なんてめずらしいな」
 後ろから肩を叩いてきたのは安田だった。ぼんやりと回想していた俺の手から本が落ちた。それを拾いながら表題に目を走らせて、安田は首を傾げる。
 「人は見かけによらないな。おまえがこんな形而上学的なもん読んだりすんの、」
 耳に下がるピアスを眺めている。
 「ちがうよ、暇つぶし。安田こそよく来るな。ここ落ち着かなくないか、静かすぎて」
 「この静けさがいいんだよ。静けさの中にこそ発見がある」
 「は。どういう意味、」
 すると安田は隣に腰掛けた。
 「あのな、毎日雑音の中で過ごしていると、聴こえてくるものや見えるもののどれもが、いつしかいっしょくたになっちゃうんだよ。ただの雑音」
 「それで、」
 「つまりさ、神の声は小さい。だから耳をすませろってこと」
 話が抽象的であるうえに神などという単語を出されて、一瞬身構える。
 「まあ、なにも静かな場所に行かなくてもいいんだよな。常に心を静寂に保っていられれば、雑踏の中でだってそれに気づくことはできる。ビルの壁面広告のコピー、いやに耳から離れずに残っているアナウンサーの一言、何気なく開いた本の一行…」
 「ふと気になったものは、自分へのメッセージだと、」
 安田はペンをくるくる回しながら、「まあ、そんなとこかな」と頷いた。
 「そいつの人生に必要な情報というのは、そいつが気づくまで何度かくりかえし現れるんだ。だから静寂を心掛けてないと気づけないってこと。気づかずにいるとあまり芳しい人生は送れないらしい」
 「…安田」
 「なんだ、」
 「おまえなんか宗教でも始めたんだろ。やめよけよ。それともなんか悩んでんのか、」
 すると彼は手を止め驚いた顔で顎を引くと、口を押さえて笑い出した。
 「ちがうよ。おまえがそんな本読んでるからさ。全部、でまかせ。わりと素直なんだな、」
 安田は、クツクツと肩を揺すって笑う。担がれたか。一瞬むっとする。
 「からかいついでに言うけどさ、おまえが今ここでその本を手に俺とこんな話してるのだって、必然なのかもしれないぜ。何事にも意味を見い出すなんて、面倒だけどな」
 ニヤニヤ笑う奴の肩を小突いて追っ払い、俺は立ち上がった。
 貸し出しカウンターで学生証を提示すると、司書の女性は無言で受け取った。彼女が情報を読み取っている間、俺はずっとその手首に巻かれたブレスレットを眺めていた。何が彫刻されているんだろう。目を凝らしたとき、
 「はい、返却期日は守ってね」
 彼女はこちらを一度も見ずに再びパソコンの画面に向かっていた。

 公園の雑踏を抜け、ヤモリの木の前のベンチで本を開く。まるで集中出来ず、一頁目から先に進まない。
 木々の間から緑を濃くしたハナミズキが見える。それを眺めながら、先週見た夢を思い出す。
 お墓になんていないから。香奈は夢のなかでそう言った。じゃあどこにいるのだと尋ねると、楽しいところ、と答えたような気がする。
 「また会えるのか」
 「いつかね」
 「いつかっていつ、」
 「あのね、みんなが安心してくれたらね、いつかまたちゃんと帰ってくるの」
 「約束するか、」
 「約束する。だからもう安心してね」
 「分ったよ」
 「約束だよ」
 「ああ」
 クスクス笑う香奈の声に、学校の始業の鐘が重なる。
 目覚めたとき、俺は悲しくもせつなくもなかった。ただ、嗚呼そういうことなのか、とすんなり受け入れていたような気がする。偶然、妹と同じ名前の同級生と知り合ったことで、意識の隅にずっと鎮座していた妹への思いが顕在化した。それが夢となって現れたんだろう。裏の中学校の鐘の音を聞きながら、そう考えた。
 再び本に目を落とし、読みかけたプロローグに目を通す。どこか遠い国の男が亡き妻に捧げて書いた旅行記らしい。亡き妻と心を同化させたいと切望する主人公が、妻が遺した日記や手紙をもとに彼女が旅した様々な場所を辿り、やがて妻の幻と出会う、そんな話のようだ。
 慣れない精神世界系の言葉に躊躇しながら読みすすめる。なかなか頭に入ってこず、だんだん文字だけを追うようになってしまう。そろそろ中断しようか。そう思って本を閉じかけた時、一瞬目の端を文字がかすめた。気になって閉じられない。頁に目を這わせると、それはすぐに見つかった。『約束』という文字だった。
──魂は巡礼を終えると再び舞い戻るんだよ。ちゃんと再会は約束されてるのにさ、みんな忘れちゃうんだね。だからそんなに悲しむんだ──
 サーカスの玉乗りピエロの台詞だった。
 約束。夢の中で香奈と交わした会話をぼんやりと思い浮かべながら、立ち上がる。バイトの時間だ。暮れかかる雑木林の向こうで、ハナミズキだけが白く浮かんでみえた。

 それから二週間、講議やレポート、軽音のサークル活動やらバイトに明け暮れ、結局本は読みかけのまま返却日が来てしまった。慣れない種類の本だった。このまま返そうと、図書館に向かう。
 返却カウンターでは、この前借りたときと同じ女性がパソコンの画面を睨んでいる。教科書だのノートだのがごちゃごちゃに入ったカバンに手を突っ込み、借りた本を探す。その間に、彼女がこちらに向き直った。早くしろと言っているのだろうか、その顔は怒っているようにも見える。焦って、乱暴に引っぱりだし、慌ててカウンターに置いた。
 「あ、」
 彼女は何かに気づいたように背表紙を上に返した。何か薄茶色のものが頁の間から顔を出している。
 「何かしら」
 「何でしょう」
 そっと頁を開き、彼女がつまみあげたのは押し花だった。
 「四つ葉のクローバーじゃない。はい」
 そう言って、こちらに差し出した。
 「あ、いや」
 「え、いらないの。じゃあ、もらってもいい、」
 急に華やいだ表情になった彼女にたじろぐ。
 「いや、俺のじゃないから」
 「あなたのじゃないの、」
 「はい」
 「最後まで読まなかったんだ。だから気づかなかったのね」
 ええまあ、と口のなかで答える。
 急に機嫌のよくなった彼女のブレスレットに目をやると、そこに彫刻されていたのは四葉のクローバーだった。こちらの視線に気づいたのか、彼女は手首に逆の手を添えた。
 「クローバーが好きなのよ」
 言い訳するように言う。
 「花言葉がたくさんあるし」
 クローバーくらいで上機嫌になった照れをごまかそうとでもしているのか、早口になっている。べつに興味はなかったが、先を促した。
 「へえ。たとえば、」
 聞かれてほっとしたのか、彼女は首を傾げて思い出しながら言った。
 「幸福、幸運、堅実、愛情 希望…。ほんとはね、夏至の夜に摘むと魔除けになるんですって。三つ葉はね、キリストの三位一体を表してて、四葉は十字架を表してるの。一枚ずつにそれぞれ名声、富、真実の愛、健康という意味もあるわけ」
 「はぁ、」
 「復讐、なんてのもあるわよ。クローバーはね、三つ葉や四つ葉だけじゃないの。一枚から十枚まであるんですって。葉の数が偶数だと幸福、奇数だと不幸っていわれてるの。ヨーロッパの田舎じゃ、五つ葉を見つけると病気になっちゃうんですって。怖いわね。でもね…」
 うっかり聞く姿勢を見せてしまったために、女の長話につきあわされてしまっている。そろそろ暇をちょうだいしようと、口を開きかけたときだった。
 「…が、約束なの」
 「え、」
 「だから、一番大切な花言葉は“約束”なの。たくさんあるそれらの意味をすべて叶えてあげようという神様の約束。そういう意味もあるの。クローバーには」
 約束。またも出くわしてしまったその単語に、少し戸惑う。夢のなかの香奈から、本のなかのピエロから、そして今はこの女性から。
 「あの、その本、もう一度貸し出してもらえませんか」
 「え、ああ、これ。いいわよ。リクエスト出てないみたいだし。これのお礼ってことでね」
 指先でクローバーをひらひらさせながら、彼女はパソコンに向かって再貸出の操作をしている。
 すると突然肩を叩かれた。
 「よぉ。見てたぞ。朝からナンパかよ」
 安田だった。
 「ちがうよ。でも安田のでまかせも案外バカにできないかもな」
 「じゃあ、うまいことひっかけたのか」
 そうじゃねえよ、と軽く小突いて、彼女から本を受け取り、俺はまたヤモリの木の公園へ向かった。
 ベンチに座ろうと腰をかがめたときだった。脚元に小さな白い花が見える。しゃがんでよくみると、それはシロツメクサだった。
 その下は一面クローバーだ。
 ずっとここにあったのか。妹の思い出に引き寄せられて来るようになった、このヤモリの木の場所に。
 香奈と交わした再会の約束。
 ──あのね、みんなが安心してくれたらね、いつかまたちゃんと帰ってくるの。約束する。だからもう安心してね。約束だよ──
 「なあ香奈。あんまり驚くようなことするなよ」
 苦笑しながら本を開く。
 妖しい玉乗りピエロが、魂の約束を主人公に思い出させようとしている。
 俺の足下では、クローバーが揺れている。

 
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