air BE-PALスペシャルコンテンツ「虹の幻灯譜」
第12話

紫陽花日和

中元彩紀子

 梅雨の晴れ間に行われた中庭でのバザー。同時に行われるボランティアによる音楽会や大道芸は、娯楽の少ない園の子供達にとっては大きな楽しみのひとつだ。
  音楽会には子供たちや職員も参加する。自分の出番が終わり緊張の解けた子供たちは、クッキーやマフィンを持って芝生に座っていた。もっと小さな子供たちはカスタネットをカタカタさせたまま追いかけっこをしている。嬌声が上がると、それをたしなめる大人の声が響く。和やかな土曜の昼下がりだった。
  前の晩、緊張しきりだったチェロ奏者の学生に声をかけると、思いの外元気な返事が返ってきた。「大丈夫です。私にはお守りがあるから」。そう言って、お守りを忍ばせているらしい胸ポケットを軽く叩くと、彼女は舞台となる噴水の前に向かった。
  音楽会の締めくくりは、彼女のチェロと、そしてハルキさんの弾くバイオリンの二重奏だった。最後の曲目の『アベマリア』まで、私はずっとハルキさんを見ていた。彼の顎、肩、指の動きは、旋律に合わせて厳かに揺れていた。そんな彼の奏でる繊細な音を支えるように、チェロが低く柔らかな音色を放つ。今朝の練習の後、ハルキさんが彼女に言っていた言葉を思い出す。
  「まるで芝生の上で寝転んでいるみたいに心地いいよ。僕はそこで子供のように駆け回ればいいだけだ。上手くいくといいね」
  ふたりの奏でる音色に包まれながら、軽い嫉妬を覚えた。私は視線をハルキさんから、中庭をぐるりと囲む紫陽花の青へ移した。その青もあまりに強く瞼に迫ってくるので、私はもうどうしようもなくなって、目を閉じた。

 小学校と中学校を園から通い、働きながら高校と大学の夜学を出、自分の育った園で働くようになって五年が経つ。ハルキさんは園の母体である教会の息子だった。今は大学で助手をしている。園や教会の催しがあると彼は必ず顔を出してくれていた。
  彼は自分にだけ親がいることを子供ながらに意識し、しかもそれが私たち園の子供への憐れみとはうつらぬように気を配って接していた。食事はいつも園で一緒にとっていたし、私たちの前では、両親のことを皆と同じように先生と呼んでいた。だからこそ、彼を兄のように慕うのは私だけではなかった。それでも、夜になると両親と生活する母屋へ帰ってゆく彼の背中を見るときだけは、私は言い様のない寂しさと不安とを感じていた。嫉妬していたのかもしれない。彼も孤児になってしまえばいいのに、などと考えては神様に慌てて謝る。私はそういう寂しい子供だった。
  六才で園に来た私は一切口をきかなかった。大人の誰もがあきらめかけた頃、砂場の縁で折り紙をひとりで折っている私の横へ彼はやってきた。彼は何も言わず、一緒にただ黙々と折り紙を折っていた。私が鶴ややっこばかり折る横で、彼は大小様々な花を折っていった。青、紫、赤紫、ピンクのそれらの花がどんどん積み上げられていく。
  「バザーの看板に貼るんだ」
  彼がやっと口を開いてくれたのは嬉しかった。同時に、ずっと黙っている私がしゃべったらどう思うだろう、そう思ったのを覚えている。しばらくすると持ってきた折り紙がもうなくなってしまった。彼が立ち上がる。行ってしまう。そう思って焦った。
  「それ、なんていう花、」
  振り返ったハルキさんの顔は逆光で見えなかったけれど、微笑んでいるのが分った。
  「茜ちゃん、やっとしゃべってくれたね。紫陽花だよ」
  これが、私とハルキさんの出会いだった。

 ある日、中学校から園に帰ると、いつも夕食時にいるはずのハルキさんの姿が見えないことがあった。お祈りの文句も上の空だった。本当は解っているのだけれど解らないフリをして、夕食後はいつも勉強を教えてもらっていたのだったが、その日は夜になっても彼の姿は見えなかった。ベッドに入っても寝つけず、暗がりのなかで、私は窓から母屋の方を眺めていた。二段ベッドの下からは同室のエミちゃんの寝息が聞こえている。再びベッドに戻ろうとしたとき、かすかな金属音を聞いたような気がして外を振り返った。眼下に見える母屋の裏門の音だった。門扉を静かに開けて出てきたのはハルキさんだった。そして隣には見たことのない女の人が一緒だった。街灯に照らされたふたりは何もしゃべっていなかったけれど、互いに秘密を共有しているかのような笑みを浮かべて顔を寄せあっていた。私は硬直したまま、遠ざかっていくふたりの姿を見ていた。
  「しょうがないよ、茜…」
  いつのまにか後ろにエミちゃんが立っていた。
  「あたしたちは、あっち側には行かれないんだから。あきらめな。こればっかりは祈ったってだめ」
  エミちゃんは私の肩に手を置いて、そう言った。指先に頬を寄せると、その手はひどく冷たかった。エミちゃんの言う「あっち側」とこっち側を分ける見えない境界線は誰が引いてしまったんだろう。そう思った。

 音楽会は終わり、ボランティアの大道芸人たちが玉乗りをしたり、スティックを投げたりして子供たちの歓声を浴びていた。そのなかにはハルキさんも混じっていた。
  「ここのお庭は見事ねぇ」
  ぼんやりしていた私の隣に、紅茶のカップを持った女性が腰掛けていた。淡いピンクのニットを着た、銀髪の老婦人だった。
  「え、」
  「紫陽花ですよ。西洋紫陽花」
  ああ、紫陽花。青の群れ。
  「そうですね。ここにはピンクはひとつも咲かないんですよ、昔から」
  目でハルキさんの姿を追いながら答える。
  老婦人は手首を上品に傾けて紅茶を一口すすると、言った。
  「紫、ピンク、青、白、いろいろあるけれど、花の色は酸性土壌だと青みが強くて、アルカリ性土壌だと赤みが強く出るんですって」
  「お詳しいんですね」
  「若い頃、一度だけフランスに出かけたことがあってね。そこで見た紫陽花の群れはたしかどれもピンクだった」
  「綺麗でしょうね。青よりピンクの群れの方が明るい感じでしょうね。青はなんだか陰鬱で。…フランスですか。私なんてまだ一度も外国へ行ったことないんです」
  そう、と老婦人は頷く。この歳で若い頃に外国へ出かけるとなると、よほどいい家の娘だったに違いない。
  「私が外国へ出たのはそれ一度きり。それも駆け落ちで」
  「駆け落ち、」
  予想もしなかった言葉に、私は思わず彼女の顔をまじまじと見つめ、聞き返した。すると彼女は心持ち頬を上げて、子供たちの方に目をやった。
  「あすこに大道芸のピエロさんがいるでしょう。彼もそうだったの」
  真っ赤なアフロヘアに赤鼻のピエロが、今は子供たちにお手玉を教えている。
  「彼はね、手品やパントマイムが得意な役者だったの。何にもないところを彼が指さすでしょう。すると、そこに箱が現れるのよ。目には見えないけれど、それは確かに箱なの。それを彼はゆっくりと持ち上げて、フタを開ける。彼はなかを覗いておおげさに驚くの。そして、少しはにかんだ顔をしてなかに手を入れる。その手をくるりと一回転させると、一輪のバラが現れたのよ。本物だから今度は目に見える。彼はひざまずいて、うやうやしくそれを私に差し出したの。そして、その半年後、私たちは船に乗っていた」
  「それが今のご主人ですか、」
  すると彼女はかぶりを振った。そして、ゆっくりと静かに話し始めた。
  「あちらでの生活は貧しかったけれど、楽しかった。何もなくったって彼は何でも見せてくれた。テーブルの上にはたくさんの御馳走、クローゼットには綺麗なドレス。他の人には見えないけれど、私は彼の手のなかに何でも見ることが出来たの。そうやって私たちは豊かに幸せに暮らしていたの。
  ある日、粗末な芝居小屋で彼の演目を一番後ろで見ていたときのこと。彼の芸もその頃にはなかなか評判が良くてね、その日は満席だったわ。彼はすばらしい芸を次々と披露して、人々はみな笑い、私はいつもよりもっと幸せな気分だった。そして、最後に彼がいつものように手をくるりと一回転させると、手のなかから小さなはつかねずみがちょこんと鼻先を出したの。その時よ、背後から腕を掴まれたのは。
  父だった。私を連れ戻しに来たの。父は彼を一瞥した後、私を小屋から引きずりだそうとした。小さな芝居小屋だもの、舞台の彼もそれに気づいたわ。私は引きずりだされる瞬間、彼を振り返った。ぽつんと立つ彼の手からはつかねずみがすり抜けていくのが見えた。すると、彼は両手の人さし指をゆっくりと頬に当て、黙って何度も涙を流した。観客の拍手は小屋の外へも響いていたわ」
  私は、スポットライトのなか、ひとりぽつんと佇んだまま涙のジェスチャーを繰り返す青年を思い浮かべた。彼はその日が来るのをひょっとしたら知っていたのかもしれない、と思った。
  「それから彼とは、」
  「会わずじまいよ。生きてるのかも分からない。だけど、きっと幸せに違いないわ。だって、彼はたくさんのものを生み出す人だもの。…ただ、私にあって彼になかったものがひとつだけ」
  「何ですか、」
  「家柄。どうでもいいものよ。こんなこと言うと、傲慢に聞こえるかしらね」
  「いいえ」
  「当時はね、そういうことが重んじられていた時代なの。だけど、今は違うわ。育ちだとか家柄だとかそんなもので引け目を感じる時代じゃないもの」
  そう言って、老婦人はまた一口紅茶をすすった。噴水のそばでは、ピエロが取り出した風船をキリンや犬に変えてゆく。子供たちが手を伸ばす。ハルキさんも一緒になってはしゃいでいる。
  「ああ、本当に綺麗」
  庭をぐるりと見渡して彼女はため息を漏らす。
  「青くなりたかったらそういう場所に、赤くなりたかったらそういう場所に根を張ればいいことだったのよね。生まれついた場所で自分を決めてしまうなんて愚かなことよ」
  私はただ、ずっと彼を見ていただけだ。「あっち側」が遠くて遠くて、ただその健やかで幸せな風景を眺めていただけだった。向こうから見えない境界線を越えてやってきてくれるのを待っていた。
  「紫陽花の花言葉はね、フランスでは“辛抱強い愛”っていうの。どうしてか分かる、」
  「いいえ」
  「長く長く咲き続けるからよ。あなたに似てるわね」
  私がぽかんとしていたからか、彼女はころころと笑って言った。
  「だってあなた、いつも彼のことを見てるんだもの」
  慌てて否定したが、彼女はそれには応じず、耳に口を寄せて「教えてあげましょうか」と囁いた。
  「彼もあなたを見てるのよ」
  顔を上げ、ピエロたちの方を見るとハルキさんがこちらを見ている。老婦人に背中を押され、促されるまま私は歩き出した。
  「あの、」
  振り返ると老婦人が笑っている。
  「なあに、」
  「そのピエロさんと一緒になれなくても、幸せな人生でしたか、」
  彼女は深く頷いて、もちろん、と答えた。
  紫陽花がひと房、ふるっと揺れたような気がした。

 
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