第13話
森のピエロ
中元彩紀子 |
 |
工場の夜勤を終え、詰め所の片隅に置かれた長椅子で仮眠を取り、戻ってきたのは昼過ぎだった。コの字の形に建てられたアパートには中庭がある。西側の棟の二階の一室が僕の部屋だ。中は日中の日射しと湿気で蒸していた。窓を開けると、一匹の蠅がほうほうのていで飛び出していった。
僕はシャワーを浴び、中庭へ出る。芸の練習をするためだ。ドクダミの茂った庭のまん中でジャグリングやアクロバットを繰り返していると、東棟の二階の窓から声がした。
「暑いのによくやるねぇ」
松田さんという女性だ。僕が、こうして中庭で練習をしていると、いつも声をかけてくる。
「松田さん、仕事は、」
「暑いからやめやめ。アイス食べなよ、」
ぽーんと放り投げられたそれを、くるりと一回転半して背中で受け取ると、松田さんはけだるい拍手をくれた。
「うまいうまい。もっとやってみなよ」
丸椅子を重ねてその上で逆立ちをし、その姿勢のままアイスを袋から出し、口にくわえてみせる。
「見事見事。でも、ピエロって金になんの、」
「なりません」
すると松田さんは、両肩をすぼめて白人のような仕種をおおげさにしてから窓を閉めた。
僕はそのままの姿勢でしばらくアイスをかじっていた。額から汗が吹き出す。七月に入るなり、季節は梅雨からきっぱりと夏に変わった。
「森まで行くか」
ひとりごちたとたん、椅子から転げ落ちた。
僕のもう一つの練習場所は、近くの山の麓にある渓流沿いの森のなかだった。玉野フィッシングセンターと書かれた看板を通り過ぎ、釣り場の親爺に声をかけると、いつもの返事が返ってきた。
「また練習かい。たまにはオネエちゃんでも連れて来いよ」
釣り場となっているエリアに入るには、入場料を払わねばならないのだけれど、僕の場合はそのままスルーする。稽古にちょうどいい場所へ行くのに、ここが近道だからだった。たまに、親爺がニジマスなどをごちそうしてくれるというのも、理由のひとつではあるんだけれど。
「そういやぁさ、最近流行ってんだね、それ。たまに森で練習させてくれって連中が来るんだよ」
月曜日となると、釣り客も少ない。もっとも一番釣れない時間帯だからというのもあるけれど、人気は少なかった。若い男と初老の男性が三、四人いるだけだった。
木の板で作られた危なっかしい橋をいくつか渡り、森を目指す。ところどころに色鮮やかなルアーが落ちているのを拾って歩く。今日は四つだった。
森の入り口には大きな岩がいくつも重なりあい、そこを小さな支流が流れている。昼間は木々の隙間から陽が射し、どことなく幻想的な眺めだ。その横を滑らないように抜けると、ぽっかりとあいた空間が姿を現す。釣り客の邪魔にならず、人の目も気にならないこの場所は、練習するにはうってつけだった。
この場所を教えてくれたのは松田さんだ。庭でやられるとガチャガチャ煩い、というのがその本音らしい。彼女をはじめ、ここの土地の人達はみな口は悪いし、そっけない連中ばかりだ。他所から来た者としては、まるで前からいたかのように振る舞われるのはむしろ心地よかった。愛想笑いがいらないのは気楽だ。そんな土地柄でも、噂というのはすぐに広まるらしく、街のスーパーや大型書店、フリーマーケットや病院施設の催し物などにも時折呼ばれるようになった。おかげで、事務所の社長にはありがたがられたものだ。
「死んだじいさんの跡を継ごうってのか」
初めて会ったとき、社長はそう言った。もとは老舗のちんどん屋だったというその会社は、大道芸人らを派遣する小さな会社だった。
「笑いは今やテレビのなかだからねえ。そんなに忙しくないから、薄給だよ」
「いいんです」
「ものずきだねぇ」
デモンストレーションしてみせると、社長は筋がいいと褒めてくれた。
僕の祖父はクラウンだった。クラウンというのは、道化師のことだ。日本ではピエロと言ったほうが馴染みがある。白塗りのパントマイムをする、 ヨーロッパの喜劇や道化芝居に登場する道化はピエロと呼ばれる。クラウンはおしゃべりもするし、手品や大道芸、アクロバットもやる。祖父は白塗りで、かつしゃべらないという芸風はピエロだったけれど、手品とパントマイムも得意だったという。そう教えてくれたのは父だった。
父は鉄道会社で働らくサラリーマンだ。転勤も食いっぱぐれもない堅実な仕事だ。生涯ピエロを続け、生活の安定しなかった父親を見て、自分だけはそうなるまいという月並みな選択だったらしい。高校生のとき、文化祭でやる大道芸の練習を家でしているとき、父は不機嫌だった。それでも、時折のぞいては、そこはテンポが違う、などと口を出した。
働きながら修行して、ゆくゆくはクラウンで食っていくと言ったとき、父は黙って深いため息をつき、こう言った。
「やっぱり血だな」
そこで初めて僕は、会ったことのない祖父の話を聞かされたのだった。
「親父は生涯クラウンだったよ。飯がなきゃ、飯を食うマイムでごまかすような筋金入りの道化師だ。年中旅まわりで、うちにいることなんか滅多になかった。俺を大学まで上げたのは母親の洋裁だよ。たまに親父の衣裳を縫ってるおふくろを見ると、いやな気分になったもんだ。なんでいもしない親父のためにそんなに苦労してるんだって。そしたら、クラウンっていうのは、人生を豊かにする存在なんだってよ。人を笑わせ、いるだけで心を和ませる仕事なんて立派じゃないか、その手伝いをするのは幸せなことだとか言ってな。豊かなんてものにはほど遠い家だったのによ。…結局、稼ぎが旅費で飛んじまうような外国でぽっくり死んだんだよ。芝居の最中に頭の血管が切れたらしい。誰もが、芝居なんだと思って、倒れた親父をじっと見ていたらしい。すると、仲間のピエロがおどけて出てきて、親父をひっぱたきながら舞台の袖に引きずってった。時々こけたり、手を振ったりしてな。誰もあのピエロが二度と起き上がることはないんだとは気づかないまま幕引きだ。…道化師なんて身内にとっちゃ迷惑な話だよ。おまえ、やるなら家族なんて持つんじゃねえぞ」
そうは言うものの、祖父の話をする父はどこか誇らし気に見えた。
森は涼しい。汗ばんだ肌の上を、森の空気がひんやりと撫でる。持ってきたクラブで腕を慣らす。クラブというのはボウリングのピンのようなもので、転がってもボールのように見失うことがない。ここでの練習で使うのは、いつもクラブかデビルスティックと決めていた。クラブが五本を超えるととたんに調子が悪くなる。同じ場所で間違えるのにうんざりし始めたとき、クスッと笑う声がした。辺りを見回したけれど、人の気配はない。気のせいだと思い、再び始める。また同じところで取り落とす。落としたクラブを拾おうと腰を屈めたとき、チッチッチと、舌打ちする音が聞こえた。顔を上げると、さっき越えてきた大きな岩の上に、人が腰掛けている。僕は驚いて、しりもちをついてしまった。なぜなら、それは釣り人ではなく、どうみてもピエロだったからだ。
黒いサテンのベストに、緑色の衣裳を着、山高帽の下からは赤茶けた巻き毛がのぞいてみえる。白塗りの顔はすっとぼけていて、チャップリンのようだ。
唖然とする僕に向かって、人さし指を左右に振る。そして、両手を腰に当て、首を傾げたかと思うと、片手を下から軽く振り上げた。クラブを寄越せ、ということか。
僕がクラブを投げてやると、彼は見ていろといわんばかりの表情をして、投げ始めた。それは見事なジャグリングだった。空中での回転の勢いもすばらしく、両腕も肘から上はほとんど動かない。彼はバランスの悪い岩の上でほとんど動かなかった。木々の間からもれる光はスポットライトのごとく彼を浮かび上がらせ、僕はほとんどあっけに取られて見入っていた。
彼が、釣り場の親爺が言っていた、最近練習しに来る奴なのだろうか。稽古するのにこのいでたちは奇妙だったが、僕はその技のすばらしさに嫉妬することしきりだった。
「あの、」
話し掛けようとするが、何を言っていいのか分からず、僕はただ拍手した。すると、彼はクラブをこちらに投げ返した。やってみろというジェスチャーに従って、僕はジャグリングを始めた。何度か失敗すると、彼は舌打ちをして、手首の動きを指示する。無論、黙ったままでだ。上半身のバランスの取り方、膝の曲げ具合、手首の返し方をところどころに差し挟む。彼の指摘は適格で、僕がふだん苦手としている箇所を知っているかのようだった。だいぶ息が切れてきたところで、僕はちょっと休憩、というのをジェスチャーで伝え、地面に腰を降ろした。
僕が汗を拭いていると、彼は岩の上からぴょんと飛び下りた。そして、パントマイムを始める。ひとり芝居だ。それは戦後の混乱期に海の向こうへ渡った一人の喜劇役者の物語りだった。
男は恋人を連れて、逃げるように異国へ渡った。男はクラウンとして舞台に立っていた。仕事のないときは、近くの葡萄畑で農夫として働いたり、大工仕事で日銭を稼いだ。恋人は美しく、男は彼女と暮らす毎日が楽しくて仕方がなかった。路上で芸をするときは、異国人だということもあって、時折警察に引っ張られたりもしたけれど、男の芸は苦をつぶしたような警官の顔ですらほころばせた。やがて大きな芝居小屋から誘われるようになると、人気も実入りも格段に上がった。恋人は男のささやかな成功を喜び、安いワインで乾杯した。何もかもが順調に思えたある日のことだった。客席の後ろで見守っていた恋人に、舞台の上から正式に求婚しようと袖にバラを仕込んだ男が見たのは、祖国からやってきた恋人の父親の姿だった。段取り通りに男の手から飛び出したはつかねずみと、それに慌てる男の仕種に、観客たちはおおいに笑った。恋人は父親に腕を引っ張られ、連れ去られてしまった。男はすでに描かれていた頬の涙の上に幾粒もの涙を流し、舞台の上から黙って恋人を見送った。袖のバラは日の目を見ることはなかった。
男はそれから毎日毎日手紙を書いた。連れていかれた恋人に美しいドレスと指輪を送った。しかし、ドレスは焼かれ、指輪は送り返された。男はアルコールに溺れ、自堕落な生活を送った。見かねた下宿先の主人に連れていかれた病院で、男は入院患者たちを観客に再びクラウンとして返り咲いた。人を笑わせ、人の笑い声によって男は再び生き返った。やがて、男は帰国することになった。住んでいた故郷は様変わりしていた。見慣れぬ故郷の街で、彼はかつての恋人が立派な家に嫁いだことを知った。恋人の幸せを知って男は安堵した。そして、自分もやがて子を持つ親となった。玉乗りの稽古の最中に息子の誕生を聞かされた男は、喜びのあまり飛び上がった。足はくじいてしまったけれど、おかげで妻と息子のところへ飛んで帰ることができた。男は妻の肩を抱き、息子に頬擦りをし、時折足をさすりながら生涯で一番間抜けで幸せなひとときを過ごした。
「それから、男はどうなったのですか、」
思わず尋ねると、彼は「そんなの決まっているじゃないか」とでもいうような顔をして、再びジャグリングをしてみせた。
「祖国でも成功したのですか、」
彼は大きく頷くと、人々の喝采を浴びている男を演じてみせた。しかし、金ならさっぱりだけどね、といったジェスチャーも忘れない。
「そうだ、玉乗り。あれは難しいですか。まだやったことがないんです」
すると、彼は無言で伝えてきた。
〈きみも毎日玉乗りをしているじゃないか。大きな玉乗りをね〉
そう言って、地面を踏みならした。
「地球じゃ大きすぎますよ」
〈いやいや、僕のあと、今度はきみががんばって走っている。だからこの大きな玉は回っているのさ〉
そして片膝をついてありがとうのジェスチャーをした。
苦笑する僕に、彼は稽古に戻れ、と促した。僕は来たときよりずっと自分の腕が上達しているのに気づいた。
どれくらい続けただろうか、腕が痺れて取り落としてしまったクラブを拾い、顔を上げると、さっきまで頷きながら見ていたピエロの姿はもうどこにもなかった。岩の向こうには流れの緩やかな川が見えるだけだった。
「はい、今日の収穫」
フィッシングセンターの親爺に拾ったルアーを渡すと、親爺は鼻をほじりながら「まいど」と言った。
「森で練習してる人って、あの人どこの人なの。さっき会ったんだけど、すごいベテランみたいだった」
親爺はきょとんとした顔で言った。
「ベテラン? しらねえな。たまにくんのはそこの小学校のガキどもだよ」
「子供じゃなくて、大人。僕よりずっと年上のさ」
すると親爺は眉間に皺寄せて、舌打ちをする。
「誰か勝手に入ってやがんな。今度見かけたら連れてきてくれ。ショバ代取ってやる。どんな奴だ」
「…白塗りのピエロ」
そう言ったとたん、親爺は大口を開けて笑った。
「そんな奴がいたらすぐ噂になってらぁ。夢でも見たんだろ」
アパートへ戻る途中の橋の上。
僕は今いた森を見下ろした。
〈あなたは誰なんですか〉
森の木々は風に揺れるばかりだ。
〈祖父ちゃんですか、〉
木々の間に一瞬だけ、とぼけた白塗りの顔がのぞいたような気がした。きっと夏の蜃気楼だろう。 |