第11話
砂漠の青い石
中元彩紀子 |
 |
大学の掲示板でみかけた一枚のビラがきっかけだった。
『音楽ボランティア求む』
教会の名前が記されたそのビラは、掲示板の隅のほうに貼ってあった。ボランティアに興味があったわけではない。ただ、教会がうちの近くであったのを思い出しただけだ。それと、まだ人前で演奏するだけの度胸がついてない自分には、まったくの素人であろう人達の前ならなんとかなるのではないか、とも思った。
緑地公園を抜けて駅までの近道をする。
途中、芝生の上にチェロを置いて休もうとしたとき、目の前を亀が歩いているのが目に入った。飼い主らしき女性はうつろな目でこちらを見、私の持っていた尋常でない大きな荷物に訝し気に視線を移した。犬を連れた人に話し掛けるような気安さを装って、その亀の名前などを尋ねた。なんでもない会話を終え、ほっとする。人と話すのが苦手な私にとって、これは小さな賭けでもあった。これがうまくいけば、明日の演奏もきっとうまくいく──。再び立ち上がると少し目眩がした。口のなかが渇いている。
電車にのるのは久しぶりのことだ。見知らぬ人が乗り合わせる空間に、一時間以上もいられるだろうか。大きな荷物に不躾な視線を浴びせる人もいるだろう。話し掛けられたらどうしようか。そう考えたとたんに嫌な汗が出て、私は公園出口の石段にしゃがんでしまった。明日、私は初めて見知らぬ人たちの前でチェロを演奏する。
チェロは人の声に近い音域と豊かな表現力がある。その穏やかで落ち着いた音色は、聴く者よりむしろ弾いている私を癒してくれる。その低く柔らかい音を初めて聴いたのはもっと幼い頃のことだった。おそらく母は教会のバザーの手伝いにでも出かけていたのだろう。父を病気で亡くして以来、母は教会にばかり出かけていた。誰もいない家のなかにいるのが不安で、窓を開けて庭に出たとき、どこからともなく聴こえてきた旋律。それがチェロの音色であるとはまだ知らなかった私は、何か特別な存在が低い声で自分を慰めてくれているのだ、と感じた。
大学に入学して何週間か過ぎたある雨の日の午後、私は敷地内のどこからかあの懐かしい音色が流れてくるのを耳にした。何万粒もの細かい雫の隙間を縫って、それは私にだけ届いた旋律だと確信した。行き交う人々は自分達のおしゃべりに夢中だった。音の出所を探り、ふらふらと歩いてゆくと、構内で一番古い校舎に辿り着いた。ドアを静かに開けてなかを覗いてみると、ひとりの女性が椅子に腰掛けて、大きな楽器を弾いているのが見えた。同じ所で何度もつっかえては、その人はまた最初から弾き直した。その人からはドアが視角を外しているのをいいことに、私はそのまま目を瞑って音に耳を傾けていた。再び彼女はつっかえ、音は止んだ。次に聞こえてきたのは、人の声だった。
「あの。何か、」
驚いて目を開けると、彼女はこちらを向いていた。どぎまぎしてしまい、何をしゃべったのかはよく覚えていない。ただ、彼女は私を排除するでもなく、穏やかな声で「できればドアを閉めてくださると助かるんですけれど」と言った。私が言われた通りにすると、彼女は微笑んで再び楽譜に目を落とし演奏を始めた。窓の向こうには真っ青な紫陽花が咲いていた。
あのとき、私から言葉を発したのはおそらく一言。
「それはなんという楽器ですか」
彼女が楽譜を閉じるのを待ってそう尋ねた。
「これはチェロです」
まるで中学校の英語の教科書に出てくる例文のような会話だったけれど、これは私が大学に入ってはじめて交わした自発的な会話だった。こうして私はチェロと正式に出会った。
いつのまにか眠りこんでしまったらしく、目覚めると辺りは暮れ始めていた。今から電車に乗ったのでは、混雑時にぶつかってしまう。体調と精神状態を考えて、前の晩から現地の養護施設に入る予定でいた。私はケータイを取り出して施設に電話をした。
「やはり明日の朝一番でそちらに向かいます」
そう伝えると、電話に出た職員からは意外な答えが返ってきた。
「夜遅くの到着でもいいのですよ。時刻表をごらんなさい。おそらく下り電車は十一時台にもあるはずです。それなら乗客もほとんどいないでしょう」
まるで私の危惧を見透かしたかのような提案だった。私は電話を切り、石段から腰を上げた。人気のなくなった公園内まで戻ると、そこは楽器の練習場所としてはうってつけの静けさだった。自分のために誂えたかのような空間で、私は演奏予定の曲目を練習した。目の前に広がる芝生に点在するクローバーやタンポポの一つひとつが、視界の隅で人の形を帯びる。そんな物言わぬ観客の前で私はひたすらチェロを引き続けた。
下り電車は施設の人の言う通り、深夜まで走っていた。十一時をまわってすぐにやってきた電車の最終車両にはほんの数人しか乗っていなかった。その彼らも、途中の駅で一人二人と降りてゆき、新たに乗ってくる人は皆無だった。私とチェロだけが残された車両。シートの紺と床のグレーのコントラストは車内をいっそう寡黙な雰囲気にしていた。おまけに短いトンネルを抜けるごとに山深くへ入ってゆくようで、外に灯りはほとんど見えなかった。車窓は鏡のようだった。左右と合わせて三人の私が顔を見合わせる。合わせ鏡はそのさらに奥にもうっすらと私の影を浮かばせる。深夜の電車は前後左右に仄暗い世界を広げていた。ドアが開いても入ってくるのは夜風ばかりだと思っていたから、幾度目かの停車で足音が聞こえたときは一瞬身が縮まった。
その男の人は私いる座席とは通路を挟んで反対側の座席に腰かけた。はす向かいに対面するように座ったその人はこちらには目もくれずに本を広げた。こんな時間から旅にでも出かけるのだろうか、硬質な四角い皮の旅行カバンを足元に置いている。年令は分からない。五十過ぎにも見えなくはないし三十代だと言われれば信じてしまいそうな不思議な面立ちだった。目的の駅まではまだだいぶある。知り合いではないのだから沈黙に気詰まりする必要などないのに、私は身を硬くしていた。窓に映った彼は、水色のシャツにグレーのズボンをはき、麻のハンチング帽を目深に被っている。麻のハンチング帽? どこかで見覚えがある。ひょっとしたら父が生前被っていたのかもしれない。思い出そうとしていると、不意に本を閉じる気配がし、明らかな視線を感じた。彼はくすっと笑いかけた後、それを打ち消すような大きなせき払いをした。
「あの、ちょっといいですか、」
私は縮こまったままおそるおそる振り向いた。正面から見たその人の目は帽子のつばでよく見えなかった。けれど、ほころんだ口元と、丸みを帯びた低い声色に私は幾分警戒をといた。
「チェロですね、それ」
前に立て掛けたチェロを指さしている。消え入るような声で、はい、と頷く。続いて、演奏旅行なのか、どこまで行くのかなどを尋ねられた。緊張しながらも一つひとつ答える。
「そうですか、ボランティア。…それにしてもチェロとはいい楽器を選びましたね」
「いい楽器、ですか、」
「そう。チェロの音は人の声です。聴く者も奏でる者も同時に癒す楽器です。もっとも私は聴くばかりですが」
私は自分の心がゆるゆると溶けてゆくような感覚を覚えた。
彼は、その穏やかな声の調子のまま話題を変えた。それは砂漠の話だった。
「砂漠に降る雨の音を私は聴いたことがあります。最初は何の音も聞こえませんでした。
何故だかわかりますか。あの永遠に続くのかと思える広い砂漠の砂たちが、その雨に触れたとたんに吸い取ってしまうからです。
私は耳を済ませました。すると聞こえるんです。なかなか口では表現できませんがね。たとえるなら、赤ん坊の頃の寝息とでも言いましょうか。そんなはかなげな小さな音です。どんな小さな音でも、耳を澄ます者がいるかぎり、その音は空しく宙に消えてゆくということはありません。
そして、その音が染み込んだ砂の奥深くには美しい石が誕生します。その砂漠の民の間でその石は、父から子へと譲り渡されてきました。父親がいない人には部族の長が与えるのです。愛する者との一体感を得られる石、旅人の守護などの意味があるそうです。人生の途中で漠然とした不安に襲われそうになったとき、子供たちはいつも眺めるのです。そばに誰かいなくても自分は一人ではない、大丈夫。そういう安心感を得るためにね。あの静かな赤ん坊の寝息のような雨音は、子供たちのために砂漠の底に吸い込まれていったのです。
静かな音はそうやって誰にも気づかれることなく美しいものを育んでいたんですね。ですから、あえてその音に耳を傾ける人々がいてくれるのならば、なおのことその音は誇りをもって彼らの耳に届こうとするでしょう」
彼の低く柔らかい声は、幼い頃に聴いた子守唄のようだった。このままその音をもっと聴いていたい、と思ったとき、車内アナウンスは私の降車駅の名を告げた。立ち上がってチェロを抱えた私に、彼は何かを差し出した。
「これを差し上げましょう。明日の演奏はきっとすばらしいものになりますよ」
遠慮する私の手をとり、彼はそこに小さな石をひとつ握らせた。きれいな水色のトルコ石だった。
「ありがとうございます」
「どうかお元気で」
ドアはシューッといって私を外界へと押しやった。
電車はゆっくりと動きだす。
さっきまで自分がそこにいた車内に目をやると、彼は再び本を広げていた。その姿が見えなくなる直前、彼はついと帽子のつばを上げてこちらを見、微笑んだような気がした。
一瞬のことだった。
「お父さん、」
思わず口をついて出た言葉だった。
そんなことがあるはずがない、と思いながらも、私は掌を広げ、そこに触れたあの不思議な人の温度を再び思い出そうとしていた。
──そばに誰かいなくても自分は一人ではない、大丈夫──
父が子に伝承するというその石は、澄み渡る青空のような色をしていた。
それは相槌を打つように、私の手のなかでころんと転がった。
|