air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第10話

陸亀の案内

中元彩紀子

 大学の図書館で働く日々は静かで単調で、時に重労働だけれど、余計なおしゃべりをしなくてすむ環境は、私にはうってつけだった。先週のある日、本を返却しにきた学生からクローバーの栞をもらった。私は、それをしるしだと感じて、つい多弁になってしまった。久しぶりのおしゃべりだった。
 栞をくるくるさせながら、窓を開ける。湿り気を帯びた空気が頬をかすめる。じっと目を凝らしていると、極小の水滴が空中を舞っているように感じる。こういう天気の日は、私はつい入り口を探してしまう。脱走者の国の入り口。神隠しのようにいなくなってしまった人達は、今もどこかでひっそりと生きている。私はそんな風に空想する子供だった。大人になった今もそれは変わらない。
 今朝のニュースで行旅死亡人(こうりょしぼうにん)が取り上げられていた。
 「あーあ、入り口が見つからなかったんだな」 
 背中でアナウンサーのそつのないコメントを聞きながら窓辺に立っていると、庭の中央に植えられた紫陽花が、少し色づき始めたのに気づく。夫婦でアパートの一階に越して来たのは、小さくとも庭を自由に作れるからだった。高台にぽつんと立ったクリーム色のアパートは、私にとっての「入り口」だった。
 親の反対を押し切って結婚した夫は、今はどこかへ行ってしまってここにはいない。ケンカをしたわけでもなく、ある日突然姿を消した。もともと変わった人だから、というのは、周囲に説明する場合のセリフだ。戻ってくる気があるのか、それともどこかで行旅死亡人として記録されてしまうのか。
 「僕も自由、キミも自由」それが彼の口癖だった。だから私は彼を待つでもなく、探すでもなく、そして泣くこともなくただ、このアパートで今も静かに暮らしている。

 「その入り口ってのはあなたがよく出かけるガラパゴスとかマダガスカルとかゴビ砂漠とかにありそうな気がするわ。なんとなくだけど」
 「違うよ。日常のなんでもない風景のなかにそれはあるのさ、きっと。そんな特別な場所になんかないと思うね。…キミはそこへ行きたいの、」
 「べつに。そういうわけではないけど、それがあると思うと、少しほっとするだけ。チケットも持ってないし」
 「チケットがいるのか、」
 「たぶんね」
 じゃあ、これをあげるよ。笑いながらそう言って、夫は四葉のクローバーを模した銀のブレスレットをくれた。私は、くだらない話につきあってくれたことにも、チケットを手に入れたことにも喜んだ。
 彼はその数カ月後、そのガラパゴスだかマダガスカルだかゴビ砂漠だかへ向かったきり、帰ってこない。ひょっとして今頃、脱走者の国でのんびり絵を書いたり、イグアナと遊んでいるのかもしれない。エキゾチックアニマルを、現地まで行って仕入れて来る仕事を生業としていた彼は、透明な体をしたカエルとか、冠をかぶったトカゲとか、ピンク色の帯をしめたヤモリとか、そういうものを専門としていた。
 いなくなる前日、甲羅がズレているために買い手がつかなかった陸亀を、連れて来た。
 「こいつはギリシャリクガメっていってね。甲羅の模様がギリシャ絨毯のようだからそう呼ばれてるんだ。目が真ん丸だからオスかな」
 手の平に乗るほどの小さい陸亀で、それは彼の膝のうえであくびをしていた。翌日から、彼とひきかえに亀は私の家族になった。

 幼い頃、私の家の近くには空き地があって、そこにはたくさんのクローバーが生えていた。その一角に、四葉が密集してはえている場所があって、それを教えてくれたのが叔父だった。叔父は厳格な兄弟のなかで一番奔放な人だった。モンゴルの山奥へ何かの修行に行ったり、中東の国へ妖しいものを仕入れに行ったり、何を仕事にしているのかうちの両親でさえも知らなかった。
 「マリ、お前にだけ教えておこう。叔父さんは実は脱走者なんだ」
 脱走という言葉がぴんと来なかった私は、首を傾げた。
 「脱走ったって、何か悪い事をして逃げているわけじゃない。この渾沌とした場所からいつか脱走する者ってことさ。この世には、そういう連中が集まる秘密の国がある」
 私は、転校していってしまった同級生や、急に引っ越してしまった隣の家族の顔を思い浮かべた。
 「そこは楽しいの、」
 「さあ、どうだろう。だけど、少なくとも今よりは生きやすいと思うがね」
 「どこにあるの、その入り口」
 すると叔父はうーんと唸って、こう言った。
 「行くべき者にはそれ相応の徴があるんだと思うな。それがチケットだ。それかきっと、案内人が現れるのさ」
 「マリのところにも来る、」
 「それは分からない。だけど、もしマリが脱走したくなったら、オレが案内人を送ってやろう。この四葉は約束の徴だ」
 そう言って、叔父はカラカラと笑った。
 叔父はきっとその案内人に連れられて、今頃その国にいるのかもしれない。両親は叔父がいなくなってから、時折、行旅死亡人の情報を調べていた。だけど、私は知っている。叔父はどこかで生きている。妖しい生き物を追いかけて行ってしまった夫もまた、そこで暮らしているのかもしれない。
 「しまった。ついて行くんだったな」
 私はそうひとりごちた。

 休日は亀の散歩に出る。近所の緑地公園にはクローバーやタンポポなど、亀の好物がいっぱいだ。紫外線に当てないと甲羅が健康に育たないと教えられて、休日は公園に連れてくるようになった。子供の遊ぶ遊具がないからか、人気は少ない。
 「あら、亀」
 大きな楽器のケースを抱えた女性がこちらに寄ってくる。チェロ奏者なのだろうか、それとも音大生か。
 「なまえなんていうんですか、」と尋ねられ、困惑した。名前はつけていなかった。
 「名前はないの。つけてくれる、」
 彼女はしばし考えた後、「ヨースケ」と言った。
 「ヨースケ。いい名前ね。ありがとう」
 「うちの犬はコースケっていうの。だから」
 にこにこ笑って、タンポポをはむ様子を眺めている。
 ヨースケ。そういえば叔父の名前も陽介だった。
 「これって陸亀ですよね。海亀は竜宮城へ連れていくけど、陸亀は約束の地に連れていくんですって」
 「約束の地、」
 「よく行く喫茶店のママが言ってました。ほんとかどうか知らないけど」
 それだけ言うと女性は立ち上がり、会釈をして去っていった。ぼんやりその姿を見送って、ふと足元をみると亀がいない。慌てて、周囲に目を走らせると、欅の木陰に向かって歩いているところだった。少し目を離した隙に、驚くほど遠くへ行ってしまう。亀の歩みは案外早いのだ。
 「どこ行くの、ヨースケ」
 ついたばかりの名前を呼ぶと、偶然だろうか、一瞬立ち止まりこちらを振り向いた。いつになく早足で茂みの方へと向かっていく。雑木林に入ると、足元は芝生から土へと変わった。
 ゆっくり後をついてゆくと、急に視界が開けた。目の前に小川が流れ、その向こうに田んぼが広がっているのが木々の隙間から見える。ヨースケは、というと、またも姿を消している。慌てて周囲を見回した時だった。
 「何か探し物かい、」
 不意に尋ねられた。驚いて顔をあげると、逆光でよくは見えなかったが、初老の男性らしいことがその声と輪郭で分かる。手で光を遮りながら、「ええ、」と答える。
 「陸亀がいなくなって」
 「大事なペットなのかい、」
 「ええ、まあ」
 「そいつなら大丈夫だ」
 「はぁ、」
 少しおかしい人なのかもしれない、と警戒する。
 「それより入り口はあっちだよ」
 私が来た方角を指さしている。私がそちらからきたのだと知らないで教えてくれたんだろうか。少しずつその人から距離をとっていた私は、ありがとうございます、と顔も見ずに会釈した。私はヨースケの姿を見つけようと地面に目を凝らしていた。その時、
 
 「探し物は、必ず帰ってくるよ。それが必要なものならね」

 その声には聞き覚えがあった。遠い記憶のなかにある叔父の声によく似ていた。そんなはずはないと、振り返るともうその人の姿は消えていた。
 入り口はあちら。探し物は帰ってくる。それが必要なものならば。私はそれを頭のなかで繰り返しながら、来た道を戻る。地面に目を凝らしながら、ふたたび公園内の芝生へ出た。すると、クローバーの密集しているあたりで、茶色いものがごそごそと動いているのを見つけた。ヨースケだった。まるでさっきからそこにいたかのように、草をはんでいる。拍子抜けすると同時に、私は胸をつかまれたようにはっとした。
 しゃがんでヨースケをじっと見る。
 「あんたが案内人なの、そうなの、」
 ──もしマリが脱走したくなったら、オレが案内人を送ってやろう。この四葉は約束の徴だ──
 ヨースケは呑気にクローバーを食べている。

 頭のなかが茫洋としたままアパートへ戻ってきた。鍵を開けようとドアノブに手をかけたとたん、扉が開いた。
 「おかえり」
 夫だった。
 「どこ行ってたのさ、」
 私は呆然としながらも、「亀の散歩」と答えた。
 突然帰ってきた夫に驚きながらも、ひょっとして夫の不在はたった二日か三日くらいだったのではないかと錯覚するほどのあっけない再会だった。
 ヨースケと命名したことを夫に告げながら、陸亀をケージに戻す。ヨースケはこそこそとシェルターのなかに入っていった。
 「もう帰ってこないんだと思ってた」
 すると夫はきょとんとした面持ちで、こちらを見た。
 「言わなかったっけ。今度のところはずいぶん奥地でね。通信手段がなかったんだよ」
 「そのうち、脱走者の国へ行っちゃったんだと思って諦めることにしたの」
 すると夫は声を上げて笑う。
 「僕らにとってはここが脱走者の国じゃないか。すこぶる居心地がいい」
 そう言って笑っている。
 「そういえばね、あっちで変な日本人に会ったんだ。現地で暮らしてるらしいんだけど、自分は脱走者だって言うんだよ。キミみたいなこと言うからびっくりしたよ。自由きままな生活はいいぞって、しきりに誘うから困った。おまえの約束の地はどこだって聞くから、カミさんのいる場所だって答えたんだ。そしたら、今度はカミさんを連れて来いってさ」
 「その人、なんていう名前、」
 すると夫は首を傾げて、「聞くの忘れた」と言った。
 「なんとかいいなさいよ、ヨースケ」
 ゲージのなかを覗くと、ヨースケはシェルターのなかで大きな大きなあくびをしていた。

 
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